????年 午前三時〇〇分
気がつくと、見知らぬ繁華街の入り口に立っていた。
「ここは……?」
どうしてここにいるのか、どうやってここへ来たのかもわからない。
頭の奥に薄く靄がかかったようで、考えが上手くまとまらない。足は地についているのに身体がふわふわと浮いている気がする。
目の前に広がるのは、年季の入った古びた町並み。煤けた看板、赤提灯、ひび割れたアスファルト。
どこか地方の小さな歓楽街のようなのに、通りを満たす熱気だけは都会の夜にも負けていない。どの店からも笑い声と灯りが溢れ、酔った男も派手な女もくたびれた老人も、誰もがこの夜に馴染みきった顔で歩いている。
「私……あれ?」
ふと視線を巡らせた先、とある建物の窓ガラスに映った自分を見つけた。
学生服姿の少女が立っている。
知らない顔ではない。たしかに自分だ。
でも、引っかかる。
頬の線も、肩の細さも、どこか頼りない。
次に視線を落とすと、伸ばした指先は細く、手のひらもまだ子供じみて見える。
この違和感の正体はわからない。
どうしてこんな姿をしているのかも。
そもそも、本当にこれが自分なのかさえ。
「――やっと来たか」
不意に声をかけられ、背後を振り返る。
しかし、そこに人影はない。
「ここだ、ここ」
声のした方へ視線を巡らせる。
唯一見えた生き物と言えば、少し離れた塀の上にいる一匹の黒猫だ。
すらっとした細身の体。狭い幅の塀の上に器用に座って尾をゆるく揺らしながら、こちらをじっと見下ろしている。
「私に声をかけたのは君?」
「おかしいか?」
「だって猫が喋ってる……あれ? 猫が喋ってたら変……なのかな?」
「あまり考えすぎない方がいい。ここに来たばかりだと、皆そんなもんさ」
「そんなこと言われても……なんか体がおかしくて……そもそもなんでここにいるのかも、ここがどこなのかもわからないの」
「安心しろ。それで正しい」
猫はくぁっと欠伸を挟んだ。
「お前、他に何か覚えてることはあるか?」
「覚えてること……えっと……誰かに会いたかったような……」
猫は「そうか」と言って、毛繕いを始めた。
「ここにいる間は好きなだけ飲んで、食って、遊んで過ごすといい。そうすれば今感じている違和感もなくなる」
「でもこんな格好じゃ……」
思わず、自分の胸元を見下ろす。
紺の布地。赤いリボン。膝丈のスカート。
どう見たって、学生の格好だ。
「何か問題があるのか?」
「そりゃ、えっと……その……」
毛繕いを続ける猫の言葉に、なにも言い返せない。
常識のはずなのに、何が駄目なのかわからない。
このまま待つのは時間の無駄と悟ったのか、答えを出す前に猫が先に口を開いた。
「大丈夫だ。ここではどんな姿でも、欲のままに過ごせ。店や他人に危害を加えないのであれば、何をしてもいい。なんなら、見ず知らずの奴と体を重ねて快楽に溺れようと、お前の自由だ」
塀の上の猫は、毛繕いをやめてこちらを見る。
金色の瞳が、妙に澄んでいて、不気味だ。
「私は……どれくらいここで過ごすの?」
猫は尾を一度だけ、ゆらりと大きく揺らした。
「お前次第だ。飲んで、笑って、泣いて、馬鹿騒ぎでもしてるうちに、気がつけば次へ行く」
「どういうこと?」
「いいから、とりあえずは何も気にせずここを楽しめ。ただお前には……おっ、丁度いいところに」
猫の視線が、繁華街の通りへ向けられる。つられて同じ方向を見ると、通りの真ん中を歩くひとりの女の背が目に入った。
酔っているのだろう。
栗色より少し明るく、淡い髪を靡かせながら、長い丈のスカートから覗く足元はおぼつかず、繁華街の柔らかな光の中を漂うように上機嫌にゆらゆらと右へ、左へ。
しかし、不思議と危なっかしさはない。まるで聞こえない旋律に合わせて踊っているようで、華やかさすら覚える程だ。
ただ、そんなことはどうでもよかった。
「……え?」
どうしてかは、わからない。
なぜかその後ろ姿に、胸の中心で何かが歪に跳ねた気がした。
「……あの人……」
「気になるのか?」
「……わからない」
猫は短く鼻を鳴らした。
「なら、ちょうどいい。相手をしてやってくれ。あいつはもう、随分長くこの街にいるからな」
「どういうこと?」
その問いには答えず、猫は塀の上でぐっと体を伸ばした。
「じゃあ俺は行く。あとは好きにしろ」
「ちょ、ちょっと待って」
「大丈夫だ。酔っ払ってるが、声をかければ喜ぶと思うぞ」
そう言い残して、黒猫は塀の向こうへ飛び降り、光が届かない暗がりへ溶けるように消えた。
気づけば残されたのは自分ひとり。目の前の繁華街は相変わらず賑やかなのに、急に自分だけが通りの真ん中へ放り出されたような心細さが胸に広がり、唇をきゅっと結ぶ。
黒猫を追いかけたところで、もう見つかる気はしない。
なら、あの背に声をかけるしかなかった。
胸の奥に引っかかった奇妙なざわめきを抱えたまま、足を進める。
不思議と駆け足になる。その背中が近づくたびに、鼓動が早まり、手が届く前に勝手に声が出た。
「あ、あの……!」
投げた声は、自分で思っていたよりもずっと細く、頼りない。
けれど、それでも届いたらしい。
千鳥足の女がぴたりと足を止め、ゆっくりと振り向いた。
髪がふわりと揺れ、ネオンの滲んだ光が縁取ったその顔に、胸の奥がまた強く跳ねる。
単に彼女の容姿が綺麗だから、というだけじゃない。
初めて見るはずなのに、どうしてかその目元も、上機嫌な頬の緩みも強く目を引く。
女は一瞬だけ不思議そうに目を丸くして、それからふっと笑った。
「なぁに?」
酒の回った声なのに、耳に触れる響きは妙に澄んでいた。
女は千鳥足のまま二、三歩こちらへ寄ってくる。
そして、私を抱き締めた。
「え……? ちょっと!」
突然のことに、身体が強張る。
彼女を剥がしかけた腕は、中途半端に持ち上がったまま止まってしまった。
酒の匂いの奥に、甘くて、どこか懐かしい匂いが混じっている。
知らないはずなのに。
こんなふうに抱きしめられる理由なんて、どこにもないはずなのに。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「……あ、あれ? 私、なんで?」
その行動の意味を理解できなかったのは、突如抱き締めてきた彼女も一緒だった。
腕の中にいる私を見て、ようやく我に返ったように目を見開くと、弾くように身体を離し、気まずそうに一歩、二歩と後ずさる。
「ご、ごめん! 私、なにしてるんだろ? ごめんね、飲みすぎたかなぁ」
「う、ううん……大丈夫」
小さく返すと、女は誤魔化すように笑った。
「なら良かった……それで、私に何か用?」
「あの……実は気がついたらここにいて、そしたら猫にあなたのことを言われて……」
「ふーん……よくわからないけど、わかった! 私が案内してあげる!」
女は私の手を取った。
「じゃあ早速行こう!」
その手は温かく、体温以上のなにかを感じた。




