63 衝突
数日後の午後。
公民館。
鼎は資料室の前で足を止めた。
中には五和がいる。
少し前なら。
何から聞くか。
どこまで聞くか。
今でいいのか。
そんなことを考えていたかもしれない。
今日は、そのまま扉を叩いた。
「五和さん」
「何だ」
「話があります」
五和が顔を上げる。
「入れ」
鼎は中へ入り、扉を閉めた。
*
「父親のことか」
「はい」
もう、それだけで通じた。
鼎は向かいへ座る。
「この前、父さんは最初から何かを探してたわけじゃないって言いましたよね」
「ああ」
「最初は、境界が何なのか知りたかっただけだった」
「そうだ」
「じゃあ」
鼎は五和を見る。
「その後は?」
五和が黙る。
「父さんは、その後も境界を追ってたんですよね」
「ああ」
「何のために?」
「……」
「何かあったんですか」
答えない。
もう、知らない時の沈黙ではないと鼎にも分かった。
「五和さん」
「今は話せない」
鼎は一度、息を吐いた。
予想していなかったわけではない。
それでも、ここまで自分で調べて辿り着いても同じ言葉が返ってくると、胸の奥に引っ掛かる。
「どうしてです?」
「まだ話す時じゃない」
「それは」
鼎は五和を見る。
「誰にとってです?」
五和の目が僅かに動く。
「俺にとって?」
「……」
「それとも、五和さんにとって?」
「鼎」
「俺、ちゃんと聞いてるんです」
「分かってる」
「だったら答えてください」
五和は目を逸らさない。
「話せない」
「……」
腹の奥に、熱が溜まっていく。
「じゃあ、一つだけ教えてください」
「何だ」
「父さんがいなくなったことと」
一拍。
「関係ありますか」
五和は答えない。
「あるんですね」
「そうは言ってない」
「じゃあ、ないんですか」
「それも言えない」
「……それじゃ分からないですよ」
「ああ」
その一言が、妙に引っ掛かった。
「分からなくていいってことですか」
「今はな」
鼎の表情が変わる。
「また、それですか」
「何がだ」
「今は知らなくていい。まだ早い。話せない」
これまで何度も聞いてきた言葉だった。
そのたびに鼎は引いた。
五和には理由があるのだろうと思って。
いつか話せる時が来るのだろうと思って。
「五和さん、ずっとそうじゃないですか」
「必要だからだ」
「何に必要なんです?」
「……」
「俺には、それすら教えてくれないんですか」
「鼎」
五和の声が少し低くなった。
「これ以上は聞くな」
その言葉で。
鼎の中にあったものが、少しだけ崩れた。
「何で」
「今は必要ない」
「だから!」
声が大きくなった。
「何でそれを五和さんが決めるんですか!」
「声を落とせ」
「落とせませんよ!」
五和には、五和の理由がある。
何も考えずに黙っているわけじゃない。
そんなことは分かっている。
分かっているからこそ、ここまで待ってきた。
それでも。
「俺の父親なんですよ」
「……」
「俺の父親のことなのに、何で俺だけ何も知らないんですか」
「お前だけじゃない」
「でも五和さんは知ってる!」
五和の眉が動く。
「父さんがアカライに関わってたことも!」
「一緒に境界を調べてたことも!」
「途中で何かがあったことも!」
「知ってるんでしょう!」
「全部知っているわけじゃない」
「俺より知ってる!」
気づけば、鼎は立ち上がっていた。
「俺は何にも知らなかった!」
もう、敬語を保つ余裕はなかった。
「父さんが何してたのかも! どこに行ってたのかも! 何で帰ってこなかったのかも! 何にも!」
五和も立ち上がる。
「鼎」
「何年だと思ってるんだよ!」
止まらなかった。
「帰ってくるかもしれないって思って! でも帰ってこなくて!」
声にするたび、ずっと押し込んできた時間まで一緒に溢れてくる。
「死んだのかも分からない! どこかで生きてるのかも分からない! それでも何にも分からないから!」
胸の奥に押し込んでいたものが、次々に出てくる。
「俺、ずっと調べてたんだよ! 伝承も! 怪異も! 境界なんて言葉の意味も分からないまま!」
父親が残したノート。
意味の分からなかった言葉。
境界へ入るたび、少しずつ見え方が変わった。
それでも、一番知りたいことだけは何も変わらなかった。
「父さんが何を見てたのか知りたくて! 何でいなくなったのか知りたくて!」
五和は黙って聞いていた。
それが、今は余計に腹が立った。
「何か言ってくださいよ!」
「今のお前に何を言っても同じだ」
「同じじゃない!」
「落ち着け」
「落ち着いてられるか!」
机を挟んでいた距離がなくなる。
鼎は五和の前まで来ていた。
「俺は父さんに聞きたかったんだよ!」
自分でも、その言葉が出るとは思わなかった。
「何で何も言わなかったんだって! 何で勝手にいなくなったんだって!」
そして。
「何で俺を置いていったんだって!」
喉が痛かった。
それでも止まらない。
「俺だって腹立ってるよ! 父さんに! ずっと!」
「……」
「でも、いないんだよ!」
鼎の声が震えた。
「聞きたくても! 怒りたくても! 本人がいないんだよ!」
気づいた時には、鼎は五和の胸ぐらを掴んでいた。
「だから聞いてるんだよ!」
五和は動かなかった。
「知ってる人が目の前にいるから! 父さんと一緒にいた人が! 父さんが何をしてたのか知ってる人がいるから!」
五和は、鼎の手を振り払わなかった。
「だったら話してくださいよ!」
「言えない」
「何で!」
「言えないものは言えない!」
五和の声が響いた。
鼎の動きが止まる。
初めてだった。
五和がここまで声を荒らげたのは。
「……だったら」
鼎は胸ぐらを掴んだまま言った。
「俺はどうすればいいんだよ」
怒鳴っていた声が、少しだけ落ちる。
「知らないまま待ってろって?」
「また?」
「……」
「父さんの時みたいに。何も分からないまま、誰かが決めたことを受け入れて、待ってろって言うんですか!」
「分かったように言うな!」
今度は五和だった。
鼎の手首を掴む。
強かった。
振り払うためではない。
止めるように握っていた。
「何も考えずに黙っていたと思うな!」
鼎が目を見開く。
「何も感じずに、お前の前にいたと思うな!」
「だったら話せよ!」
「話せるなら、とっくに話してる!」
「じゃあ何で言えないんだよ!」
「それを言えないから黙ってるんだ!」
「それじゃ分からない!」
「分からなくていい!」
「よくない!」
二人の声が真正面からぶつかった。
五和の手にも力が入る。
「俺の父親なんだ!」
「分かってる!」
「分かってない!」
「分かってると言ってる!」
「だったら――!」
「お前だけじゃない!」
鼎の言葉が止まった。
五和の呼吸も、いつもより荒かった。
「……何が」
「お前だけが」
五和は鼎を見る。
「何年も抱えてきたと思うな」
鼎の手から僅かに力が抜けた。
「あいつがいなくなって」
五和の声が低くなる。
「何もなかったと思うな」
「……」
初めてだった。
五和が父親のことを、そんなふうに話すのは。
調査仲間。
その一言だけでは収まらない何かが、そこにあった。
「俺だって」
五和が一度言葉を止める。
「……俺だって、聞きたいことはある」
鼎は五和を見る。
怒りが消えたわけではない。
ただ、その言葉だけは聞き流せなかった。
「父さんに?」
「……」
「五和さんも、父さんに聞きたいことがあるんですか」
五和は答えなかった。
だが。
今までの沈黙とは違った。
鼎には、そう感じた。
「じゃあ」
声が少しだけ落ちる。
「五和さんにとって父さんは、何だったんですか」
五和の目が揺れた。
ほんの僅かに。
「ただの調査仲間じゃないんでしょう」
「……」
「だったら――」
「千曲さん!」
扉が開いた。
凪だった。
その後ろに、朝日、美羽、辰野、葵。
全員がその場で止まった。
鼎が五和の胸ぐらを掴んでいる。
五和も鼎の手首を掴んでいる。
それだけで、何が起きていたのかは十分だった。
「鼎」
朝日の声は低かった。
「手、離しな」
「……」
「鼎」
もう一度。
鼎はゆっくり手を離した。
五和も、鼎の手首から手を離す。
シャツに掴んだ跡だけが残った。
「……すみません」
鼎は小さく言った。
五和は何も答えなかった。
美羽たちも、いつものようには声を掛けなかった。
鼎は鞄を取る。
「鼎」
辰野が呼ぶ。
「……今日は帰る」
「大丈夫か?」
「分からない」
少しだけ笑おうとした。
上手くできなかった。
「ちょっと頭冷やしてくる」
誰も止めなかった。
扉へ向かう。
その前で、鼎は足を止めた。
五和を見る。
「……五和さん」
「何だ」
「この前」
五和の目が動く。
「五和さんがいなくなった時」
さっきまでとは違って、声がうまく出なかった。
「何してるのか分からなくて。どこにいるのかも分からなくて」
「……」
「また」
一度、息を吸う。
「何も言わないで、いなくなるのかと思ったんだよ」
五和は何も言わなかった。
「父さんみたいに」
静かだった。
さっきまでの怒鳴り声が、嘘のように。
怒っていた。
腹も立っていた。
それでも、その奥にずっとあったものは別だった。
「……それが」
鼎は俯いた。
「怖かった」
それだけ言った。
今度こそ部屋を出ていく。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
扉が閉まる。
*
しばらくして、朝日が息を吐いた。
「……で?」
五和を見る。
「何だ」
「何だ、じゃないでしょ」
「……」
「あの子がいきなり胸ぐら掴んだとは思ってない」
五和は答えない。
「何言ったの」
「言ってない」
朝日が眉を寄せる。
「……でしょうね」
五和が朝日を見る。
「あんたの場合」
朝日は閉じた扉を見る。
「言わなかった方が問題なんじゃないの」
「朝日さん」
凪が静かに呼ぶ。
「分かってる」
朝日はそれ以上言わなかった。
美羽たちも何も聞かなかった。
やがて一人、また一人と資料室を出ていく。
最後に凪だけが残った。
「神原さん」
「何だ」
「……いえ」
凪は少し考え、首を振った。
「今は、やめておきます」
「そうか」
「はい」
凪も出ていった。
扉が閉まる。
五和は一人になった。
乱れたシャツを直す。
鼎に掴まれていた場所へ、一度だけ手を触れた。
――何も言わないで、いなくなるのかと思ったんだよ。
――父さんみたいに。
――それが、怖かった。
「……」
五和は椅子へ座った。
机の上には、途中まで読んでいた資料がある。
手を伸ばす。
だが、開かなかった。
長い間、黙っていることには理由があった。
今も、その理由がなくなったわけではない。
それでも今日、初めて五和は考えた。
黙ることに理由があることと。
黙り続けること。
それは、本当に同じなのかと。




