44 同じ場所
車は山道を進んでいた。
窓の外には、深い緑が続いている。
標高が上がるにつれ、木々の間には白い幹が目立つようになっていた。
ところどころ、葉の先が黄色く色づき始めている。
まだ山全体を染めるほどではない。
けれど、季節が少しずつ秋へ向かっていることだけは分かった。
鼎は助手席の後ろから外を眺めた。
「まだですか?」
「もう少しです」
運転席の凪が答える。
「さっきもそれ聞いた」
隣から声が飛んできた。
「聞いたっけ?」
「十分くらい前」
「十分経ってるなら、状況変わってるかもしれないだろ」
「十分で?」
「山道の十分なめんなよ」
「何と戦ってんのよ、あんた」
「松本さんだよ」
「は?」
「いや、なんでもない」
葵が睨む。
鼎は窓の外へ顔を戻した。
*
山道を抜けると、不意に視界が開けた。
山々に囲まれた高原に、小さな集落が見えてくる。
斜面に沿って民家が点在し、その間には畑が広がっていた。
遠くの山には深い緑が残り、その中に黄色や淡い赤が混じり始めている。
車を降りると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
さっきまで車窓越しに見ていた山の空気が、一気に近くなる。
五和が歩き出す。
「まず人に会う」
「誰に?」
葵が尋ねる。
「この土地に長く住んでる人間だ」
「千永花のこと知ってるの?」
「分からん」
「またそれ?」
「だから来た」
葵が小さく息を吐いた。
鼎はその横顔を見る。
千永花の話になってから、少し急ぎすぎているように見えた。
祖母が追っていたものが、この土地にあるかもしれない。
そう思えば、無理もないのかもしれない。
*
集落の奥。
古い家の前で、五和が足を止めた。
庭先には小さな畑があり、収穫を待つ野菜が並んでいる。
五和が玄関へ向かう。
しばらくして、一人の老婆が姿を見せた。
「ああ、調べものの人たちね」
「アカライの神原です」
五和が頭を下げる。
「事前に連絡した件で」
「聞いてるよ。外は冷えるから中入りな」
通された和室で、鼎たちは座卓を囲んだ。
五和が一枚の資料を老婆の前へ置く。
「この記録について聞きたい」
老婆は眼鏡を掛けた。
「ああ……これかい」
「知ってますか?」
鼎が聞いた。
「話くらいならね」
老婆は紙を指でなぞった。
「昔、この辺りは水で苦労したそうだよ」
「水?」
「雨が降らない年が続いたことがあったらしい。田んぼも畑も駄目になってね。みんな、雨が降ってくれって願った」
鼎は資料を見る。
「それが、この記録?」
「そう聞いてるよ」
凪が尋ねる。
「その後については?」
「雨は降った」
老婆はあっさり答えた。
「じゃあ、助かったんですか?」
「こっちはね」
鼎が顔を上げる。
「こっちは?」
老婆は窓の外を指した。
「山の向こうにも、昔は集落があったんだよ」
「今は?」
「ほとんど残ってない」
「雨と関係が?」
「さあね。昔の話だからね」
鼎は資料へ目を戻した。
雨を願った人々については記されている。
けれど、山の向こうについては何も書かれていなかった。
「片方しか残ってない……?」
「記録ってのは、残した人のものだからねえ」
老婆が言った。
その言葉に、葵が少しだけ顔を上げた。
*
「ほかにも聞いていい?」
葵が尋ねた。
「いいよ」
「この土地で、変わった花の話って聞いたことない?」
「花?」
「千永花」
老婆は首を傾げた。
「知らないねえ」
「……そう」
葵の声が少し落ちた。
「まだ一人目だろ」
鼎が言う。
「分かってる」
「だったら――」
「分かってるって言ってるでしょ」
鼎は口を閉じた。
言葉ではそう言っていても。
葵が期待していたことくらいは、分かった。
葵は鞄から古いファイルを取り出した。
五和が見る。
「それは?」
「おばあちゃんの」
中には、古い紙の写しや手書きのメモ、花の絵が残されていた。
「昔、千永花を調べてたの。この辺りのことも少しだけ書いてあった」
老婆が紙を覗き込む。
「見てもいいかい?」
「どうぞ」
しばらく紙を見ていた老婆の指が止まった。
「……この字」
葵の表情が変わった。
「何?」
「ずいぶん昔だけどね」
老婆は葵を見る。
「似たようなものを持って、この辺を歩いてた人がいたよ」
部屋が静かになった。
「女の人?」
「ああ」
「どんな人?」
「よく覚えてないよ。もう何十年も前だから」
老婆はもう一度、資料へ目を落とした。
「分からないことがあるから調べてるって、そんなことを言ってた気がするねえ」
葵の指が止まった。
――分からないから、調べてるんだよ。
祖母の声が蘇る。
「……おばあちゃん」
小さく、葵が呟いた。
鼎は何も言わなかった。
葵がずっと見ていたもの。
その理由を、ほんの少しだけ知った気がした。
葵は祖母の資料へ視線を落とす。
千永花は、まだ見つかっていない。
それでも。
祖母が歩いた場所に。
今。
自分も立っている。




