消えた父
第一話を読んでいただきありがとうございます。
昔から都市伝説や伝承、怪異を題材にした物語が好きで、そこから着想を得て本作を書き始めました。
未知への好奇心や、土地に残された記憶をテーマにした物語です。楽しんでいただければ幸いです。
世界には、境界がある。
人が歩ける場所と、歩いてはいけない場所。
生きている世界と、そうではない世界。
昔の人間は、その境界の向こう側にあるものを恐れた。
ある者は神と呼び。
ある者は妖怪と呼び。
ある者はただの噂話として残した。
だけど……
人間は、本当に何もないものを何百年も語り継ぐだろうか。
俺は、そうは思わない。
なぜなら俺は、あの日。
境界の向こう側に触れた人間を知っている。
俺の父親だ。
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1
「鼎、遅れるぞ」
「待ってよ、父さん!」
幼い頃の俺は、父さんの背中を追いかけて山道を歩いていた。
父さんは登山が趣味だった。
休日になると、よく俺を山へ連れて行った。
でも、父さんが興味を持つものは山頂じゃなかった。
途中にある古い祠。
誰にも読めない石碑。
その土地に残る昔話。
父さんが見ていたのは、いつもそういうものだった。
「父さんってさ」
「ん?」
「山登りより、変なもの探してる時間の方が長くない?」
俺が言うと、父さんは笑った。
「変なものじゃない」
「昔の人が残したものだ」
「昔の人が?」
「ああ」
父さんは古い石碑に触れる。
「伝承っていうのはな、ただの作り話じゃない」
「昔の人が何かを感じて、それを後の人へ残したものなんだ」
その時の俺には意味が分からなかった。
でも。
父さんがその話をするときだけ、少し嬉しそうだったことは覚えている。
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2
その日、父さんが連れてきた場所。
山奥にある、小さな湖。
風が止まると、水面は鏡のように静かになる。
音が消えたような、不思議な場所だった。
「ここには昔、面白い話があるんだ」
父さんが言った。
「この湖には、大きな生き物がいるって話がある」
「大きな生き物?」
「ああ。水の中から巨大な影を見たって人がいたらしい」
「ネッシーみたいな?」
父さんは笑った。
「そうだな。似ているかもしれない」
そして、少し真剣な顔になる。
「でもな、鼎」
「大事なのは怪物がいるかどうかじゃない」
「じゃあ何?」
父さんは湖を見る。
「なぜ、人はその話を残したのかだ」
「人間は昔から、理解できないものに名前をつけてきた」
「怖かったからだけじゃない」
「知りたかったからだ」
俺は湖の奥を見る。
何もない。
静かな水面。
でも。
その下に何があるのか、俺には分からなかった。
「本当にいるのかな」
俺が呟く。
父さんは少し笑った。
「さあな」
「でも、いないって証明するのも難しいだろ?」
その言葉が、なぜかずっと心に残った。
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3
それから数年後。
俺の日常は、突然終わった。
父さんが山から帰ってこなかった。
最初、周囲は大きな問題だとは考えなかった。
向かった場所は、何度も登った山。
父さんにとって慣れた場所だった。
道を間違えるような人じゃない。
捜索隊も言った。
「この方が迷うとは考えにくいですね」
でも。
父さんは戻らなかった。
そして、捜索の途中で見つかったのは――
父さんの荷物だけだった。
登山道具。
時計。
そして、一冊のノート。
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そのノートには、父さんが調べていた伝承や怪異の記録が残されていた。
ただ、最後の方だけ様子が違った。
文字は乱れ。
何度も同じ場所が書き直されていた。
最後のページ。
そこには短い文章だけが残されていた。
「境界は、存在する」
その下には。
あの日訪れた湖の名前。
そして、見覚えのない文字。
「神原五和」
その名前が書かれていた。
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4
それから俺は調べ続けた。
怪異。
都市伝説。
土地に残る伝承。
父さんが追い続けたもの。
周囲からは変わっていると言われた。
「まだそんな話調べてるのかよ」
友人に言われる。
俺は答えた。
「調べないと分からないだろ」
「最初から嘘だって決めつけたら、本当にあったものまで見落とす」
友人は呆れた顔をする。
「また始まったよ、鼎の長話」
……否定はできない。
でも。
父さんが何を見て、何を追っていたのか。
それだけは知りたかった。
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5
そして現在。
俺は、あの日の湖へ戻ってきていた。
昔と何も変わらない。
静かな水面。
山の匂い。
でも。
一つだけ違う。
俺には、ここに何かがある気がしていた。
その時。
背後から声がした。
「君も、それを探しているのか」
振り返る。
そこには一人の男が立っていた。
「誰だ」
男は湖を見ながら答える。
「神原五和」
その名前を聞いた瞬間。
胸がざわついた。
「……その名前」
「知っているのか」
男は答えない。
ただ静かに続けた。
「君の父親は、この場所を調べていた」
「父さんを知っているのか」
「ああ」
心臓が跳ねる。
だが同時に、疑問も浮かんだ。
なぜ、この男が知っている。
なぜ、今ここにいる。
五和は湖を見る。
「彼は消えたんじゃない」
「では、どこへ?」
俺が聞く。
五和は少し間を置いた。
「境界に触れた」
その瞬間。
風が止まった。
湖面が揺れる。
水の奥。
一瞬だけ。
巨大な影が見えた気がした。
⸻
第一話 終
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