第一話「坂口龍は息をしない」
俺は今日も目を覚ます。
「はぁ…」
悶々とした頭の中でいつもと同じことをただ繰り返す。ご飯を少量口に含み、歯を磨き、顔を洗い、着替えて仕事へと行く。中途半端に伸びたひげ、ボサボサの髪、服もシワと汚れで何処か不潔感が漂っている。しかし、俺は気にすることなく仕事へ向かう。もはや、身なりを整えたところで何の意味もない。俺の人生にーー希望などない。
ーー「おい、聞いてるのか?おい!!」
上司の怒鳴り声が会社のオフィスを響かせた。またかと言わんばかりの冷たい視線を周りの社員はこちらに向ける。そんな中で俺は、焦り一つ感じることなく、ただロボットのように上司に頷き続けた。
今日もはずれ…くそ…
仕事帰り、行きつけのパチ屋でなけなしの金をつぎ込む。
「タバコ…」
まぁ、吸ってもいいだろう…
ポケットからライターを取り出すと、台の上に置いていたタバコに手を伸ばした。
そして一息。
「足りねえ…」
また一つタバコを取り出そうと台のタバコに手を伸ばす。
「あ、あの…タバコはーー」
店員の怯えたような震える声が横から聞こえた。
ーードンッ!!
俺の台から大きな音が鳴った。それと同時に右手からジンとした痛みが走る。
「いってぇ…、くっそ…」
俺は一度店員を睨みつける。台にある346円の金をポケットに入れると、椅子から立ち上がった。そして店員の体に思いっきり肩をぶつける。
「ちっ…周り見ろ、カスが…」
そのまま、俺はそのパチ屋を後にした。
電灯に照らされた街中の夜道を淡々と歩く。横を通り過ぎる人を見るたび考えてしまう。俺は周りからどう見られているだろうか。どうして俺は、こうなってしまったのだろうか。
「ねえねえ!!」
道の途中、耳ざわりな子供の声が頭をよぎった。
「お母さん!これ買ってよ!」
「駄目って前も言ったでしょ?」
「ねえ買ってよ買ってよ!!」
そこにいたのは典型的な、理想的な、標準的な家族。子供がおもちゃに指差し駄々をこね、それを親が止める。そんな、普通の家族。自然と顔が歪んだ。胸のざわめきが止まらない。何処か焦りを感じる。
「うるせえ!!人の迷惑を考えろ!!そんな頭もねえのかクソガキ!!」
気付けば口が開いていた。
またやってしまった…でも、俺は悪くない。人前であんなことしてんのが悪いんだ。
「すみません!本当にすみません!!」
母親の声が聞こえた。横目で睨みつけるようにして見ると、青ざめた顔で何度も頭を下げている。
「当然だろ!」
それに対し俺は、ただ怒鳴りつけた。
先程まで駄々をこねていた子供が一度黙り込むと大声で泣き始めた。
「ほら、いくよ!!」
母親が子供の手を強引に掴む。そして、俺から逃げるようにして何処かへと走っていった。
ーー周りには誰一人として、俺の横を通る人はいなくなっていた。
真っ暗で何も見えないリビングの電気をつける。床には脱ぎ捨てられた服やいつのか分からない酒の空き缶、机には少し残ったコンビニ弁当があった。
「はぁ…」
少しだけだ…
俺は何を思ったのか、リビングの掃除を始めた。
ゴミ袋なんていつぶりに出しただろう…
リビングの端や机の下を一つずつ着々と片付ける。
しかし、掃除を進めるたび、綺麗になるたび、俺は何か胸のざわめきを感じるようになっていった。
「後やってないのは…ソファーの下か…」
腰をトントンと叩き、ゆっくりと重い体をしゃがませる。そして、ソファーの下を覗いた。
ーーその瞬間、目を見開いた。
ソファーの下、坂口海ーー俺の娘の写真があった。
俺は写真にかかる埃を簡単にはらうと、その写真をただ見つめた。
胸のざわめきの正体…そうか…俺は海のことを…
「…!?」
頭にふらりと目まいが走る。俺はそのままソファーに倒れ込んだ。
そして気づけば、深い眠りへとついてた。
ーー「お父さん、トンボだよ!トンボ!もう秋だよ!!」
「はしゃぎすぎだ…そうだな、もう秋か…」
俺は、海の元気な声に答えた。
夕方の川沿い、少し肌寒い風が俺と海の肌に触れる。辺りは赤トンボが飛び、夕日の赤く優しい光に照らされている。それは儚くも、何処か美しさを感じさせる。そんな秋特有の情景だった。
そんな中で、俺は海と手を繋ぎ、淡々と歩き続ける。それはただ歩くときとは違い、海の小さな歩幅に合わせるため、いつも以上にゆっくりとしていた。
「お父さんこれ!」
数歩進むたびに海は止まって何かに興味を示す。そして、そのたびに海の笑顔、仕草に心が癒される。
今もまた、何かに興味を示していた。
「なんだそれ」
「拾った!」
海が手に握っているのは、少しツヤのあるただの石ころ。
ただの石ころじゃないか。こんなのでも興味を示すものなのか…?
そう思いつつも、大げさに反応を返す。
「おー、綺麗じゃないか!」
「うん!これ持って帰るから」
「そうか、持って帰るか!」
そんなちょっとした会話を所々で交わしながら、長い川沿いの道を進んでいった。
「今日の夜ご飯は何がいい?」
「うーん…オムライス」
「オムライスはこの前食べただろ?」
「えー、また食べたい」
「たく、ほんとオムライス好きだな」
「うん!大好き!」
そう言って海は満面の笑みをこちらに向けた。
ーー「海!!」
…寝てたのか?
…いつの間に、、、
「濡れてる…」
何故か濡れている顔を右手でぬぐう。
「うわ…鼻水…」
そのとき、俺の顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていたことに気づいた。
「…ティッシュ」
すぐに拭き取ろうと、机の上に置いてあるティッシュに手を伸ばす。
俺、泣いてたのか…
くそ…やっぱり掃除なんてするもんじゃない…
気付けばまた、頬に冷たい何かが流れていった。
「…涙、、、」
ティッシュを取り、流れ落ちた涙を綺麗に拭き取るーーそれと連鎖するようにして俺は、"最悪のあの日"を思い出そうとしていた。
冬真っ只中になろうとする少し前、時々吹く強い風は体を凍り付かせ、生き物はほとんど見なくなっていく。そんな寒い季節。朝に関しては外どころか布団からも出たくないほどだ。と言っても、布団に出ないのは俺ではなくーー海である。
「海、起きろーー!!」
勢いよく布団を巻き上げる。
「いやぁあ!!寒いからやめて!!」
そうすると、大方予想通りの反応が返ってきた。
それも、こたつに丸まる猫のような体制で…
「はぁ、学校行かなきゃだろ?ほら、キラキラの3年生!!早く起きろ!!」
海を思いっきり両手で持ち上げ、リビングまで持って行く。
「いやー!!」
嫌といいつつも海は楽しそうにはしゃいでいる。そんな海を見て、俺もまた、自然と笑みが溢れた。
「朝ご飯出来てるから、食べな」
「はーい」
そうして今日も、何気ない日常がスタートした。洗面所へ行くと、簡単に身なりを整え、玄関へ向かう。
そして、海と靴を履くと二人で外へと出る。
「海、気をつけて行けよ?分かってるな?もし何かあったら…」
「わかってるよ!いつも同じことばっかり!」
「あ、ああそうだな。」
「じゃあ、行ってきます!」
こちらに手を振りながら、元気にそう言った海を見送る。
「あ、忘れ物ないか!?」
「ないよ!!」
面倒くさそうに大声を出し、海は答えた。
お父さん悲しいよ…
夕方、仕事を終えると家の扉を開ける。
「お父さん!!」
すると勢いよく海が飛び出してきた。
「な、なんだ!?」
少し驚いたが、顔を見る限り悪いことではないらしい。しかしどうしたのだろうか…
「あのねあのね!愛華ちゃんが冬休み一緒にキャンプしないかって!!」
考える暇も与えてくれず、すぐに海は答えた。
…なるほど、キャンプか、、、
「待て待て焦るな、お父さん帰ったばっかだから、ちょっと待ってな?」
「うん!!」
夕飯の後、俺の横で海が体をぴょんぴょんとしてこちらをじっと見つめる。
「お父さん!キャンプは!?」
愛華ちゃんのお母さんとの電話を終えた瞬間、海は勢いよく聞いてきた。
「よく聞けよ?海、お父さんは行けないけど、愛華ちゃんとキャンプ出来るみたいだぞ!お父さんはいないけど!!」
「やったーー!!」
え…?お父さんは…?
「そうかそうか、嬉しいか!」
しかしここで一つ注意しておかなければ…
「海?」
「何?」
「お父さんがいないということは、愛華ちゃんのお母さんが海を見てくれるということだ。ちゃんと言うこと聞いて良い子にしろよ?」
「うん!!もちろん!!愛華ちゃんのお母さん優しいから大好きだし!!」
「そうか、なら安心だな!」
「冬休みまで待ちきれないよ!」
そう言いながらウッキキャッキャとする娘は、最近見た中で一番喜んでいた気がした。




