死にたい
男は死体の間で本を探していた。
森の奥にあるエルフの集落は朝でも薄暗かった。幾重にも重なった枝葉が空を覆い、焼け跡から上がる煙を木々の間に閉じ込めていた。
男と共に集落を襲った兵たちは、金に換えられるものを奪い、森を去った。戸口は壊され、棚や箱は開け放たれ、家々の間にはいくつもの死体が転がっていた。
男だけは集落に残り、燃え残った小屋を一軒ずつ見て回っていた。
顔は兜に隠れ、右腕は金属の腕甲に覆われていた。腰に一振りの剣を差し、足元に伸びた腕を跨いで、崩れかけた戸口をくぐった。
煤にまみれた紙の束が床に落ちていた。
男はそれを拾い、表面を指で払った。かろうじて残っていた文字は黒く潰れ、紙の端は触れたところから崩れていった。
手を放すと、黒い欠片が床へ散った。
男は次の小屋へ向かった。
最後の小屋に入ったとき、壁際で何かが震えた。
薄汚れたエルフの子供だった。両膝を胸元まで引き寄せ、その間に顔を埋めていた。
男が入ってきても顔を上げず、細い肩だけを小刻みに揺らしていた。
男は足を止め、しばらく子供を見下ろした。
やがて視線を外し、室内を見回した。窓は割れ、テーブルは中央から折れていた。煤に汚れた床板には大きな穴が開き、その周りに割れた食器が散らばっていた。
部屋の奥には、本棚が倒れていた。
その下から、革張りの表紙が覗いていた。
男は本棚の前にしゃがみ込み、隙間へ手を差し入れた。指先が革張りの表紙に触れたとき、背後から声がした。
「死にたい」
男の手が止まった。振り返ると、子供は膝の間に顔を埋めたままだった。
男は何も言わず、本棚から手を抜いて立ち上がると、傷んだ床板が軋んだ。
男が近づくたびに床板が鳴り、そのたび子供の肩が跳ねた。
足音が目の前で止まると、子供はゆっくりと顔を上げた。
顔を覆う兜が、すぐ目の前にあった。
男は腰の剣を抜き、切っ先を子供へ向けた。
子供の目が大きく開いた。口が動いたが、声にはならなかった。両手で床を押し、身体を引きずるように後ろへ下がった。
男が剣を振り下ろすと、子供は咄嗟に身体を横へ投げた。刃が、先ほどまで子供の頭があった場所の床板へ深く食い込み、板が割れた。
男が剣を引き抜く間に、子供は立ち上がって部屋の隅へ逃げ、壁に背中をぶつけた。出口は男の後ろにあり、脇の床板には大きな穴が開いていた。
男が壁際へ間合いを詰めると、子供の息が浅くなった。肩を大きく上下させ、何度も空気を吸おうとしたが、喉から細い音が漏れるばかりだった。
やがて脚から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
男は子供の首を片手で掴み、壁へ押しつけた。細い身体が床から浮いた。
子供は男の手首を掴み、爪を立てた。足をばたつかせるたび、踵が壁を擦った。爪が腕甲に当たり、乾いた音を繰り返したが、男の腕は動かなかった。
剣先が額に触れても、子供は腕甲を掻き続けた。
男が剣に力を込めると、手首を掴んでいた子供の指が緩み、身体から力が抜けた。
子供は目を固く閉じた。腕甲を掻く音も、壁を擦る踵の音も途絶え、小屋は静まり返った。
その中で、子供のお腹がかすかに鳴った。
男はしばらく動かなかったが、やがて剣を引き、子供の首から手を放した。
身体が床へ落ちると、子供は首を押さえ、身を折り曲げて何度も咳き込んだ。
男はその姿を見下ろしたあと、腰の袋から硬いパンを取り出し、子供の膝の前へ投げた。
「食え」
男は剣を鞘へ戻した。
折れた床板や壁板を拾い、暖炉へ放り込んだ。慣れた手つきで火をつけると、汚れた床へ腰を下ろし、剣を手の届く場所へ置いた。
それから倒れた本棚へ戻り、下に挟まっていた本を引き抜いた。表紙についた煤を払い、破れていないことを確かめると、剣の隣へ置いた。
「死にたくなったら言え」
咳き込んでいた子供の身体が固くなった。
「俺がお前を殺してやる」
子供は答えなかった。
涙と鼻水に濡れた顔を伏せ、もう一度、身体を小さく丸めた。
男はそれ以上何も言わなかった。剣の隣に置いた本を手に取り、火の明かりを頼りに読み始めた。
夜が深くなるにつれ、薪の爆ぜる音は少なくなっていった。
*
割れた窓から、薄い朝の光が差し込んでいた。
男が身体を起こすと、暖炉の火はすでに消え、灰の下にわずかな赤みを残すだけになっていた。
拾った本を袋へ入れ、剣を手に取って小屋を出ようとしたところで、足を止めた。
子供は壁際で眠っていた。何かを抱くように両腕を胸元へ寄せ、身体を丸めていた。目元は赤く腫れ、頬には泥と涙の跡が残っていた。
膝の前にあったパンはなくなっていた。
男はそれだけ確かめ、小屋を出た。
森の中に道と呼べるものはなかった。枝葉が空を隠し、獣が踏み固めた細い跡だけが、木々の間を途切れながら続いていた。
二時間ほど歩いた頃、男は大木に背を預けた。革の水袋を取り出して一口飲み、辺りを見回してから、ため息をついた。
「まいったな。いつになったら街へ戻れるんだか」
水袋をしまい、目を閉じていると、茂みの奥で枝が折れた。
男は剣の柄を握り、振り返りざまに刃を抜きかけたが、茂みの向こうに立つ姿を見て、抜く手を止めた。
昨日の子供だった。
子供は肩を大きく上下させていた。履いていた靴は擦り切れ、細い脚には血が伝い、顔や腕にも枝で切った傷がいくつもできていた。
子供は男を見つけると、両膝に手をついた。しばらく顔を上げることもできず、荒い息を吐き続けていた。
やがて顔を上げて男と目が合うと、身体がまた震え始めた。
男は剣の柄を握ったまま尋ねた。
「死ぬ気になったか?」
子供の唇がわずかに動いたが、声にはならず、やがて傷ついた足へ目を落とした。
男はしばらく待ったあと、剣の柄から手を放した。何も言わずに背を向け、再び森の中を歩き始めると、後ろで枯れ枝を踏む音がした。
男は振り返らなかった。
それから一時間ほど歩いたが、森を抜ける気配はなかった。同じような木々がどこまでも続き、空を仰いでも、枝葉の隙間から細い光が見えるだけだった。
男は足を止め、大きく息を吐いた。
「行きは軍についてきただけだったからな……」
振り返ると、子供と目が合った。子供はすぐに顔を伏せたが、男が再び歩き出そうとすると、右腕を上げて木々の間を指した。
男が子供の指した先へ目を向けても、道らしいものは見えなかった。低い枝から一羽の鳥が飛び立ち、その奥にも同じような木々が続いていた。
子供は腕を上げたまま地面を見つめていた。
男はしばらく、子供と示された先を見比べた。ほかに当てもなく、何も言わずにその方角へ歩き始めた。背後で草を踏む音が続いた。
日が沈み、森の中がさらに暗くなった頃、木々の向こうに細い切れ目が見えた。
枝を押し分けると、人の足で踏み固められた土の道へ出た。
頭上には、雲一つない星空が広がっていた。
「やれやれ。やっと出られたな」
男が大きく息をつく傍らで、子供は地面に両手をつき、荒い息を繰り返していた。
男はその様子に構わず言った。
「役には立った。だが、ここまでだ」
子供は顔を上げ、男の様子を窺ったが、すぐに俯いた。
「……くそじじい」
男は一瞬、動きを止めた。
だが何も返さず、土の道を歩き始めた。
何歩か進むと、後ろから足音が聞こえた。
朝から歩き通しだった子供の足取りは、すでにおぼつかなかった。数歩進むごとに距離が開き、そのたびに小走りで追いついてきた。
一番近い街まで、まだ二時間はかかる。
男は歩調を変えなかった。




