番外編 ー 再会 ー 【挿絵あり】
雪の夜だった。
白樺亭の窓へ、暖炉の火がやわらかく滲んでいる。
外は静かだった。
森は深く眠っていて、風の音さえ遠い。
けれど、白樺亭の中だけは違う。
皿の音。
スープの湯気。
誰かのため息。
小さな笑い声。
その全部が、ちゃんと“生きている場所”の音だった。
「……」
ルティは、窓際の席でぼんやり外を見ていた。
両手でカップを抱えている。
左腕の痣は、もうだいぶ薄くなっていた。
痛みも、ほとんどない。
ただ時々、遠くで鐘の音がした時だけ、かすかに熱を持つ。
それだけだ。
「また外見てる」
ミーシャが言う。
「……ゆき」
「昼も見たでしょ」
「……よるの、ちがう」
「詩人みたいなこと言うわね」
ルティは、少し考えた。
「……しじん?」
「忘れなさい」
暖炉の前で、バルドが吹き出した。
その時だった。
コンコンコン。
扉が鳴った。
夜にしては静かな音だった。
白樺亭の空気が、ほんの少し止まる。
ザーラが、静かに顔を上げた。
バルドが立ち上がる。
「……誰だ」
返事はない。
代わりに。
もう一度。
コンコンコン。
ゆっくりした音。
急かさない。
けれど、逃げない音だった。
バルドが扉へ近づく。
ミーシャが、さりげなくルティを後ろへ寄せた。
セレナも視線を細める。
ザーラだけが、じっと扉を見ていた。
「……」
扉が開く。
冷たい雪の空気が流れ込む。
そこに立っていた男を見た瞬間。
ザーラの呼吸が、止まった。
「……っ」
雪を被った外套。
夜の中でも目立つ、淡い金髪。
そして。
ザーラとよく似た、静かな青い瞳。
けれど、その目には。
長い年月を背負った人間だけが持つ疲れが、深く滲んでいた。
「……」
男も、動かなかった。
暖炉の灯りの向こう。
ザーラを見る。
まるで。
ずっと失くしていたものを、ようやく見つけた人みたいに。
「……」
誰も、何も言えない。
空気だけが静かに張っていく。
それから。
男が、小さく息を吐いた。
白い息が、夜へ溶ける。
「……生きてたんだな」
低い声だった。
でも。
その一言だけで。
ザーラの中に、ずっと凍っていた何かが、ひび割れる音がした。
「……」
ザーラは、返事ができなかった。
帰れないと思っていた。
もう会わないと思っていた。
ずっと昔に、終わったものだと思っていた。
だから。
その声を聞いた瞬間。
胸の奥で、昔の自分が痛んだ。
「……にい、さま」
かすれた声。
男――アルヴェインは、その呼び方を聞いて、わずかに目を閉じた。
苦しそうに。
泣きそうに。
でも。
泣かなかった。
公爵という立場が、長い時間をかけて、その泣き方を忘れさせてしまったみたいに。
「……今さら、そんな顔をする資格はないが」
静かな声。
「それでも、一度は確認したかった」
ザーラが、ぎゅっと指を握る。
昔。
家を追われた日のことを思い出していた。
助けてほしかった。
でも。
誰も逆らえなかった。
兄も。
まだ若かった。
弱かった。
だから。
今さら責める気も、もうなかった。
でも。
許したわけでも、きっとない。
「……」
アルヴェインは、ゆっくり白樺亭を見る。
ルティ。
ミーシャ。
バルド。
暖炉。
食卓。
誰かを待つ灯り。
その全部を見て。
静かに理解したみたいだった。
「ああ」
小さく呟く。
「……ここへ帰ってきたのか」
ザーラが、少しだけ目を伏せる。
「……ええ」
アルヴェインは、ゆっくり頷いた。
それから。
ようやく視線をルティへ向ける。
ルティは、じっと見返していた。
それから。
ぽつり、と言う。
「……ザーラ、おにいちゃんいた」
ザーラが、ぴたりと止まる。
「今そこ?」
セレナが吹き出した。
ルティは真剣だった。
「……にてる」
「どこが」
「……め」
アルヴェインが、少しだけ驚いた顔をした。
それから。
ほんの少しだけ、笑った。
ザーラによく似た笑い方だった。
「……君が、ルティか」
ルティが、こくりと頷く。
アルヴェインは、しばらくその小さな姿を見ていた。
境界から帰ってきた子。
ザーラを連れ戻した子。
外縁が、恐れ始めている存在。
でも。
今目の前にいるのは。
暖かいスープを抱えて、ぽやっとこちらを見ている、小さな子どもだった。
「……」
アルヴェインは、小さく息を吐く。
それから。
低い声で言った。
「外縁側は、こちらで抑えた」
白樺亭が静かになる。
バルドの目が細くなる。
「……抑えた?」
「少なくとも、今すぐお前たちへ手を出す者はいない」
アルヴェインの声は静かだった。
けれど。
その静けさには、本物の重みがあった。
「境界から帰還した者へ不用意に触れるな、と正式に通達を出した」
セレナが、わずかに目を見開く。
「公爵権限で?」
「そうだ」
短い返答。
「反発もある。だが、それ以上に恐れている」
アルヴェインは、ルティを見る。
「帰ってきたことを」
暖炉が、ぱちりと鳴る。
「……」
ルティは、少し難しい顔をした。
「……わたし、こわくない」
アルヴェインが、少しだけ目を細める。
「だろうな」
その声は、不思議と優しかった。
「だから、余計に恐ろしいんだ」
ザーラが、静かに兄を見る。
「……守るの」
アルヴェインは、少しだけ黙った。
それから。
本当に静かに言う。
「今度こそは」
その言葉で。
ザーラの胸が、ぎゅうっと痛くなった。
昔は、間に合わなかった。
守れなかった。
追い出される妹を、止められなかった。
境界へ消えていく妹を、救えなかった。
その後悔を。
この人は、ずっと抱えていたのだと分かってしまった。
「……」
ザーラは、何も言えない。
代わりに。
ルティが、ぽつりと言った。
「……ザーラ、ないてる」
「泣いてない」
即答だった。
でも、声が震えている。
ミーシャが、そっと目を逸らす。
セレナが、小さく笑う。
アルヴェインは、その様子を見ていた。
そして。
本当に少しだけ、肩の力を抜いた。
「……そうか」
小さな声。
「ちゃんと、帰れたんだな」
ザーラの目から、ぽろりと涙が落ちる。
帰れないと思っていた。
もう、自分にはないと思っていた。
でも。
白樺亭があった。
ミーナがいた。
ルティがいた。
そして今。
兄まで、自分を“帰ってきた者”として見ている。
「……」
ザーラは、静かに目を伏せる。
涙が落ちる。
でも。
その顔は、境界で泣いていた頃とは違った。
ひどく痛くて。
ひどくあたたかい涙だった。
アルヴェインは、長くは居座らなかった。
立場のある人間だ。
外で待機している者もいるのだろう。
帰る前。
彼は、ザーラを見る。
「……また来る」
昔みたいに。
“戻ってこい”とは言わなかった。
ザーラは、少しだけ黙る。
それから。
視線を逸らしたまま、小さく言う。
「……勝手にしなさい」
ぶっきらぼうな声。
でも。
アルヴェインは、少しだけ笑った。
「そうする」
扉が開く。
冷たい雪の夜。
出ていく背中を見ながら。
ルティが、小さく呟く。
「……ザーラ、おにいちゃんすき?」
ザーラが、固まる。
「なっ……」
セレナが吹き出す。
ミーシャが慌てて口を押さえる。
バルドが顔を背けた。
ルティは真顔だった。
「……にてるから」
ザーラが、とうとう両手で顔を覆う。
「お願いだから今は黙って……」
その声は、泣き笑いみたいに震えていた。
暖炉の火が、静かに揺れる。
窓の外では、雪が降っている。
けれど。
その夜の白樺亭は、不思議なくらいあたたかかった。




