椿。病院。現実にて。
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送らせた車はそのまま帰らせ、椿は痛む両足を引きずりながら大槻総合病院の夜間緊急用の扉をくぐった。足を引きずる音と思わずもれる呻き声を静寂に響かせながらひと気のない深夜の廊下を歩き、ロビーへと出たところで、
「やっぱり来たね。うん。きっと君なら来るだろうと思っていたよ」
と、不意に柔らかな男の声が椿を迎えた。ロビーに並べられたイスに座っている、暗がりの中の人影は言った。
「でも、よくもそんな体でここまで来られたね。まさかバイクを運転してきたわけじゃないと思うが、どうやってここまで来たんだい?」
「やはり……あれはあなただったのですね」
質問には答えず椿は言い、顔の見えない声の主――雪彦を睨んだ。
すると、雪彦はあっさりと認めた。
「ああ、そうだよ。君に事故を起こさせたのは僕だ。けれど、どうやら君がこうして僕に会うためにここへやって来た時点で僕の負けは決定した。はは。まあ敗因は、まさかこんな形で僕の罪を暴こうとする人間がいるなんて考えもしなかった迂闊さと、何をするにも直接的な手段を執れなかった意気地のなさっていうところかな」
雪彦はそう言って、既に諦めの境地に達したような乾いた笑い声を小さく響かせる。
やや拍子を抜かれたようになりながら、椿は問う。
「……なぜ、こんなことを」
「なぜ? どうせ君はもう全て知っているんだろう? ――でも、そうだね。その問いはどっちの件について向けられたものだい? 琴音ちゃんの件についてかい? それとも君ら姉弟の件についてかい? これは微妙に異なる問題なんだよ、僕にとってはね」
「……? ……では、まずは琴音の件について、ということにしておきます」
椿は訝りながらも、とりあえず話を進めた。雪彦は闇の中に座りながら、静かな声でしかし即答した。
「彼女は多額の資産を所有している。そのためだ」
「…………」
義務感を帯びたような雪彦の声が、椿の胸に複雑な波を起こす。理解はできるが、共感はできない。理解できてしまう自分が憎い気分で椿が沈黙すると、雪彦は不貞不貞しく続けた。
「病院を経営するには、どうしてもあの資産――父の遺産が必要なんだ。ハコはまあどうでもいい。だが、カネのほうはどうにもならない。もし彼女が資産の全てを相続するなどということになれば、僕の病院はもう終わりだ。そんなことは許されない。ここに通ってくれている人たちのことはどうする。ここに入院している患者たちはどうする。彼らのことを考えると、絶対にこの僕が父の遺産を相続すべきだった。琴音ちゃんなんかよりも、僕のほうが間違いなく資産を有効に使えるんだ。今のようにね」
「しかし、もう終わりです。彼女にかけた暗示を解いてください」
椿は、夢物語を語るように喋る雪彦を現実へと引き戻した。
雪彦は、やや間を空けてから小さく嘆息し、
「ああ……僕はなんとしてでも君たち姉弟を殺してこの場所を守るべきだったが、もうお手上げだ。降参だよ。でも、僕に彼女はどうしようもない」
「潔くありませんね。琴音には申し訳ないのですが、病室に仕掛けさせてもらった盗聴器で、あなたが琴音に催眠暗示をかけているのを私は知っているのですよ。観念してください」
「はは……。いや、これは嘘じゃない、本当だよ。彼女の目が見えず足が動かなくなっているのは僕の催眠の仕業じゃない。あれは琴音ちゃんの自己暗示だ。僕はただ、それを維持強化させていたに過ぎないよ」
「自己暗示……?」
椿は驚いて思わず反芻した。が、この程度の予測外れならば問題ない。そうですか、と流して、次の問いへ移った。
「では、もう一つの件――私と、私の弟の件とはなんでしょう」
琴音に絡む遺産の問題を暴かれないために自分たちを退ける必要があった、というもの以外で、自分たち姉弟が一体どのようなわけで雪彦と関わっていたのか。純粋に解らず椿が尋ねると、雪彦はこれまでとは違い、その声にわずかに憎悪めいたものを混ぜながら言った。
「君は……大学時代、さんざん僕のことをコケにしたのを忘れたのかい?」
「コケに……?」
「ああ。君が僕をコケにしたせいで、父は性根の腐った兄貴どころか僕まで見限って、琴音ちゃんに全てを渡したんだ。――そう。君が諸悪の根源なんだよ。君さえいなければ、きっと今頃は全て僕の物になって、世のなか順風満帆に進んでいるはずだったんだ。――と、あはは。こう考えるのは負け惜しみだね。でもね、僕は君の弟と出会った時、仕返しをする機会を神が与えてくれたとさえ思ったんだ。僕の人生を壊した悪魔にようやく仕返しができるんだ、とね」
「私が悪魔? あなた、本当にまだそのように思っているのですか」
「……何が言いたい」
「あなたも本当は解っているのでしょう? あれは単にわたしは、あなたが茶番を始めたことを指摘したに過ぎません。催眠術は催眠者がかけるものではない、あくまで被催眠者が自らかかるものです。そんな基本中の基本も忘れて、あろうことか女に催眠をかけ我が物とした挙げ句、馬鹿げた全能感に陥り、くだらない茶番を繰り広げ始めたあなたが悪い。むしろ私は、そんな恥知らずの状況に陥っているあなたを救ってやったと思っているのですが、違いましたか」
「あ、あれは茶番なんかじゃない! 俺は本当に――」
「まあ、もういいでしょう。あれは終わった話です。ここで議論をしたところで何がどうなるわけでもありません。時間の無駄です」
「く……!」
「ですが一つ言わせてもらいます。先程あなたは諸悪の根源はわたしだと言いましたが、それは謝りです。諸悪の根源は、外ならぬあなたであるとしか思えません。それがなぜだか、あなたには解りますか」
「……なぜだ」
「あなたに、人を信じる心というものが欠落しているからです。全てはそれが原因。琴音を信じることのできなかったあなたが今この状況を生んでいるのです」
「人を信じる心……? ふっ、何を言うかと思えば……くだらない」
「くだらなくなどありません。蓮さんは――彼はそれを心の底で強く持っているからこそ、愛されるのです。守られるのです。あなたとは違って」
「…………」
雪彦は沈黙した。が、やがて苦しげな声で言った。
「しかし……本当にいいのかい。僕を告発すれば、この病院は終わりだ。社会的役割を重く果たしているこの場所を、君は本当に潰すのかい」
「社会的役割がなんだろうと知ったことではありません」
椿は断言した。
「私は蓮さんと、蓮さんの大切なものを守るということ以外に興味はありません。それを果たすためであるなら社会も、自分自身もどうなろうと構いません。――が、今回は、この問題を公にするつもりはありません」
「なぜ?」
「琴音の両親は、既に自殺をしていますね」
「……ああ」
「それを知った時、まさかあなたが殺したのでは――と疑いましたが、どうやらそうではない。彼らの死は本当にただの自殺らしく、近隣住民の話や、警察の検死にこの病院が関わっていなかったことからもおそらくそれは間違いありません。しかし――」
といったん言葉を切って、椿は闇の中の人影を無言で見つめた。その人影はまるで闇に居着いたかのように微動だにしない。椿は続けた。
「しかし、二人を自殺へと追い込んだのはおそらくあなたでしょう。琴音が重体となった時、かつてないほど激怒し二人を糾弾していたということが、これも琴音の家の近隣住民や、この病院の職員たちの口から語られています」
「それは……単なる憶測だ」
「ええ、確かにそうです。ですので、まあ適当に聞き流してくださって結構です」
と椿は前置きしてから、
「おそらく琴音の両親を自殺させたのはあなただ、ともかく私はそう思っています。しかし、なぜあなたはそのようなことをしたのか。それは、確かに遺産が絡んでのことでもあったのでしょう。ですが同時に、それは琴音のための復讐でもあったのではないでしょうか。盗聴した限りでは、あなたは琴音のことを本当に、まさに箱入り娘のように大事にしている。まるで箱に閉じ込めてでも守ろうとしているかのように。辛い事実から遠ざけ、傷つくのを防ごうとしているかのように。ゆえに正確に言えば、あなたはこの病院を守ろうとしていたわけじゃない。無論それもあるでしょうが、それよりも、あなたは琴音を守ろうとしていた。違いますか」
椿が毅然と問うと、雪彦はしばし黙り込んでから、悄然とした声で言った。
「どっちが僕にとって重要だったか、それは僕にも解らない。でも……琴音ちゃんは本当にいい子なんだ……。頭がよくて、素直で、美人で……。あんな両親から生まれたとは思えないほど、純粋で綺麗な子なんだ。彼女が傷つくところなど、僕は見ていることができない……」
「あなたは、やはり琴音を信じるべきだった。琴音は強い子です。全てを話し、信頼しあう同士としてしっかりと手を取り合い、正しく前を向くべきだった。が、あなたはそれを嫌った。やはりそれが誤りの元です」
「はは……。全ては僕が小心者だったせい、か……」
自嘲的に雪彦はそう言うとイスから立ち上がり、こちらへ向かって歩いてきた。そして、やがてうっすらとその表情が見える程までこちらへと近づいてから、
「ああ。完全に僕の負けだよ。でも――ね。やっぱり、琴音ちゃんと君らのことは僕の中で微妙に問題が違うんだよ。だから、しがみついてでも君には復讐をさせてもらうよ」
「復讐? 何を……」
「君の大切なものを奪わせてもらう」
「大切なもの……?」
「蓮くん――彼は今『箱』を通じて琴音ちゃんの夢に入っているんだろう? 夢を通じて記憶の核心に――だったかな?」
「なぜ、『箱』のことを……」
椿が驚きに目を瞠ると、雪彦は嬉しげに笑った。
「ははっ。珍しく抜かったねえ、君。あの部屋に盗聴器を仕掛けているのが自分だけだと思ったかい? 君は僕と琴音ちゃんの会話を盗聴するために仕掛けていたらしいけど、僕は琴音ちゃんと蓮くんの会話を盗聴するために仕掛けていたんだよ。おかげで色々と聞かせてもらえたよ。どうにも信じがたいことだったけれど、でもどうやら本当らしい。あの会話は夢を共有しているとしか思えないものだったからねえ」
椿は、雪彦が言い終えるのも待ち切れずに言った。
「まさかあなた、もうあの『箱』を……!」
「ふっ。その取り乱しようからして、やはりあれを壊されてはまずいんだね。おそらく、夢の中へ入っている最中に壊されたら、琴音ちゃんの中から出てこられなくでもなるんだろう? でも、ハハッ、それはそれで幸せなことじゃないか。好きな女性の中で死ねるなんて、男にすれば夢のような死に方だよ」
「っ! 何を言って……!」
「呼倉蓮――あの男は、初めから気に入らなかった。あれは君と全くと言っていいほど同じ目をしている。常に冷静で、何もかもを見下ろして達観しているような目――人を激しく不快にさせる目だ」
言って、雪彦は歪に膨らんでいたその白衣のポケットから手を抜き、何かを椿の足下へ捨てた。叩き潰されたように割れ、裂けた『箱』だった。
「貴様っ!」
椿はすぐさま雪彦を睨みつける。が、雪彦は涼しく微笑み、
「全く……人という生き物は怖いね。半面で聖人のように善良でありながら、もう半面ではどこまでも残酷な悪人だ」
そう言うと、椿へと背を向けて歩き始めた。
「僕はもう気が済んだから、後は君の好きにすればいい。僕はこの行為の代償として、大人しく、いかなる裁きでも甘んじて受けさせてもらうよ」
椿はその背中を睨み、しかしそのようなことをしている場合ではないと、苦痛に顔を歪ませながらなんとか『箱』を拾い上げ、琴音の病室へと向かった。




