後編
「はあ……」
化粧室で手を洗い、千春は大きく息を吐く。
まだ一杯も空けていないのに、頬は赤く染まりまるで酔っぱらっているようだった。
千春は洗った手で顔を濡らす。濡れた顔をペーパータオルで拭くと、ようやく一心地ついた。
こういったことは別に初めてではなかった。
人気者の幼馴染と言う微妙な立場にいると、こういったもめごとは悲しいかな、日常茶飯事だった。
告白を断れた子、これから告白しようとする子、相手は多種多様だったがやることは皆そろいもそろって同じだった。まあ、彼女たちからしたら千春はいわば目の上のたんこぶ。嫌みをいわれるのは当たり前。あからさまに罵倒してくることも悲しいかな普通のことだった。
だが、あんな風に自信満々に見せつけられたのは、正直初めてのことだった。
それだけ自信があるのだろう。
千春より自分のほうが悠に似合いだと。
たしかにその通りなのだろう。
幼馴染といっても、たまたま家が隣同士だっただけ。彼ならば自分じゃなくてもきっと大切にしただろう。
きっとそうだ。
気になる存在だけど、一番には決してしない。
一番になるのは彼女のような見た目も綺麗で、自信があって、彼の隣に立っても見劣りすことのない彼女のような人だ。
千春は拭ったペーパータオルをくしゃくしゃに丸めた。
と、その時、化粧室の扉が開き、嗅いだばかりの甘い香りがふわりと鼻孔をかすめた。
みずほだ。
彼女は鏡の前にいる千春に驚く様子もみせず艶然と微笑んでみせた。
「あら、こんにちは……えっと」
「加藤です。加藤千春」
「ああ、そうだったわね。ごめんなさい」
尋ねたものの、千春の名前など最初から覚える気などないのだろう。悪びれた様子もなくにっこりとほほ笑むと、彼女はもっていたポーチからグロスを取り出し塗った。
「ごめんなさいね。さっきは邪魔をしちゃって。気分を悪くしたんじゃない?」
「い、いえ……そんなことは」
「そう? ならよかった」
まつ毛をくるりとカールさせ、アイライナーで縁取られた目じりがふっと緩む。その笑みは女の自分ですらどきりとするほど美しい。悠が魅かれないはずがない。
それぐらい彼女は美しかった。
自分の平凡さがより一層際立って見えた。
千春は丸めたペーパータオルをダストボックスに入れるふりをして、顔を伏せた。
「じゃ、失礼しま」
「あの、千春さん?」
出て行こうとする千春は、ふいにかけられたみずほの声に思わず立ち止った。
「……なんでしょうか」
おずおずと振り返る千春にみずほは艶然と微笑んで見せる。
「私と悠さんとても相性がいいの。今まで仕事の上でパートナーなんて必要ないって思っていたわ。だってそうでしょう? 足手まといにしかならないパートナーなんて邪魔なだけでしょ? けど、彼はまったく違ったわ。あんなにできる人そうそういない。大阪で一緒に仕事をしたけど、本当に彼は素敵だったわ。きっと仕事だけじゃない……」
みずほは笑みを深くする。
「仕事以外でも、彼は良いパートナーになると思わない?」
「仕事以外……」
首をかしげる千春に、みずほは喉を鳴らすように笑う。
「わからない?」
わからないというよりもわかりたくないといったほうが近い。黙りこくる千春に、みずほは浮かべた笑みをふっと消す。
「好きなの、彼のこと」
「あ……」
やっぱりそういうことか。
うなずくこともできないまま、千春は鏡越しに彼女を見つめた。
自分の顔はおそらくひどくおどおどとしていることだろう。彼女は再び勝ち誇ったような笑みを浮かべ、化粧室から去って行った。
それからどのぐらいたったのだろう。
化粧室の鏡の前に立っていた千春は、痛いほど手を洗った。何度も何度も。
別に、初めてじゃない。
こんなこと何度もあったことじゃないか。だって、自分はただの幼馴染。自分の気持ちはどうであれ、彼が誰をを選ぼうとも何かを言える立場ではない。
千春は濡れた手を再びペーパータオルで拭うと、のろのろと化粧室を出る。
なんとなく感じていた。もしかしたら、もう彼はいないのではないか。
自分に気を使ってあんなことを言ってはいたが、仕事の打ち上げなら顔を出さないわけにはいかないだろう。
足が酷く重い。ゆっくりとテーブルに戻ると彼は……いなかった。
食事はまだ途中だったのか。取り皿には食べかけの串焼きが載っていて、グラスは空になっていた。
千春は崩れ落ちるように椅子に腰を下ろす。テーブルの上にはぬいぐるみがぽつんと置いてあった。それがなんだかとても淋しかった。
「……あ、そっか」
用事というのはこのことだったのか。
ああ、とうとう来たのだと千春は思った。
いつか来るとは思っていたが、それが今日だとはまさか思いもしなかった。
千春はバックを引き寄せた。
今すぐ目をみておめでとう、ということは流石にできそうもなかった。
心の痛みはすぐに消えることはない。きっと長いことかかってしまうだろう。何しろ今までずっと好きだった。忘れて何事もなく笑えるにはそれ以上の年月がかかるだろう。
けれど、大丈夫。
痛みはいつまでも同じじゃない。時間がゆっくりと傷をいやし、傷口はかさぶたになりやがて跡も残らず消えてしまうことだろう。
その時にはきっと笑える。彼にむかって笑えるはず。
出来の悪い幼馴染として、彼の前にたち笑って応援できるはず。
千春は椅子から立ち上がり、自分が座っていた場所にぬいぐるみを置く。そしてにぎやかな店内を抜け、そのまま店を出る。
通りは未だ宵の口ともあって酷くにぎやかだった。
そのおかげというべきか。千春がどんなに酷い顔をしてようとも誰ひとり、気に留めるような人はいなかった。
「どういうつもりですか」
店の端。個室へと続く狭い通路の奥。その壁に背を預けるように立っていたみずほは、険しい顔をした悠に軽く眉をあげた。
「あら、なんのこと?」
質問の意図はわかっているだろうに。
あくまでとぼける気か。にっこりとほほ笑む彼女に、悠は両手を固く握りしめる。
「今日は用事があると言っていたはずです。それなのにどうしてここに」
「あら、別にあなたを追ってきたわけじゃないわ。偶然よ、偶然」
「偶然……ですか?」
怪訝そうに見つめる悠に、みずほは微笑んだままうなずく。
「なあに? 気にしすぎじゃないかしら。それとも、あの方に誤解されたら困ることでもあるの? 悠さん言ってたわよね、あの人、幼馴染だって。ただの幼馴染じゃないの?」
「それは……」
悠の唇がぴたり、と止まる。かすかに開いた唇からは言葉にかわり、出てきたのはため息だけだ。
「失礼します」
「悠さん!」
みずほの顔から笑みが消える。すっと伸ばした彼女の手が、悠の腕に絡む。
「ねえ、仕事でもプライベートでもあの子よりも私の方がずっと力になれるわ。わかるでしょう?」
「力……ですか。たしかに」
悠は腕にかかっていた彼女の手を引き剥がす。
「あなたは優秀だと思います。多分、彼女よりもね」
「だったら」
彼女の表情に歓喜の色が浮かぶ。だが、それをさえぎるように悠は儀礼的な笑みを浮かべた。
「失礼します。みなさんによろしく」
そう言い放ち、悠は踵を返した。
店は相変わらず騒がしい。せまい通路には店員と客が行き交い、ごった返している。悠は人の間をすり抜けながら、テーブルに戻る。
そこは先ほど、席を立った時と寸分変わらなかった。飲みかけのグラスも、食べかけの串焼きも小皿の上に転がったまま。
肝心の彼女の姿は、まだ無かった。
「……戻ってきてないか」
悠は小さくため息をつき、席に座る。
みずほの噂は何度も耳にしていた。
見た目の美しさはさることながら、成績はおそらく社内でもトップクラス。やり手の営業マンだ。おそらく悠をふくめ若手のなかでは一番の出世頭だろう。
男顔負けの力強さを見せたかと思いきや、女性らしい細やかさも忘れない。
そんなに凄いならば一度は一緒に仕事をしてみたいと思っていた悠は、今回奇しくもその機会に恵まれた。そして噂が決して誇張などではなく、本当だとわかった。実際に今回の仕事、彼女がいなければこれほどスムーズに進むことはなかっただろう。手際も気配りも、彼女から学ぶべきことは山ほどあった。
そう率直に述べたところ、彼女はすこし驚いたような表情を浮かべた。
……具体的にどうとはわからない。ただ、少しだけ複雑そうな、それでいて嬉しそうな表情だった。
今思えばこの時気がつくべきだった。彼女の反応の意味を。
だが、仕事がうまくいったこともあって少し浮かれていたのかもしれない。だから彼女が出張先のホテルにまで押し掛けてきたり、プライベートのことを聞きたがったこともあまり深く考えなかった。
その結果がこれだ。
自分のうかつさに腹がたった。
そう、いつもそうだ。大切にしたいと思っているのに、自分がいるばかりに彼女を傷つけてしまう。それはわかっていた。けど、離れることもできない。
手前勝手な理屈だとわかっていた。
悠はすっかり気の抜けてしまったビールを口につけながら店内をぐるりと見渡す。
相変わらず千春は戻ってくる気配はなかった。
「遅いな……」
手を洗いに行ったにしては時間がかかりすぎる。
ジョッキを戻しながら、悠は千春の座っていた席を見る。瞬間、悠は蹴るように席を立つ。
先ほどまであったはずの彼女のバックが消え、代わりにおいてあったのは上げたばかりの兎のぬいぐるみだ。先ほど嬉しそうに彼女が抱きしめていたそれが、椅子の上にこてんと倒れていた。
悠は彼女に椅子にあったそれを取り上げる。
掌に感じるそれは酷くやわらかで、昔感じたことのある何かを彷彿とさせた。
悠はテーブルの端においてあった伝票をつかむと、そのままレジへと向かった。
駅のホームは電車が行ったばかりなのかがらんとしていた。
誰もいないホームのベンチに腰をおろし、千春は再び目頭を拳で拭う。
どうせこんなものだ。昔から何度も言われてきたことではないか。平凡な自分にあんなに出来た幼馴染がいるなんて、おかしいと。
――えー、だって、似合わないじゃない
いつだったか。悠の取り巻きの一人が、そう言ったことがあった。
それを聞いた千春の友人がひどく怒りだしてえらい騒ぎになったことがあった。己がことのように憤慨してくれる友人に感謝しつつも、どこか冷めた感覚が自分の中にあった。
なぜなら、誰よりも千春がそう思っていたからだ。
成績優秀で、人気もあって、性格も良くて、スポーツ万能で。中学、高校と生徒会長をつとめあげ、何をやらせてもそつがない。唯一の欠点であるはずのセンスのない土産物ですら、彼の魅力を高めるエッセンスでしかない。
千春はぼろぼろと涙を流しながら、くすりと小さく笑う。
「あの御土産はほんと、ないよね……」
何しろ根性というプレートがついたキーホルダーなんて、いまどき誰も買わないだろう。いまどきはどの土産物屋にいってもかわいいキャラクター物なんて沢山あるのに、それを差し置いてあんなセンスのない物を選ぶなど。本当にセンスのかけらもない。
けれども、誰でもなく自分だけにくれるそれは、どんなへんてこなものでも嬉しかった。誰も知らない彼を知っているような気がしていた。けれども――
「千春!」
向かいのホームから叫ぶ声が響く。
千春ははっとしたように顔をあげる。改札をぶつかるように出てきたのは、悠だった。とっさに立ちあがった千春に、悠は叫んだ。
「そこを動くな! いいな!」
そう言うと悠は階段にむかって走り出した。
聞いたことないような強い言葉に、千春は立ちすむ。
今は会いたくなかった。けど、電車が来るにはあと十数分待たなくてはならないし、逃げ出そうにも行く手には悠の姿があった。
足音が近づいてくる。千春は膝の上に落ちたバックの取っ手を強く握りしめた。
「千春……」
店から走ってきたのだろうか。息は荒く、額にはうっすらと汗がにじんでいる。
「どう、して……黙っていなくなったの?」
「それは……」
言いかけた言葉をさえぎるように、千春は口を真一文字に引き結ぶ。そうでもしなかったら何もかもぶちまけてしまいそうだった。悠はため息をついた。
「何か言われた?」
千春は黙ったまま頭を振る。
「だったら」
「……いいよ」
ぽつり、と零れ落ちた千春の声はかき消えそうなほど小さいものだった。
彼女はゆっくりと顔をあげる。瞬間、悠の胸がずきりと痛んだ。
赤らんだ目じり。長めのまつ毛には小さな雫がわずかに残る。明らかに泣いていた。
「ちは……」
「忙しいんでしょ。大丈夫だよ!」
泣き顔とは正反対の明るい声に、悠は思わず口をつぐむ。
「私なら一人でも大丈夫だから。ほら、会社の人、待っているんでしょ」
ね、と笑いかけた彼女の顔は、時々見せる困った顔に似ていた。
黙りこんでしまった悠に、千春は思わず顔を伏せる。
嫌だ。こんなこと、言いたくないのに。どんなことになっても一緒に居たいのに。
うつむいたまま、千春はバックを持つ手に力をこめる。
そうでもしていないと、泣き出してしまいそうだった。黙りこんだ悠は軽く目をふせ小さく息吐き出すと彼女の隣にどっかりと腰を下ろした。
ほっそりとして居るように見えるが、近くにくるとやはり大きく感じた。肩幅も腕も千春と比べるまでもない。
悠はやや乱暴な手つきでネクタイを緩め、ワイシャツのボタンをはずす。
走っていたせいだろう。喉を伝う汗を手の甲で拭う。顔をふせたまま、ちらちらと隣をうかがっていた千春は、彼のしぐさ一つ一つに心臓が跳ねた。してはいけないと思えば思うほどどきどきした。
と、悠があのさ、と切り出した。
「忘れ物」
ぼっそりと呟き、バックを命綱よろしく握っている彼女の手の上にぽんと何かを置いた。
やわらかな感触。あのうさぎのぬいぐるみだ。
「あ……」
ありがとう。消え入りそうな彼女の声に、悠は頬をわずかに緩める。
「千春、さっきどうして今日呼び出したのか聞いたよね」
「え、あ、う、うん」
おずおずとうなずくと、悠は困ったように眉を寄せた。
「お土産っていったけど、あれは……なんていうか話の切っ掛けのつもりだったんだ」
「きっかけ?」
そろりと顔をあげた千春は、向かいのホームをみつめたままの悠の横顔を見る。
彼女の視線に気が付いているだろうに、彼はこちらを決して見ようとはしない。
悠は再び息を吐き出す。それは、何かを決心したようにみえた。
「先週さ、外回りしているときに偶然見かけたんだ」
「見た……って誰を?」
悠はゆっくりと視線を彼女に向ける。訴えかけるような視線に、千春は首をかしげた。「え? 私?」
悠はうなずく。
「どこで? 見かけたなら声をかけてくれたらよかったのに」
「……かけようと思ったよ。けど、独りじゃなかったからできなかった」
「え? 一人じゃないって……」
わけがわからない。不思議そうに見つめる千春に、悠はわずかに顔をしかめる。
「男」
男? 一緒? 先週? 単語がぐるぐると駆け巡る。
先週の予定はどんなだっただろう。頭の中で先週のスケジュールを思い出してみる。だが、別に特別なことなどない。いつもと同じ一週間だったようにおもえた。が、次の瞬間千春はあっと声をあげた。その声に悠の顔がわずかに曇った。
「そういえば……」
先週、一度だけ後輩の代わりに得意先に出かけたことがあった。内容は届け物だった。たしかその時、同行してくれた営業の人と帰り際にお茶をした。だが、その人はただの同僚だ。彼にはれっきとした婚約者もいる。自分だって彼のことは同僚以外なんの感情もない。
そう告げる千春に、悠はこわばっていた頬をゆるめたかと思うと、頭を抱え込むように顔をふせ、大きなため息を一つ落とした。
「あ、あの……もしかして、今日の用って」
「そう」
悠は顔をふせたまま、やけくそ気味に叫ぶ。
のっそりと顔をあげた悠の表情は、今までにみたこともない――幼馴染のものでも、兄がわりでもなかった。
心臓が跳ねる。
千春は反射的に顔を伏せる。が、動きは彼の指で封じられた。すくい上げるように顎を持ち上げられる。
「ゆう……」
「千春が好きだ」
千春は眼を大きく見開く。
「うそ」
「うそじゃない。ずっと好きだった」
顎にかかった指がするり、と肩に滑る。 また心臓が跳ねた。
千春は小さく頭を振る。
「違う」
「本当だよ」
悠は肩に置いた手に力をこめ、覗きこむように視線を合わせる。
「気が付かなかった?」
千春は答えない。黙りこんでしまった彼女に、悠は小さく笑う。それはまるで自嘲しているようにも聞こえた。
「だと思っていたよ。千春が気が付いていないんだろうなって。でも、それでもいいと思ってた。兄とか、幼馴染とかしか思っていなくてもかまわない。千春の近くにいられればそれでいいって思ってた」
けど、と呟き、悠は浮かべていた笑みをわずかに曇らせる。
「他の男と一緒のところを見た瞬間、そんなの嘘だと気がついた。だから」
悠はゆっくりと千春を引き寄せる。
肩にかかっていた手を千春の背に回し、さらに強く抱きしめた。
「もう、自分を誤魔化すのはやめた」
「……ゆう、く」
千春は思わず顔をあげかける。だが強く抱きしめられているせいで、わずかに身じろぎをしただけになった。
強く抱きしめられたまま千春は体を固くこわばらせる。
いままでそんな素振りを見せたことがないのは悠だって同じではないか。
昔から自分に対する態度は妹のそれを全く変わらない。同じ学年の女の子に見せていた態度とはまるで違っていたのを知っている。
いつか……、いつかは自分のことを幼馴染なんかじゃない。妹としてでもない。一人の女性として見てくれるだろう。
そう思い続けてきた。
けど、悠と会うたびにその気持ちが砕けそうになった。彼は何もかわらなかった。
千春は体をよじり、強引に悠を引き剥がした。
「だって、悠くんだってそうじゃない! 同じじゃない! 私のこと妹みたいにしかおもってなかったじゃない!」
悠の目がわずかに開く。
「妹とか幼馴染とか、そう思っていたのは悠くんじゃない! 私は、そんなこと一度もおもったことなんてなかったのに!」
「千春……」
悠はふう、とため息を落とし、背中にまわしていた手をふっと緩める。
だが、決して手が離れることはない。
悠は離れた距離を縮めるように彼女の額に自分のそれをくっつける。見つめる視線は先ほどよりも優しく、そして甘い。
「それって俺のこと好きってこと?」
「……っ!」
ぎょっとしたように目を開く千春は、あわてて後ずさろうとするが背中にまわされたままの手が邪魔をして下がることはできない。
千春はおどおどと視線をゆらす。
「そ、それは」
「それは?」
「……それ、は」
頬が熱い。視線を上げることはできない。体を押し返す手が震えて、力が入らない。
合わせた額はそのままに、背中にまわされた悠の手に力がこもり、ゆっくりと引き寄せられる。
「千春」
「は、はいっ」
思わず上ずって変な声になった千春に、悠はくすりと笑う。その笑い声すら、肌をくすぐるように感じられるほど近い。
視線をそらそうにも逃げ場はどこにもなかった。
「ちゃんと言って」
「な、何を……」
「だから、返事」
やんわりとした物言いだが、逃げることは許してくれそうもない。
千春はゆっくりと顔をあげる。視線が絡み合う。
「す……き」
「もう一度」
悠の鼻先が千春のそれをかすめる。
くすぐったさと甘さが体中を駆け巡る。
「好き……ずっとずっとす」
最後の言葉は、声にならなかった。開いた唇に悠のそれが重なる。声にならない言葉は彼の口の中に吸いこまれる。
重ねた唇は彼の性格をそのままあらわしたように優しい。だが、やがて優しさは激しさにかわっていった。差し込まれた舌がゆっくりと彼女の中を蹂躙する。苦しくなって何度も離れようとしたがそのたびに捕らえられる。
まるで全てを確認するかのように角度を変え、深さをかえられた。体の力はあっという間に抜けてしまい、今にも崩れてしまいそうだった。そんな彼女を悠はさらに強く引き寄せる。
ようやく離れた時には千春は彼の肩に頭をのせ、ぐったりと息を吐き出すばかりになっていた。
「よかった」
悠はぽつり、と呟きながら彼女の頭に唇を寄せる。
恥ずかしいやらくすぐったいやらで千春は思わず視線を落とす。と、彼女の膝にあのぬいぐるみがおかれた。
「……悠くん?」
「これ、実は土産じゃないんだ」
千春は顔をあげる。
「お土産じゃない?」
じゃあ、これはどういう意味だろう。不思議そうに首をかしげる彼女に、悠は膝においたぬいぐるみをそっと持ち上げる。と、ただのぬいぐるみだと思っていたウサギのくびにきらりと光るものがかかっているのが見えた。
首に巻きつけられたリボンに引っかかっているのは指輪だ。
不思議そうに見つめる彼女に、悠は照れたようにほほ笑みながらそれを引き抜く。銀色のリングの中央に光るのは小さな石。透明な石がホームを照らす蛍光灯の光を反射しキラキラと輝く。
「……指、出して」
悠にうながされるまま、千春はそろりと手を出す。
ほっそりとした指にリングがさしこまれる。まるで計ったようにぴったりとはまったリングに、千春は驚いたように目を見開く。
そんな彼女にむかって悠はにっこりとほほ笑む。
「ようやく俺のものになった」
嬉しそうに呟くと悠は再び彼女を抱き寄せる。
ホームに電車の到着を知らせる電子音が響いた。