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結晶の結界  作者: 茅原
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深淵へ。再び。

「わたしがすべきこと、それは、難しく考えることなんて何もない。ただ、自分で自分を救えばいい」


眼前に建つ琴音の家と向かい合いながら琴音は力強く言って、どこか挑戦的でもある不敵な笑みで蓮を見上げた。


「そうよね、蓮?」


どうやら自分の中に確固たる答えを見出したせいか、それとも先ほど記憶の核心へ続く『鍵』を開けたせいか、初めから目的の場所に立ち、そして余裕のある笑みを浮かべる琴音に少し驚かされながら蓮は頷く。


「ああ、断言はできないが、おそらく間違いない。俺たちはもうに辿り着きつつある」

「ええ。じゃあ、行きましょう」


 琴音はそう言って前を向き、躊躇う様子もなくその足を踏み出した。門扉を開け、庭を横切り、玄関の扉の取っ手を握った。そして、蓮を振り返りその口角を吊り上げ、


「蓮よ。準備はよいな」

「ああ、安心しろ。お前は俺が守ってやる」

「うむ、当然じゃ。なんのために今お主がここにいると思っておる」


 先程の病室の時とは打って変わった不遜な表情で琴音は言って、


「じゃあ、開けるわよ」


 と、扉を一気に押し開いた。


 するとその扉は、やはり琴音の部屋へ直接繋がっていた。琴音はそれを確信していたように、部屋を見回すこともなく、


「煙が来るのを待ってる必要なんてないわ。もうルートは解ってる。行きましょう」


 率先して部屋を出て、部屋を出ると既に立ちこめ始めていた濃い煙をかいくぐりながら廊下を進み、階段を下り、一階の居間へと入った。


 肌を焼くような熱気が二人を迎えた。居間には前回までと同じく、既にかなり火が回っていた。しかし、前回に出くわした西洋人形の姿はどこにもない。また、


「そういえば、犬の鳴き声がしないな……」


そう気づき蓮が呟くと、琴音は頷いた。


「ええ。だって、あれは偽りの記憶――そう、もう知っているから」


 意思のこもった目で蓮を見上げながら、琴音は冷静に言う。その頼もしいほど落ち着いている琴音に蓮は頷くと、琴音とともに居間と接している和室の中へ踏み込んだ。そして、


「待て。念のために、そこは俺が開ける」


と、琴音の記憶の核心へと入る『鍵』、つまり記憶の防護機能が強力に働く可能性のある瞬間へのアプローチを、蓮が請け負った。失敗は許されない。椿のためにも、引き戻ることなど許されないのだ。そう気負いながら物音ひとつしないその押入れの襖を開けてみると、前回と同じく、そこには布団のみしか入れられていなかった。


「……ん?」


 屈み込み、ぬいぐるみの入れられているはずの下段を覗き込んだ蓮は顔をしかめた。襲ってくるものが何もなかったのはいいが、重要なものまでがない。つまり、ぬいぐるみがどこにもなかった。


「おい、琴音。ぬいぐるみがないぞ」

「え? そんな……」


 場所を譲った蓮に代わって、琴音が押し入れの下段を覗き込む。すると、


「うん? ああ、なるほど。きっと、わたしにしか開けられない『鍵』っていうことなのね」


 そう言って、押し入れの中から取り出したぬいぐるみを蓮へ見せた。そして、ぬいぐるみと向かい合い、その頭を優しく撫でながら呟いた。


「うん。やっぱり、わたしは犬なんて飼っていなかった。これは、偽物の記憶」


 場面が変わった。




 同じく琴音の家。その、夜の一階廊下――前回と同じ場面転換だ。


 不意に、そっと蓮の左手が握られた。見ると、そこには変わらず振袖姿の琴音が立っていた。


 その、じっと前を見据える琴音の体をすり抜けて、小さな琴音が居間のほうへと歩いていった。琴音は、居間の扉から伸びる光へと吸い寄せられるようにふらふらと眠たげな様子で歩いていく小さな自分の背中を見つめながら、


「……雰囲気は、感じていたの」


 そう言った。


「おじいちゃんが死んだ頃から、急にお父さんとお母さんが冷たくなった。無視されたり、睨まれたり、子供心に何かがおかしいって感じていたわ」


 琴音は蓮の手を握ったまま、前を歩く琴音を追って歩き始めた。そして、


「どうしてなのよっ!」


 という女性の声が聞こえてきた居間の扉の前、小さな琴音の背後に立った。はめ込みの細長いガラスからもれる蛍光灯の光を片目に当てながら、琴音はじっと見つめるような落ち着いた面持ちで男女のやり取りを聞く。


「なら、やっちゃわない?」


 会話が進み、そのような声が聞こえても、琴音は眉ひとつ動かさない。それどころか、蓮に説明するように淡々と語り始める。


「二人が何を言っているのか完全には理解できなかったけれど、でもなんとなくは解っていた。きっとわたしのことが邪魔なんだ、って。わたしはもうすぐここにいられなくなるんだ、って」


 小さな琴音が、後ずさるように扉から離れて階段を上っていき――場面が移る。




 時間は昼間へと移り、再び琴音の部屋。


 ひとり無言で、まるでそうすることを命令された人形のように生気のない顔でママゴトをする小さな琴音を見下ろしながら、琴音は言う。


「……この時、わたしはもう限界だった。ここから始まるから解らないだろうけれど、実はわたしはもう三度か四度、この時までに危ない目に遭わされていて――もう確信していた。自分はどこかに連れて行かれるんじゃなくて、お父さんとお母さんに殺されちゃうんだ、って。だからこの時はもう、お父さんとお母さんが怖くて仕方がなかった。もう夜も寝られないほどに」


 扉の外から琴音の名を呼ぶ琴音の母の声が聞こえてきた。小さな琴音はしばし躊躇う様子を見せてから立ち上がり、部屋を出て行く。


 それを追って同じく部屋を出て、蓮は小さな琴音が進んだ方向とは逆を見る。琴音を突き飛ばす琴音の父は、いま背後に潜んでいるはずだ。なんとかして彼を止めたい。しかし――


 と、思わず足を止めていた蓮に、先を歩いていた琴音は蓮を振り返らずに言った。


「ダメよ、蓮」

「ああ、解ってる。だけど……」

「いいの。わたしはどうしてもここで突き落とされなければならないのよ。だから、ここで止めちゃいけないの。まだ何もしてはダメ」

「…………」


 解っている。しかし、自分は耐えられない。見過ごせない。琴音が自らの親の手で階段に突き飛ばされる光景など、無残な姿になり果てた琴音が階段に倒れる姿など、もう二度とも目にしたくはない。だが、やはり何もできない。そのやり切れなさに歯噛みしていた蓮と、前を見つめ続ける琴音の体をすり抜け、琴音の父が駆け抜けていった。


「っ! やめ――!」


 思わず出た蓮の声は届かない。小さな琴音は、再び背中を押されて宙を舞った。


蓮は琴音の手を引き、小さな琴音を突き飛ばした琴音の父に続いてゆっくりと階段を下りる。そして、階段の曲がり角にうつ伏せに倒れる小さな琴音の傍に琴音とともに立った。


 自らの小さな体を蓮と並んで見下ろして、琴音はわずかに眉根を寄せた。蓮の手を握る手に力を込めて、


「早く、楽になりたい――。この時わたしが思っていたのは、確か、ただそれだけ……」

「…………」


 火を点けろ、などと廊下に慌しげな声を響かせる男女に、蓮は、なぜ自分が堪えられているのかも不思議なくらいの、血が燃えるような怒りを覚える。すると、琴音が言った。


「ねえ、蓮。手が、痛いわ。でも……ありがとう」


 再び、周囲の景色が変化した。




 全て黒で満たされた空間。そこへ、ぼんやりとした白い光が薄く横に広がっていく。それと同時に、男女が激しく言い合うような声がぼんやりと聞こえてくる。


「ちくしょう。せめて背骨が折れて歩けなくなってるとか、目を火傷して失明でもしてくれればよかったのに……!」


 と、男性がまるで憎悪から練り出されたような言葉を呟く。


「…………」


 琴音は何も言わずに俯いた。


 何もできない自分が悔しい。蓮はその琴音の横顔を見て、まるで心臓に爪を立てられような気分で、しかしどうすることもできずに俯いた。握っている琴音の手を、指を絡めるように握り直し、自分が確かに隣にいることを知らせることで精一杯だった。


 やがて目の前の光が消え、再び暗闇が訪れた。

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