第79話 風が止む前に
夕暮れが、ゆっくりと地平に沈み込みながら、精霊領域の光さえも息を潜めるように弱めていく。
いつもなら、やわらかく脈打つように揺れているはずの空気が、今日はどこか張りつめていて、不自然なほど静かだった。
リオンは、その中心に立ったまま、目を閉じている。
耳を澄ませているわけではない。
気配を読むでもない。
ただ、境界のさらに外側にある“圧”を、そのまま受け取るように感じている。
やがて、ほんのわずかに眉が動く。
「……近いな、思ったよりも」
誰にともなく落とされたその声は、低く、確信に満ちていた。
少し離れた場所では、ミーナが火の準備を続けている。
手は確かに動いているのに、その動きはどこかぎこちなく、時折ふっと止まる。
視線が、何度も森の奥へ向く。
本来なら見えないはずの“向こう側”を、確かめるように。
「……来るのよね、やっぱり」
小さな声だった。
確認というより、自分に言い聞かせる響き。
「ああ、来る」
リオンは目を閉じたまま答える。
間を置かず、ミーナが続ける。
「……逃げるだけじゃ、だめなの?」
わずかな沈黙が落ちる。
その沈黙が、答えだった。
それでも、リオンは言葉にする。
「……逃げるだけじゃ、終わらせられない」
優しさのない現実が、そのままそこにある。
ミーナは何も返さず、ただ手の中の薪を強く握りしめる。
そのすぐそばで、まったく違う時間が流れていた。
「……ねえ、みて! ひかり、こっち来た!」
ルティが、精霊の光を追いかけて走っている。
足取りは軽く、声は弾み、何一つ変わっていない。
「……つかまえた!」
くるりと振り返って笑うその顔に、緊張は欠片もない。
ザーラは、その姿をじっと見つめている。
胸の奥に、まだ残っている。
さっき告げられた言葉。
対価。
失うもの。
それでも。
それでも、もう迷わないと決めたばかりだった。
「……ルティ」
静かに呼ぶ。
「……なに?」
振り向いたその顔は、まっすぐで、無防備で。
「……こっち、おいで」
「……うん!」
迷いなく駆け寄ってくる。
勢いのまま、ぶつかるように抱きつく。
ザーラは、そのまましっかりと抱きとめる。
壊さないように。
でも、離さないように。
「……どうしたの?」
「……なんでもない」
小さく笑ってみせる。
ルティは少しだけ首をかしげるが、やがて問いを変える。
「……いっしょ、いれば、いい?」
その言葉が、まっすぐ胸に落ちる。
「……うん、一緒にいよう」
それだけで、十分だった。
少し離れた場所から、リオンがその様子を見ている。
その目は優しくはない。
ただ、全てを計算に入れた上で見ている目だった。
そのとき。
空気の層が、わずかにずれる。
「……遅いな、少し」
低い声とともに、木々の影からガイルが姿を現す。
気配は最小限。
存在だけが、すっと現れる。
ミーナが息を呑む。
「……ガイル」
彼は振り向かない。
視線はすでに外側へ向いている。
「……来る。数も、質も悪い」
短いが、十分すぎる報告。
「……どれくらい」
「……群れじゃない。統率されてる」
その一言で、場の温度がさらに下がる。
リオンが、ゆっくりと目を開ける。
ガイルと視線が交わる。
数秒。
言葉はない。
だが、結論はすでに共有されている。
「……前は任せる」
「ああ、抑える」
それだけで配置は決まる。
ミーナがザーラを見る。
言葉は出ない。
だが、その目ははっきりと伝えている。
守って。
ザーラは、静かにうなずく。
ルティの手を、強く握る。
「……いくよ、ここからは離れないで」
「……うん、わかった!」
意味は完全には理解していない。
それでも、信じている。
その瞬間だった。
風が、止まる。
今まで流れていたものが、嘘のように。
完全な静止。
音が、消える。
精霊の光が、一斉に不規則な脈動を始める。
ざわめきが、見えるほどに揺れる。
「……来たな、触れてきた」
リオンの声が、さらに低くなる。
境界の向こう側で、“何か”が接触している。
見えない壁に、圧がかかる。
きしみが、空間そのものから響く。
「……強引にこじ開ける気か」
ガイルが、わずかに体勢を落とす。
外側から、力が加わる。
押す。
歪む。
耐える。
限界が近づく。
光がひび割れるように揺れる。
精霊たちが、恐怖に似たざわめきを広げる。
「……来るぞ、合わせろ」
その声の直後。
境界に、一本の裂け目が走る。
細い線だったそれが、瞬時に広がる。
外側の“気配”が、内側へ流れ込もうとする。
空気が悲鳴を上げるように歪む。
そして――
境界が、完全に裂けた。




