お伽噺が現実に変わる日 Ⅴ
気が付けば私は膝をついていた。私のことを見上げていた男は、今では私のことを愉快気に見下ろしている。
「どうした、私の語った物語がそんなにも気に入ったか」
すべて作り話かもしれない。即興でストーリーを作り私を揶揄っているだけかもしれない。だがすべて作り話だとはどうしてか、思えないのだ。
お伽噺の世界など、あるはずのないものだと思っていた。
所詮は子供だましの創作で、人工物。現実には何も存在しない。
人喰いの怪物も、都合よく救い出される少女もいない。
ああだが本当に、彼の国にダーゲンヘルムの怪物が住まうのであれば、彼の少女が幸福になる世界だってあるかもしれないではないか。そう思えてしまう。そう願わずにはいられなくなってしまう。
「あの子は、」
「ん?」
「あの子は、本が好きだったのか」
男は目を細めた。それからややあって短く、ああ、とだけ返事をした。
それだけで私は立ち上がる勇気が出る気がした。
明日も、これから先も、生きていかれるような気がした。
真面目で、自己主張のできない、小さなあの妹が、どうして図書館に行くときだけ迷子になっていたのか。
ようやく、答え合わせができた気がした。
後悔など湯水のように湧いてくる。
なぜあの時、もっと彼女の話を聞かなかった。本が好きなのかと問わなかった。微かに匂わせた彼女の好きを、どうして私は知ろうとしなかった。小さな女の子は本になど興味がないと決めつけた。
でもそんな後悔を押し退けて、笑いがこみあげてくる。
あの生活で、誰でもない模範的な令嬢を熟してみせたあの子にも、好きなものがあったのかと。気づかないのは周囲だけ。あの子はちゃんと一人の人間として存在していた。
広い図書館の中、彼女を連れて帰る。
その記憶だけ、鮮明に思い出すことができた。
そしてその光景は決して、何年、何十年経とうともきっと、薄れることはないだろう。それは希望ではなく、確信だった。
「さて、エンツィアン・ビーベル。元公爵子息改めただの男よ。お前が愛し、見捨て、救えなかった妹は、お前のことも忘れ幸福に過ごしている。お前には贅沢すぎるほどの物語の結末だ」
「私のことも、調べていたのか」
「もう十分だろう。何も求めるな、探すな、手を伸ばすな。お前はただ願い、祈っていろ。物語がどうか現実であるようにと」
何もかもが非現実的だった。
殺されたはずの妹が、生きていて、ダーゲンヘルムで物語を愛でながら暮らしていると。
家の者以外にラクスボルンへ帰るとは伝えていないにも関わらず、図ったようにここにいる男。
決して社交的とも友好的とも言えないはずの自分が、初対面の男にこうも事情を詳らかに説明し、心の内を開示している現状。
男はわらう。
その口元は、楽しそうにも、嘲笑っているようにも、憐れんでいるようにも見えた。
「お前は、何者だ」
口から出たのはお粗末なつまらないセリフ。
そして私は心のどこかでその答えを知っていた。
おそらく男もまた、私が知りながらも問うていることを感じ取っていたことだろう。
男は室内においても取ることのなかった帽子を脱ぎ捨てた。
作り物めいた、けれどどこにでもいそうな整った顔。
だが何よりも目を引いたのは、やはりその赤い相貌だった。
夕日のせいではない。その目は確かに、爛々とその赤を迸らせていた。
この男は人間などではない。
「……ダーゲンヘルム王」
「大正解だ、愚かなる兄よ。かつてこの私を恐れ逃げ出した臆病者よ」
地獄の底から呼びかけるように、あるいはある種の気安さを孕んだ甘言のように男は仰々しく言う。
「お前が臆病であったことに感謝しよう。故に、私は面白いものを手に入れた」
「っシルフは!」
「先ほど語ったとおりだ」
一国の王が供も連れず一人出歩くことなどありえない。この男がダーゲンヘルム王であるはずがない。
だがこの死んだ街で、唯一足音を立てる者がいるならば、それはこの国を攻め滅ぼした怪物に他ならないのではないだろうか
人間の常識など、怪物に当てはめたところで仕方がない。
「語ってみせただろう。“捨てられた娘は、ダーゲンヘルムで本に囲まれ、末永く暮らした”と。……ああだが私にもお前の気持ちはわかるぞ。これは所詮未来の話。物語の結びには相応しくも今を生きる人間にとってはあまりにも脆弱で頼りなく聞こえることだろう」
「どういう、意味だ」
「選べ」
気が付けば男は私の目の前にいた。今すぐにでも蹴り上げられそうな距離。男はもうわらってはいなかった。
「後悔の多いことだろう。ならば願わずにはいられまい。“もう一度妹に会えたなら”と」
幾度となく願った。そう夢想しない日などなかった。もう一度会えたなら話をしたかった。もっとあの子を知りたかった。大切に思っていると、お前に罪があるなど一度たりとも思ったことはないと。そしてもう二度と離さないと。
「だがダーゲンヘルムの怪物は、一度手に入れた獲物を狙われるのがこの上なく嫌いだ。手を出そうとした、ゆえにこの国は死んだのだ」
「……ラクスボルンが、」
「まあこんな愚かな国のことはどうでも良い。……捨てたお前が再びあの娘に相見えることは許さん。故に選べ、妹を捨てた兄よ。あらゆるリスクを負いながら再びあの娘に会うことを願うか、妹は今もお伽噺の中で生きていると信じ、二度と手も伸ばさず、探らず、生涯を終えるか。選んでみるがいい愚かなる兄よ!」
「そんなもの、悩むまでもない」
男は一瞬にして虚を突かれたような表情をした。悩んで当然だと、懊悩して当然だと、この怪物は思っていたのだろうか。だとしたらこの怪物は、あまりにも人間のことを知らなすぎる。だがその表情だけは、ひどく人間染みていた。
「あの子の幸福を脅かしながら、どの面下げて会いに行けようか。あの子がダーゲンヘルムで笑って暮らしていられるなら、どうして私がそれを奪いかねないようなことを選ぶか。……二度と会えずとも良い、この思いを伝えられずとも良い。ただあの子が“末永く幸福に暮らす”ことができるなら、それ以外に私が望むことなどあるはずがない」
「……お前は」
「だが約束しろ、ダーゲンヘルム王。あの子を不幸にすることは許さない。あの子の歩む道、息絶えるその日まで、翳りなく祝福された幸福なものであることを、約束しろ」
「…………確約はできない、と言ったら?」
「あの子を奪い返すような真似はしない。だが私は生涯、いや死後まで続き、お前のことを呪おう。ダーゲンヘルムの怪物のこと、その国のことを」
自分でも随分と無茶苦茶なことを言っているのはわかっていた。
未来など、誰にも見通せない。絶対はないと、その言葉こそ真の誠実さかもしれない。だが敢えて私は要求する。お伽噺の中の住人なら、それくらいやって見せろと。
「…………ふ、ははははははっ! まさかそのようなことを宣うとは! 力なき、臆病で逃げるしかなかった人間が、傲慢にも私に要求してみせるか! ああ、馬鹿馬鹿しい、なんという蛮勇。……呪うなど、今すぐにでもお前を殺せる私に宣うのか」
「宣うさ。生憎と私には祈ったり願ったり呪ったりする程度のことしかできなくてね」
ダーゲンヘルムの怪物は心底おかしいとでも言うように喉の奥で笑った。
「臆病者という言葉は取り消そう。度胸だけはあるようだ。……約束しよう。あの娘の幸福を。最期のときまであの子の笑顔は絶えず、祝福された道を歩むことだろう」
膝をついたままだった私に、黒い手袋を纏った手が差し伸べられる。にやにやと笑う男を、私はもう恐ろしくは思わなかった。その手は華奢な見た目に反して力強かった。
「さあ、行け。間もなく日が落ちる。夜は人間の味方ではない。二度と振り向くな。手を伸ばすな。背を向けて行くがいい」
「……任せても良いか」
「この期に及んで随分と可愛らしい言葉を選ぶな。…………任せろ、行け。そしてこれは餞別だ」
ダーゲンヘルムの怪物は私の手に1通の手紙を握らせた。
「これは、」
「ああ、シルフからではないぞ。先ほど屋敷の郵便受けに入っていた。お前は随分と緊張していて気が付かなかったようだから勝手に拝借した。だがお前宛のものであろう」
「手癖の悪い怪物だな」
消印も何もない。直接投函されたものらしいが、封筒は既に擦り切れ退色していた。いつ投函されたものかもわからない。私はとりあえずその封筒をカバンに入れた。
「さあ行け、疾く」
「……ああ、もう二度と会うことはないだろう」
踵を返そうとして、それでも喉の奥まで出かかった言葉が私の身体を引き留めた。
その言葉を言うに相応しいか、わからない。今ですら、この男の語ったことがすべて事実かもわからないのだ。全て嘘かもしれない。それどころかこの男すらダーゲンヘルムの怪物とは無関係な者かもしれない。
だが、任せても良いかと問い、少しだけくすぐったそうに了承したこの男を、私は信じようと思った。
「……ダーゲンヘルム王」
「なんだ」
「あの子を助けてくれて、ありがとう。あなたに心からの感謝を」
私では救えなかった。
力も、勇気も、頭脳も、なにもかも足りなかった。たとえ彼女を救ったのが、かの悪名高き人でなしであったとしても、シルフが今笑って暮らせているのであれば、それ以上の救いはない。
「……礼には及ばん。ただの気まぐれだ」
ダーゲンヘルムの怪物はひらひらと手を振った。
「陛下」
「行ったか」
「ええ、近くの宿屋まで無事帰ることができるでしょう」
エンツィアン・ビーベルを見送ったレオナルドが戻って来て、何かもの言いたげな顔をした。
「どうした」
「なぜ、お嬢さんに今日のことを伝えなかったんですか」
「どうしてかわからんか」
そう切り返すと明後日の方へ眼を逸らした。長い付き合いであるこいつがわからないはずもない。ただわかったうえで、聞きたかったのだろう。あるいは非難したかったか。おそらくはどちらもだろう。
ほとんど日の落ちた街を歩く。
元公爵家にはずっと見張りをつけていた。ラクスボルンがシルフのことを探り出してからずっと。ラクスボルンが彼女を求める裏に、ビーベル家がいるのではないかと。結果として、ビーベル家は無関係だった。彼らは新天地で細々と、しかしたくましく生きていた。
シルフから聞いていた通り、彼らは彼女に興味がないのだと思っていた。
だがそれが少し違うと思ったのはラクスボルンの図書館から連れてきた職員たちの話を聞いてからだ。
シルフは最初図書館へ来た頃は兄に連れられていて、彼女を見失うと兄は血相を変えて探していた、と。
それは古い記憶で、なおかつ外から見た姿でしかない。少なくともシルフは家族から大切にされていたという認識はないはずだった。
けれど先日、ビーベル家が世代交代するという話が見張りから入った。そして当主となる兄、エンツィアンがラクスボルンへ戻ろうとしていると。
私が行く必要はなかった。ただ報告を受けるだけでも良かった。
ラクスボルンには、何もない。誰もいない。ただ置き去りにされた街があるだけだ。
からっぽの街に、どんな用があるのか。何を求めているのか。ただ郷愁に浸りに来たか。
わからなかった。何もわからないのに、なぜか知りたくなった。会ったこともない人間に興味が湧いた。
理由はそれだけで十分だった。
「優しそうなお兄さんでしたね。貴族にしてはいっそ純朴すぎるくらいでは?」
「そうだな」
「なんの害もなさそうですね。無理やりあなたからお嬢さんを奪ったりはしないでしょう」
「そうだな」
「……それでも、お嬢さんには何も伝えないつもりですか」
それは明確な非難だった。
じろりと睨み上げるが、レオナルドは目を逸らすことなく俺のことを見下ろした。
「出過ぎたことを申し上げている自覚は重々あります。ですが他に誰もあなたに申し上げる者はいないと思いますので」
「……伝えてどうする。お前の兄は再びお前を置いて逃げたと?」
「表現に悪意があります。あなたが追い払ったのでしょう」
呆れたという声色に思わず目を逸らす。
再び兄が去ったのは彼女を捨てたからではない。彼女の幸福を心から願ったからだということは、さすがの私にもわかっていた。
触れないことで、求めないことで幸福が保証されるのなら、会いたいという自分の願いを躊躇なく捨てることができるのかと、舌を巻いた。そしてそれがわからなかった自分の無理解をわずかばかり恥じた。
そしてそれこそ、彼がシルフを愛した証明だった。
「……手放さぬことが、囲うことが愛ではなかったのか」
無意識のうちに口から零れた。そして自分の言葉にハッとして足を止める。足を止めているのは私だけではない。すぐ上を見上げるとレオナルドが目を丸くしていた。微かに開いた口は呆けているように見える。だがその表情にわずかばかりの笑いが見え隠れした。
「っぐ……なんで今殴ったんですか!?」
「私を見て笑ったな?」
「んぐ、笑ってなど、笑ってなどは……笑ってもいいですか?」
「張り倒すぞ」
もう耐えられないと言わんばかりに笑い出すレオナルドを引っぱたくがまるで効果がない。その笑い声につられて近くにいた騎士たちまでもなんだなんだと姿を現す。だが何があったかなど説明できるはずもない。
何が正しいのかはわからない。ただ私の選択がすべて正しいわけではないのだと、一瞬顧みただけの話だ。
「陛下、ダーゲンヘルムへ帰るまで時間はあります。それまでに、考えましょう」
「何をだ」
「あなたの愛情表現と彼女の幸福について。……お嬢さんの人生を翳りなく祝福された幸福なものにするんでしょう?」
わかりきったことを改めて言い聞かせるように口にするレオナルドの脇腹を小突いた。
私は考えなければならない。
彼女を気に入り、傍に置いた怪物として。
かの男が願ったように、捕らわれた少女を救い出した怪物として。
そして彼女の幸福を守る者として、私は考えなければならない。
優しく嫋やかな彼女が、どうしたら笑顔で過ごすことができるのかを。
赤く輝ける落陽は誰もいない静かな街の影へと姿を消していった。