朝が来る。
目を覚ますと、蓮はしばし呆気に取られたように動くことができなかった。
自分はいま夢にいるのか現実にいるのか、呆然と戸惑っていると、いつの間にか床へ横になってしまっているらしい自分の頭が、何か温かく柔らかなものの上に乗っていることに気がついた。その直後、
「お、お姉さん、蓮は……? 蓮くんは……」
琴音がベッドから身を起こし、張り詰めた声で尋ねてきた。すると、頭の下の膝が動き、
「っ! かはっ!」
その膝の主であった椿が、身を捻るようにしながら何かを吐いた。
「な……!?」
自分の頭の上で唐突に撥ねた水音に蓮は驚き、思わず飛び起きた。そして、
「お、おい、姉さん、そのケガ……!」
全身を擦り傷だらけにさせながら口から血を垂らす椿の姿を見て愕然とする。
しかし、椿は痛がる素振りなど見せず、それどころかただひたすらに蓮へ熱い視線を注ぎ、
「れ、蓮さん……! よかった、よくぞご無事でお帰りくださいました……!」
と、手首や甲が傷だらけの手を蓮へ伸ばしたが、ふと思い返したようにその手を引き、正座する足の陰に隠した。その足もまた手と同じように擦り切れ、傷ついている。
「ど、どうしたんだよ、姉さん! 何かあったのか、襲われでもしたのか!?」
取り乱すようになってしまいながら蓮が尋ねると、椿はその顔にまだ残していた感動の色をしまい、いつもどおりの冷淡な表情で答えた。
「いえ、そのようなわけではありません。ただ、私の不注意で転倒事故をしてしまっただけです。ご心配をおかけしてしまい申し訳ございません」
「い、いや、でも口から血が……!」
「これは事故とは関係ありません。『箱』が壊されてしまったため緊急事態として、書に記してありました処女の器を私の体を使って実行しただけです。確かにこの血は私のものですが、吐血をしたわけではありませんのでご安心を」
椿はこともなげにそう言うと、その視線を琴音へと向けた。
「よくやりました、琴音。蓮さんは無事に帰って来られました。あなたのおかげです」
「え? い、いえ、わたしは、何も……。そ、それより、あの……お、お姉さん、じ、事故で、ケガを……?」
琴音も慌てた様子で尋ねる。が椿はあくまで淡々と、
「ですから、ただちょっと転倒してしまっただけ、それ以上でも以下でもありません。心配には及びませんよ。それよりも今は、これからどうするのかを、琴音、外ならぬあなたが決めなくてはいけない時ではありませんか」
「え……?」
と、琴音は困惑の表情をする。が、
「いや、でも姉さん、さっき、箱が壊れたとか言わなかったか。それはどういうことだ」
「それについては、やはり今は申し上げるのを控えさせていただきたいと思います」
「どういうことだ?」
「もしこれから再び琴音の中へ行こうと仰るのなら、今はただ琴音の中にある真実にのみ目を向けるべきなのではないでしょうか。琴音と同じく蓮さんもまた、余計な情報に触れる必要など全くないと思われます。ですが、ただ結果のみを申し上げさせていただくと、こちらの件は問題なく解決いたしました、と、それのみでございます」
椿は目を伏せ蓮と視線を合わせず、まるで文書を読むような様子でそう言いながら、傍らに置かれていた引き裂かれた『箱』を蓮へ差し出した。
「これは……」
「なぜ壊れたのか、についてはお教えできません。ただ壊されたと、今はその認識でお留めください」
どうやら椿は、こちらが現実を離れていた間に何があったのかは頑として語らないつもりらしい。だが、おそらくこのままで構わない。椿の決断には間違いがない。伝える必要なしと判断したなら、確かに今その情報は自分が聞くべきでない情報なのだ。蓮はそう判断し、話を進めた。
「そうか。で、この壊された『箱』の代用として使ったとかいう、その処女の器とはなんだ」
「……やはりまだ書に目を通されていらっしゃらないのですね。こういうことが起きた時のためにお読みになっておいた方がよろしいと何度も申し上げましたのに」
「ああ、いや……」
蓮が思わず視線を伏せると、椿は小さく嘆息してから続けた。
「処女の器とは、つまりそれも『箱』の一種。処女である呼倉の女の口へ呼倉の血を満たして作る、『箱』の代用品です。それをついさっき、私は私の体にて作ったのです。蓮さんをお助けするにはこうするしかありませんでしたので」
「……そうか。すまない」
「いいえ、これは私が私の意志で自ら為した行為、蓮さんがお謝りになられる必要など毫もございません。――それで、これからどうなされるのですか。琴音の件を解決しに向かわれるのでしたら、私は無論、また器とならせていただきますが」
「な――そ、そんなことができるわけがないだろ。琴音の件は諦めない。だが、いま姉さんにそんなことをさせるわけにはいかない。次に琴音の夢に潜るのは、『箱』を作り直してからだ」
「それには反対です」
「反対?」
珍しい椿の言葉に蓮は驚く。椿は蓮の目を見据えて言う。
「はい。これは先程申し上げました、まだ口にできぬ事柄なのですが、今日、この今の機会を逃せば、琴音の件を解決するのはおそらくさらに難しくなるものと思われます。まだ何も申し上げあげられませんが、おそらく明日には、琴音の精神状態に決定的な、大きな変化が訪れます。そうなってしまうと、ややともすると、この件、解決不可能という事態に陥りかねません。ゆえに、決断及び実行は今でなくてはなりません」
そう言い切って、椿は琴音へ厳然と目を向けた。
「どうするのですか、琴音。諦めるのですか、それともまだやるのですか」
「え……?」
琴音は眉をひそめ、明らかにうろたえた様子で実を強張らせる。蓮が割って入った。
「まだやるに決まっている。俺は絶対に琴音を――」
「申し訳ありませんが、蓮さん。今は琴音に尋ねているのです。これは琴音が、自分の意思で決めなければならないものなのです」
蓮の言葉を強く断って椿が言った。すると琴音が、
「わ、わたしは……!」
と、意を決したように口を開いた。
「わたしは、その……さ、さっきも、蓮くんには言いました。や、やっぱり、もうやめようと、お、思います……。これ以上、お、お姉さんに迷惑をかけるわけにもいかない、ので……」
「そうですか。つまり、諦めるのを私たちのせいにするということですね」
「え? そ、そんな――」
「何が違うと言うのですか。今あなたの言ったことの意味はまさしくそういうことです。いいですか、琴音。決めるのなら、他人がどうこうではなく自分のことだけを考えて決めなさい。あなたがその決断で満足できるのか、できないのか。それだけを考えなさい。蓮さんと私は、あなたのためならばいくらでも力を貸します。ですが、私たちにできることはあくまでそれだけなのです。解りますか? 結局、自分を救えるのは自分だけだということです。その決断を他人のせいにするなどということは、絶対にしてはなりません」
「…………」
琴音はその見えない目を瞠き、言葉を失ったように黙った。が、やがて、
「わたし、は……わたしは……。でも……」
琴音はその顔を苦しげにさせながら俯いた。蓮は言った。
「姉さんも言っただろ。俺たちはお前のためならいくらでも力を貸す。お前だって、実はもう自分が何をすべきか解ってるんじゃないのか? 救いようのないあの夢にどうすれば光をもたらせるのか、解ってるんだろ?」
「…………」
琴音は目を瞠くような表情で、じっと蓮を見つめた。そして再び俯き、しばし沈黙してから、決然とその顔を上げた。
「わ、わたしは……! わたしは、目が見えるようになりたい、歩けるようになりたい。そうなれる可能性があるなら、わたしは、なんでもやりたいです」
「ああ」
確かな口調で自らの意思を発した琴音に、蓮は頷いた。
「じゃあ、行こう。朝まで時間がない。次で一気に決めるぞ」
「はい。では、再び私が――」
椿がそう言い出したのを、蓮は退けた。
「いや、待て。確かに姉さんにはその器とやらになってもらうが、それに必要な血は俺のを使え。俺の血でも――いいんだよな?」
「え? え、ええ、それは構わないでしょうが……し、しかし、蓮さんにそのようなことをさせるわけにはまりません。というか、これしきの出血であればまだ致死量にはほど遠いので、やはり私の――」
「ダメだ。それは絶対に許さない。どうしても俺の血が嫌だと言うのなら話は別だが」
「い、いえ、そのようなことは、全く……!」
「なら、いいだろう。で、どうすればいいんだ。俺の血をただ姉さんの口に注げばいいのか?」
「は、はい。では、よろしくお願いいたします」
椿は心なしか頬の赤い顔を上へ向け、その口を開く。が、しかし、
「ああ、しかしその前に、琴音を眠らせておかねばなりませんね」
そう言うと、酷く痛むらしいその体を立ち上げて琴音のベッドへと歩み寄った。
「え……? あ――」
と、琴音がなぜか思い出したように恐怖めいた表情をする。蓮は訝り、琴音へと覆い被さるような姿勢を取った椿の後ろ姿を見つめる。椿はすぐに身を起こした。そして、なぜかもう眠っている琴音の眠るベッド傍の壁に背をつけて床に腰を下ろし、
「では、よろしくお願いいたします。蓮さんは、私の口内の液面に琴音の夢が映り次第、お入りください」
そう言って、真上を向きその唇を開けた。
「あ、ああ……」
どうやら椿は琴音を気絶させたらしいということへの驚きと、今更ながら姉の口へ自らの血を注ぐという通常ありえないことに戸惑いながら返事をし、蓮は背中から小刀を抜いて、それで自らの左手首を横一文字に切った。そしてその手を椿の口の上へかざし、血を滴らせた。
静寂の中、血は緩やかに椿の口を満たした。そしてやがて、その液面が明らかに黒さを増した。蓮は琴音の夢へと飛び込んだ。




