第82話 境界に立つひと
三年後の、初夏の午後。
森の光は、以前と変わらずやわらかいけれど、枝葉の伸び方や風の抜け方に、はっきりとした季節の積み重なりが見えるようになっている。
かつて踏み固められていた地面には、薄く新しい草が生え、獣道の輪郭も少しずつ曖昧になっていた。
「ザーラ、やっぱりここにいた」
少し落ち着いた声が、木立の向こうから届く。
振り返ると、背の伸びた少女が歩いてくる。
ルティ。
以前のように駆けてくるのではなく、足場を選びながら、でも迷いなく近づいてくる歩き方。
その手には、小さな籠。
採ってきたばかりの薬草が、きちんと分けて入れられている。
「ミーナに頼まれてたやつ、だいたい揃ったよ。あとで見てもらおうと思って」
言葉はまだ素朴だけれど、考えて話しているのがわかる。
ザーラはそれを受け取らず、ただやわらかく目を細める。
「……ありがとう。ちゃんと見分けられるようになったんだね」
「うん。匂いと葉の裏でわかるようになってきた。前は全然だったけど」
少しだけ誇らしげに笑う。
そのまま、ザーラの隣に腰を下ろす。
「それで、また“境界”見てたの?」
「……うん」
ザーラは前を見たまま答える。
ルティも同じ方向を見る。
けれど、やはりそこには何もない。
「正直、私はまだよくわからないな。あるのはわかるけど、“どこからがそうなのか”までは」
以前のような「なにもないよ?」ではなく、理解しようとする言葉になっている。
ザーラは少しだけうなずく。
「……わからないままでいいと思う。見えすぎると、たぶん困るから」
「困る?」
「……引っ張られるから」
その言い方に、ルティは少しだけ黙る。
完全には理解していない。
でも、軽く扱ってはいけないことは感じ取っている。
「……ザーラは、平気なの?」
まっすぐな問い。
ザーラは、ほんの一瞬だけ間を置く。
そのわずかな間に、三年分の時間がにじむ。
朝、起きたときに指先の感覚が少し薄い日があること。
風に触れているのに、自分の輪郭だけが遅れているように感じること。
眠る前、境界の“向こう側”の静けさが、やけに心地よく思えてしまうこと。
「……うん、大丈夫」
そう答えて、ルティの頭に手を置く。
触れた感触は、ちゃんとあたたかい。
確かめるように、ほんの少しだけ長く触れる。
ルティは気づかないふりをして、そのまま肩を寄せる。
「ねえ、ザーラ」
「なに?」
「前のこと、もう少し思い出せるようになってきたんだ」
「……ほんと?」
「うん。あのときの光、今のとは違うっていうのも、なんとなくわかる」
ゆっくり言葉を選びながら続ける。
「たぶん、あれは“使う光”だったんだと思う。でも今は違う。“ここにある光”って感じ」
ザーラは、少し驚いたように目を細める。
「……ちゃんと、わかってきてるね」
「ザーラがそうしてるからだよ」
さらりと言う。
三年前にはなかった言い方。
「ザーラ、開かないでしょ。閉じもしないで、ずっと保ってる」
ルティは、まっすぐにザーラを見る。
「だから私も、そうしたい」
その言葉に、ザーラの胸がわずかに揺れる。
「……私は、まだそこまでできないけど。でも、隣にはいられると思う」
迷いの少ない声。
ザーラは、小さく息を吐いて笑う。
「……それで十分だよ」
遠くで、木を打つ規則的な音が響く。
ガイル。
変わらず、外縁を見続けている。
そのさらに奥、高い場所にはリオンの姿。
視線は常に外側へ。
何かがあれば、すぐ動ける距離。
ミーナは少し離れた場所で薬草を広げながら、二人を見ている。
もう、不安そうな顔はしていない。
その代わり、長く続くものを見守る目になっている。
ザーラは、再び空を見る。
見えない境界。
でも、確かにそこにある。
そして、その一部が――自分の中にある。
「……これでいい」
小さくつぶやく。
そのとき、立ち上がった瞬間に、ほんのわずかに体が揺れる。
ルティがすぐに気づいて手を取る。
「……やっぱり無理してるでしょ」
少しだけ、責めるような声。
でも優しい。
「……大丈夫」
「大丈夫じゃない時もあるでしょ」
言い切る。
三年前にはなかった強さ。
ザーラは少しだけ驚いて、それから笑う。
「……うん、ある」
「じゃあ、その時はちゃんと言って」
ルティが手を握り直す。
「私、ちゃんと支えるから」
その言葉に。
ザーラは、ほんの少しだけ目を閉じる。
「……ありがとう」
ふたりは、そのままゆっくり歩き出す。
光の中へ。
精霊たちが、静かに揺れる。
境界は、そこにある。
閉ざすものでもなく。
開くものでもなく。
ただ、保たれている。
選び直されたかたちで。
そして――少しずつ。
確実に。
ザーラは、その“向こう側”へ近づいていた。




