第51話 ゆれる世界
草原の只中――
つい先ほどまで確かにそこにあった歪みは、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えている。
それでも。
「……」
空気だけが、明らかに違っていた。
張りつめたまま、何かが潜んでいるような、見えない圧がその場に残っている。
「……」
ルティは、リオンの手を握ったまま離さない。
小さな指先に、わずかな震えが残っている。
「……こわい……」
ぽつりと零れた声は、抑えきれない本音だった。
「……」
リオンは何も言わない。
だが、その手だけは離さず、ほんの少しだけ力を込めて握り返す。
「……」
ザーラは周囲へと視線を巡らせながら、低く問いかける。
「……さっきの、何」
リオンは一瞬だけ考え、言葉を選ぶように口を開く。
「……境界だ」
短く、それだけ告げる。
「……この世界はな、きれいに一枚でできてるわけじゃない」
「……」
ザーラの眉が、わずかに動く。
リオンは続ける。
「……いくつもが、重なってる」
「……?」
ルティが、小さく首をかしげる。
それに合わせるように、リオンはゆっくりとしゃがみ込み、目線を同じ高さに落とす。
「……たとえばな」
地面を指し示す。
「……ここに道があるだろ」
「……うん」
「……でも、本当は見えない道もある」
「……」
「……さっきのは、その見えない道が、ずれて表に出た」
「……」
ルティは、じっとその説明を聞いている。
難しい。
けれど。
少しだけ考えて。
「……こわれた?」
リオンの目が、わずかに細くなる。
「……近いな」
その答えに、ルティは小さくうなずく。
完全じゃないけれど、なんとなくわかった気がする。
「……」
ザーラが、今度は核心に触れる。
「……原因は」
「……」
リオンの視線が、一瞬だけルティに落ちる。
だが、すぐに逸らされる。
「……わからん」
短い答え。
嘘ではない。
だが、すべてでもない。
「……」
ザーラはそれを感じ取るが、それ以上は追及しない。
◇◇◇◇◇◇◇◇
そのとき。
「……」
ルティが、ふいに足を止める。
「……?」
ザーラがすぐに反応する。
「……どうした」
「……」
ルティは答えない。
ただ、じっと前を見つめている。
「……」
草原の一角――何もないはずの場所。
だが、そこに“何か”があるように見えている。
「……」
次の瞬間、ルティはそっとリオンの手を離す。
「……!」
ザーラが、即座に声を上げる。
「……ルティ!」
しかし、止まらない。
小さな足で、とことこと歩き出す。
まるで、何かに呼ばれているかのように。
「……待て」
リオンが声をかける。
だが、それでも足は止まらない。
「……」
そして――一歩、踏み出した瞬間。
「……!」
空気が揺れる。
再び、歪みが生まれる。
「……っ」
ザーラが走る。
リオンも同時に動く。
だが――ほんのわずかに、間に合わない。
「……」
ルティの足元から、光が広がる。
今度は、はっきりと。
“道”が開いていく。
その向こう側が、見える。
「……」
やわらかく、しかし底知れない光。
「……きれい……」
思わず、ルティが手を伸ばす。
「……っ」
その腕を、ザーラが強くつかむ。
「……だめ!!」
引き戻す。
その瞬間――
ぱきん、と乾いた音が響き。
世界が閉じる。
歪みは消え、すべてが元通りになる。
「……」
静寂。
「……」
ルティは、ザーラに強く抱きしめられている。
「……ルティ!」
その声は、怒りではなく、恐怖に震えていた。
「……勝手に行かないで」
「……」
ルティは驚きながらも、すぐにしゅんとする。
「……ごめんなさい……」
小さな声で謝る。
ザーラはしばらくそのまま抱きしめたまま、やがて少しだけ力を緩める。
「……」
呼吸を整える。
「……」
その横で、リオンが無言のまま先ほどの場所を見つめている。
何もない。
だが――確信する。
「……やっぱりな」
ぽつりと呟く。
ザーラの視線が鋭く向く。
「……何」
リオンは、まっすぐルティを見る。
「……この子が“鍵”だ」
空気が、止まる。
ルティには意味がわからない。
ただ、不安そうにザーラを見上げる。
ザーラはその頭に手を置き、守るように寄せながら、リオンを睨む。
「……詳しく」
逃がさない声音。
「……」
リオンは少しだけ黙り、それから正直に言う。
「……全部は、まだ言えない」
「……でも」
一歩、近づく。
「……このままじゃ、また起きる」
「……もっと大きく」
沈黙が落ちる。
「……」
ザーラの中で、はっきりと決意が固まる。
守るだけでは足りない。
知らなければ、守れない。
「……」
ルティの手を、今度は自分から握る。
「……行くわよ」
「……うん」
小さくうなずく。
リオンもまた、何も言わずに前を向く。
「……」
三人は、再び歩き出す。
まだ見えない“世界の奥”へ向かって。




