65 知らない時間
秋山清次郎が目を覚ました時、最初に見えたのは白い天井だった。
規則正しく並んだ照明。
鼻につく薬品の匂い。
そして、一定の間隔で鳴る聞き慣れない電子音。
「まだ起きないでください」
横から声を掛けられる。
白い服を着た女性が立っていた。
「……ここは?」
「病院です」
秋山はゆっくり周囲を見る。
白い壁。
カーテン。
見たことのない器具。
腕には、細い管が繋がれている。
「お名前、言えますか?」
「秋山清次郎です」
名前は分かる。
自分が誰なのかも。
記憶がなくなったわけではない。
ただ。
周りにあるものだけが、自分の知っている時間から大きく外れていた。
*
「秋山さん?」
声を掛けられ、秋山は顔を上げた。
公民館。
目の前には鼎が立っている。
「どうしました?」
「いや、こっちの台詞です」
鼎が画面を見る。
「さっきから同じところ見てません?」
「困っています」
「そんな素直に言います?」
秋山が持っていたのは、公民館で借りたタブレットだった。
資料を確認していたのだが、途中からどう操作すればいいのか分からなくなっている。
「ここから、どうすればいいのでしょう」
「ああ」
鼎が隣へ来る。
「ここ押せば戻れます。で、こっちが一覧」
画面に触れる。
「これは?」
「検索です」
「検索?」
「探したいものを入れるんですよ」
「ここに文字を?」
「そうです」
秋山は画面を見る。
「……便利ですね」
「そこから?」
「何か?」
「いや」
鼎は少し考える。
「秋山さん、スマホは?」
「電話はできます」
「それ以外」
「教えていただけますか」
「マジか」
鼎の顔が、少し嬉しそうになる。
「いいですよ。まずスマホというものはですね――」
「鼎」
美羽の声が飛んできた。
「秋山さん困らせないの」
「まだ何もしてないよ」
「秋山さん」
美羽が秋山を見る。
「鼎の説明、長いから途中で止めて大丈夫ですよ」
「丁寧なのは」
秋山は鼎を見る。
「良いことだと思いますが」
美羽と鼎が揃って黙った。
「……何でしょう」
鼎がゆっくり美羽を見る。
「聞いた?」
「聞いた」
「初めて理解者に会った」
「よかったね」
「何だよ、その温度差」
秋山は二人を見ながら、小さく笑った。
ここへ来てから、知らないものをいくつも教わった。
道具。
言葉。
仕組み。
分からなければ聞けばいい。
そうすれば鼎は大抵教えてくれる。
少々、長いが。
目覚めたばかりの頃は、周囲にある何もかもが自分を置いて先へ進んでしまったように見えた。
今は少し違う。
知らないなら、知ればいい。
少なくとも、この場所には聞ける相手がいる。
*
午後。
秋山は公民館に保管された記録を読んでいた。
境界の発生記録。
調査報告。
観測された現象。
古いものから新しいものまで、何冊も机に並べている。
知っている形式もあった。
一方で、自分の頃にはなかった分類や記録方法も増えている。
それでも、何を残そうとしているのかは分かった。
見たものを記録する。
分からないものを、分からないまま残す。
形は変わっていても、その部分には自分の知っているアカライが残っている。
秋山は数冊を並べた。
自分の知っているアカライ。
そして、今ここにあるアカライ。
同じ名前なのに、知らないものが増えている。
その横に、一枚の紙を置いた。
そこへ名前を書く。
Eclipse。
少し前、自分へ接触してきた者たちが名乗った名前。
そして、あの言葉。
――今のアカライは――
「……今の」
秋山は小さく呟いた。
なぜ、ただ「アカライ」とは言わなかったのか。
なぜ、そこへ“今の”と付けたのか。
知らない組織の名前より、そちらの方が今は気になっていた。
自分の知らない時間の中で、アカライに何かが起きている。
少なくとも。
そう考える理由はあった。
*
「神原さん」
資料室の扉を叩く。
「入れ」
秋山が入ると、五和が机に座っていた。
「少しよろしいでしょうか」
「何だ」
向かいの椅子へ座る。
「Eclipseという名前をご存じですか」
五和の手が、ほんの僅かに止まった。
「ああ」
「ご存じなのですね」
「ああ」
それ以上、続かない。
秋山は少し待った。
「……神原さん」
「何だ」
「私が続きを聞くまで、説明する気はありませんね?」
「ああ」
「そうですか」
秋山は僅かに笑った。
「千曲さんが苦労する理由が、少し分かりました」
「余計なことはいい」
「では、聞きます」
秋山は表情を戻した。
「Eclipseとは――」
一度、言葉を止める。
そこで、自分が本当に知りたいことは少し違うと気づいた。
「……いえ」
五和が秋山を見る。
「彼らは私に、“今のアカライ”という言い方をしました」
五和の表情が僅かに変わった。
秋山はそれを見逃さなかった。
「なぜ、“今の”なのでしょう」
「……」
「私の知っているアカライと、何か違うのですか」
五和はすぐには答えなかった。
「秋山」
「はい」
「Eclipseから何を聞いた」
「境界に関わっていること。アカライとは考え方が違うこと。そして、私が何を知っているのか向こうも知りたがっていることです」
「他には」
「今のところはありません」
五和は黙る。
その反応だけで、Eclipseという存在を軽く見ていないことは分かった。
だが、それ以上までは決めない。
「神原さん」
「何だ」
「私の質問への答えは?」
「……今は話せない」
秋山は小さく息を吐いた。
「やはり」
「何だ」
「いえ」
少し考え、頷く。
「分かりました」
「それだけか」
「今聞いても、答えていただけないのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、今は十分です」
秋山は立ち上がる。
答えが得られなかったわけではない。
五和が知っている。
そして、今は話さないと判断している。
それだけでも、自分が知らない時間の中に何かがあるという確認にはなった。
扉へ向かう。
「秋山」
五和が呼び止める。
「はい」
「Eclipseから、また接触があったら教えろ」
秋山は振り返る。
「理由を聞いても?」
「今は話せない」
「そうですか」
一拍。
「では、その時は聞くだけ聞くことにします」
五和が眉を寄せた。
「誰に教わった」
「最近」
秋山は答える。
「身近で見ましたので」
「……早く行け」
「失礼します」
秋山は資料室を出た。
*
夕方。
公民館の前から鼎の声が聞こえる。
「秋山さん!」
「帰りますよ!」
「はい」
秋山は資料を片づけ、鞄を持った。
Eclipse。
今のアカライ。
そして、自分が知っているアカライ。
同じ名前の中に、自分の知らない時間がある。
その時、鼎が入口から顔を出した。
「スマホの続きやります?」
「まだ続くのですか?」
「当たり前じゃないですか」
「まだ入口ですよ」
「……長くなりませんか?」
「秋山さんまで!?」
外から美羽の笑い声が聞こえた。
秋山も小さく笑う。
そして、公民館を出た。
知らないものは増えている。
それは、目覚めた時から変わらない。
けれど。
知らないということと、取り残されたままでいることは同じではない。
今は一つずつ。
自分の知らなかった時間を、確かめていけばいい。




