第九夜
日が沈み、やがて古寺は静寂に包まれた。左京ノ進は風呂を早々に済ますとそのまま百姫の寝所前の濡れ縁に座り込んだ。
「左京も今日は疲れただろう。自分の宿坊でゆっくり休むが良い」
しかし左京ノ進は首を横に振った。
「私はここでしばらく風に当たっておりますので、姫様はどうぞお休みになってください」
意固地な左京ノ進のこと、自分が何を言っても聞かないだろうと悟った百姫は、労いの想いを込めて左京ノ進の肩をそっと叩いた。
「お休みなさいませ。姫様」
「左京もあまり無理をするでないぞ」
部屋の中は月明かりが隙間のいたるところから差し込むほど粗末な造りではあったが、そこに整然と敷かれた布団に寝そべった。隙間から吹き込む夜風は心地よく百姫をすぐに眠りへと誘った。
どれくらいの時間が経っただろう。百姫はゆっくりと目を開けた。気になってそっと寝所から外を伺うと、濡れ縁で槍を抱えたままうつむき座り込む左京ノ進の姿があった。
百姫は声をかけるかどうか一瞬迷ったが、羽織っていた衣を左京ノ進の肩にそっと掛けると、屈んで顔を覗き込んだ。
凛々しさの中に未だ幼さが残る顔立ち。いつも一緒に居ながら、左京ノ進の寝顔を見るのは実は初めてだった。思わず艶やかな唇に手が伸びそうになり、すぐに我に返った。夜空を見上げると月はまだ高く、煌々と輝いていた。
「お前と月を見たかったな……」
月に照らされた左京ノ進の寝顔をしばらく見つめたあと、百姫は宿坊に隣接する本堂へ向かった。
庭へと降りる階段に腰をかけ月を見上げた。昨日より少し欠けた十六夜の月は、辺りを柔らかく照らしてくいた。髪を撫でていく心地よい夜風。深呼吸をすると冷やされた空気が胸の中へと流れてくるのを感じる。
その感触は以前とまるで変わらないのに、自分はすでに人ではないというのが信じられなかった。
百姫は天狐の弓を握りしめると天にかざした。弓は月明かりに照らされて青白く光った。
(この私に大蛇を討てるだろうか。こうしている間も大蛇は城内で息を潜めている。お父上や皆が危ないというのに私には何もできないのか)
心は焦るものの良い考えが浮かばず、百姫はうつむくとため息をついた。
「眠れませんかな。百姫様」
その声に振り向くと和尚が立っていた。
「和尚様……まだ起きてらしたのですか」
和尚は穏やかな笑みを浮かべると目を細めた。
「ここはお城とは違って静かでしょう。年寄りには過ごしやすいが若い方には寂しかろう」
「いいえ、左京ノ進が居るから寂しくはないです」
和尚は月を見上げながら百姫に訊ねた。
「あやつは姫様の役に立っておりますかな? 子供のころからあのような性格ゆえ、城内で上手くやっていけるか甚だ心配をして居るのです」
「たまに、人の心がわからぬ奴と思うときもありますが、左京には本当に感謝しています」
「そうですか。これからもあやつのこと可愛がってくだされ」
二人の間に少しの静寂が流れた。百姫は急に和尚の方を向いて正座をすると真剣な眼差しで尋ねた。
「和尚様は左京ノ進に、周りが見えていないとおっしゃいました。鬼貫を授けない理由というのはそれだけでしょうか」
「あやつの性格は姫様もご存知でしょう。曲がったことが嫌いで、妥協を許さない」
「それは武芸者にとって大切なことではありませんか?」
そう言って和尚は人差し指を立てた。
「ただ一つ。左京ノ進にはたった一つの、それも致命的な欠点があります。そしてその欠点はきっとどうやっても埋めようが無いのです」
「欠点とは何ですか?」
「それは慈悲の心。あやつは優しすぎるのです」
「でもそれは槍の腕とは関係のない話でしょう」
百姫は語気を強めると和尚に詰め寄った。
「先ほど手合わせしてすぐに悟りました。槍の腕は既に私を超えていると。私はその実力に驚愕し、同時にとても嬉しく思いました」
そう言って立ち上がった和尚を百姫は見上げた。その柔らかい表情はどこか寂しそうに見えた。
「しかし左京ノ進は一度も本気の突きをしてこなかった。あれだけの打ち合いの中で私は一度も死を覚悟しなかった」
「それは、あなたのことを親同然に慕っているからでは」
「わかっております。しかしそれでは鬼貫を使う者にはなれない」
「何故ですか。それでも和尚殿を凌ぐほどの実力があるのでしょう? 」
百姫もつい熱くなって立ち上がった。
「あなたはなぜ槍が鬼貫と言われるかお分かりかな」
「その字の如く、鬼を貫くという意味では? 」
百姫の答えに和尚は頭を振った。
「鬼貫にはこのような言い伝えがあるのです」
そう前置きすると、和尚は鬼貫に伝わる物語を語り始めた。
その昔、この地方を荒らす妖怪がいた。腕に自信のある武者が次々と討伐に名を上げたが、帰ってきた者は一人もいなかった。その妖怪は姿を人に変化させる術を持っており、騙し討ちを得意としていたのだ。
ある日、村一番の槍の達人とされる若者が妖怪討伐に名乗りを上げた。出発前に若者は一人で暮らす年老いた母親の元を訪ねた。するとそこにはうずくまり泣いている母親の姿があった。
母親は言った。お前がもし妖怪に殺されてしまったら私はどうすれば良いのか、どうか行かないで欲しいと。
若者は天を仰ぐと大粒の涙を流した。しかし母親が若者を抱きしめようとした瞬間、若者は槍で思い切りその体を貫いた。突然の出来事に母親は声を上げることもできず、若者を睨みつけた。やがて母親は悲鳴をあげると跡形もなく消え去ったという。それは母親では無く妖怪変化だったのだ。
母親が自分を残して行くなどと言うはずがない。おそらく母親はすでに妖怪に殺されてしまったのだろう。瞬時にそれを悟った若者は嘆き悲しみ涙を流していたのだった。
「その逸話に因んで若者が使ったとされる槍が鬼貫と呼ばれるようになったのです。その若者は妖怪討伐の為、心を鬼にして最後までその意思を貫いたと」
和尚は月を見上げると百姫に問いかけた。
「あやつがそのような場に出くわしたとき、果たして非情になりきれますかな」
「左京は……」
百姫は答えられなかった。左京ノ進ほど実直で優しい男はいない。だが和尚の言う通り、それらはむしろ弱点になりえる要素だ。
「いくら姫様の為とはいえ、わしはあいつが命を落とすのを見たくない。甘いと思われるかもしれませんが、それが親心というものなのです」
月に照らされた和尚の横顔はどことなく寂しげに映った。
「さぁ、もう夜も遅い。そろそろお休みになられたがよかろう」
和尚はそう言って立ち上がると、軽く一礼して寝所へと戻っていった。
左京ノ進が命がけで自分を守ろうとしてくれることは、任務とはいえ勿論嬉しい。しかし和尚の左京ノ進に対する想いを知った今、申し訳ないという気持ちのほうが勝る様になっていた。
それもこれも全て自分のせい。けれど渦中にいながら二人を傍観することしか出来ない。そんなもどかしさが百姫にため息をつかせた。
(くよくよ考えても仕方がないことだ。早く戻らないと。左京ノ進が目を覚ましたときに心配するからな)
そう思い宿坊へ戻ったが、そこに左京ノ進の姿はなかった。すると前方の暗闇かに気配を感じた。誰かがこちらへ向かって歩いて来るようだ。
「そこにいるのは誰だ?左京か?」
だが暗闇から現れたのは齢は五歳ほどの男の子だった。
「こんな夜更けにどうしたのだ?」
その子供は問いかけには答えず、寺の外の闇を指差して言った。
「お兄ちゃんならさっき飛び出して行ったよ」
「それは槍を持った人?」
男の子は百姫の問いかけに頷いた。
「だから早く来て! お兄ちゃんが危ない」
そう言うと、子供は暗闇の中へと駆けて行った。
「ちょっと! 待ちなさい」
百姫は草履を履くと急いで子供の後を追った。古寺の外はどこまでも田畑が続いていて、近くに民家は見当たらない。水の張られた田んぼには月が浮かんでいた。早足で追いつこうとしたが子供の後ろ姿は少しずつ離れていく。
「待ちなさい。一体どこまで行くのだ?」
不安になった百姫が訊ねると、子供は立ち止まった。
「母様が言うんだ……取ってくるまで帰ってくるなって」
「何を取って来いと言われたのだ?」
すると子供は振り返って顔を覆っていた手を離した。
「それはね、あなたの魂だよ」
子供の顔は黒い鱗に覆われていた。目は左右に離れ口は耳の付近まで裂けている。
「まさか、おまえは!? 」
やがて髪の毛は抜け落ち、両手はもげ、胴体と思われる鱗の肉塊は徐々に細長く形を変えていった。子供の姿に変化していたのは一匹の蛇だった。
「やはり妖怪変化か!」
百姫はすかさず背負っていた弓を構えた。妖に向けて弦を引くと、青白い光をまとった破邪の矢がすっと現れた。
蛇はとぐろを巻きながら、ちろちろと舌を出しては今にも飛びかかろうと頭を高く持ち上げている。だがその蛇は左京ノ進に化けていた大蛇のような巨体ではなく、頭をもたげた背丈は百姫と同じくらいだった。
「南無三!」
百姫は近距離から迷わず破邪の矢を打ち放った。真っすぐな軌道を描いた矢は、一瞬にして蛇の頭を貫いた。
「仕留めたか」
そう手応えを感じたのもつかの間、百姫の体は宙に軽々と持ち上げられた。草むらにもう一匹大蛇がかくれたいたのだ。大蛇はその尾で百姫の体を幾重にも巻きこむと、より強く締め付けた。意識がだんだんと遠のき、視野が狭くなっていく。
(苦しい……息ができない。助……けて)
百姫は耐えきれずとうとう目を閉じてしまった。
その時、野太い悲鳴が闇に響いた。すると百姫の体に巻きついていたとぐろが解け、百姫は背中から地面に落ちた。
百姫が目を開けると、大蛇の眉間に一本の槍が突き刺さっていた。やがて大蛇は紫色の炎を体中から噴出し、あっという間に灰になってしまった。そして灰は夜風に吹かれて跡形も無く消え去った。
「姫様!ご無事ですか!」
振り返るとそこに立っていたのは左京ノ進だった。彼は駆け寄って百姫の無事を確認すると、尻餅をついていた百姫に手を差し伸べた。
「心配ない。一人で立てる」
百姫は袴に付いた砂を手で払ってゆっくりと立ち上がろうとしたが、ひざが震えて上手く立てない。その様子を見ていた左京ノ進が、百姫の両肩を抱きかかえるようにして支えた。
「一体、何処へ行っておったのだ! 」
「申し訳ありません。厠に行っておりました」
そのように力なく答えた左京ノ進だったが、一つ息を吸い込むと百姫に対面して両肩を掴んだ。
「ですが姫様!」
「な、なんじゃ」
「勝手に寺を抜けだされると困ります! もう少しで死ぬところだったのですよ!」
左京ノ進は珍しく声を荒げた。
「す、すまなかった」
「お怪我はありませんか? 」
「大事ない。おかげで傷などは無なさそうだ」
「良かった……」
それを聞いた左京ノ進は力なくその場に座り込むと肩を震わせ始めた。
「姫様のお体に傷ひとつでもつこうものなら私は……」
「お前……まさか泣いておるのか?」
「すみません。安心したあまりつい……」
その様子を見て百姫は嬉しくなった。
「お前は私の身体に傷ができると悲しいのか」
「勿論です。姫様に美しいままでいて頂きたいと思うのは当然です」
百姫は思わずにやける口元を両手で抑えた。左京ノ進にこんな顔を見られてはたまらない。
「そうか。それほどまでに私のことを……」
左京ノ進は気を取り直して立ち上がると、百姫に言った。
「当たり前です。百姫様は嫁入り前の御身なのですから」
その言葉を聞いて百姫は思わず声を荒げた。
「なんじゃその理由は! 」
左京ノ進は突然百姫が立腹した理由がわからずに呆然とした。
「そんなだからお前は鬼貫を使えぬのだ! 」
「鬼貫がどうしたのですか? まさか和尚に何か言われたのですか? 」
左京ノ進は狼狽えて百姫を見返したが、そのお人好しがにじみ出る表情を見て百姫の怒りにますます火がついた。
「もう良い。寝る! 」
百姫はそう言い放つと、左京ノ進に背を向けた。
「お待ちください!夜道は危のうございます! 」
「ええい、うるさい!転けて怪我しようが私の勝手だ! 」
早足で古寺へ向かう途中、百姫は路上に何かを見つけて足を止めた。
「どうされたのですか」
「服が落ちておる……」
それは童に化けていた蛇が着ていた服だった。
「おそらく童から奪った物なのでしょう。無事ならばいいのですが……」
「この童もあの蛇も待っている母親がいたのだろうな……」
そう言って百姫は静かに手を合わせた。
「しかしあの蛇の母親は姫様を襲った大蛇かもしれないのです。それに……」
しかし静かに手を合わせる百姫の横顔をみて、左京ノ進は喉元まで出かけた言葉を抑えた。そして百姫の横に並ぶとそっと手を合わせた。