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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第61話 鐘が呼んだもの

カァァァァン――――。


鐘楼から響いた鐘の音は、今までとは比べものにならないほど深く、白い世界そのものを揺らした。


その音は、ただ空気を震わせるだけではなかった。


湖へ沈んでいた景色。


崩れた町。


灰色の空。


帰れなくなった影たち。


その全部へ、一斉に“帰りたい”という感情を思い出させていく。


「……っ」


ルティは、胸を押さえた。


苦しい。


頭の奥へ、無数の声が流れ込んでくる。


――帰りたい。


――家へ。


――忘れないで。


――ひとりにしないで。


「ルティ!」


セレナが肩を支える。


けれど、その声さえ遠かった。


湖面へ映る人影たちが、ゆっくりこちらへ歩き始める。


最初は静かだった。


ただ、帰る道を探しているみたいに。


でも。


数が増える。


声が増える。


感情が、濁り始める。


――わたしを。


――わたしを先に。


――帰して。


白い湖が、大きく波打った。


「まずいな」


リオンの低い声。


その視線の先で、湖面の影たちは、もう“ただの影”ではなくなっていた。


誰かの腕を掴む。


押しのける。


縋りつく。


帰りたい。


帰りたい。


その感情だけが、形を持ち始めている。


「……っ」


ルティの喉が、小さく震える。


怖い。


さっきまでは、みんな静かだった。


なのに。


“帰りたい”を思い出した途端、こんなにも苦しそうになるなんて。


「……」


その時だった。


一人の影が、水面から這い出るように前へ出る。


痩せた女だった。


ぼやけた輪郭。


空っぽだった瞳。


その目が、まっすぐルティを見る。


――おねがい。


ルティの肩が、びくっと震えた。


――おねがい。


女の影が、手を伸ばしてくる。


――わたしを、帰して。


「……っ」


ルティが、一歩前へ出かける。


でも、その瞬間。


別の影が、女の足を掴んだ。


黒い手。


湖の底から伸びるみたいに。


――置いていくな。


女が悲鳴を上げる。


その声へ重なるように、さらに別の声が響く。


――わたしも。


――わたしも帰りたい。


――先に。


――いやだ。


――ひとりはいやだ。


白い湖が、一気にざわめいた。


今まで穏やかだった水面が、感情そのものみたいに荒れ始める。


「下がれ!!」


ガイルが叫ぶ。


バルドが即座にルティを引き寄せる。


「見るな!」


「……でも!」


「今はだめだ!!」


その瞬間だった。


ザーラが、初めて声を荒げた。


「だから来てほしくなかった!!」


全員の動きが止まる。


ザーラは、震えていた。


白い道の真ん中で。


小さな身体を強張らせながら。


「帰りたいって気持ちは、きれいなものだけじゃない!」


声が、悲鳴みたいに震える。


「置いていかれたくない」


「忘れられたくない」


「自分だけ帰れないのが怖い」


「そんな気持ちまで全部、鐘は呼び起こしてしまうの!」


湖の影たちが、一斉に呻き声を上げる。


――帰して。


――帰して。


――帰して。


その声は、もう祈りじゃなかった。


執着だった。


痛みだった。


「……っ」


ルティの胸が、ぎゅうっと痛む。


苦しい。


悲しい。


でも。


「……」


ザーラは、もっと苦しそうだった。


「私は、これを止められなかった」


ザーラが、震える声で言う。


「助けたかった」


「みんな帰したかった」


「でも、無理だった」


湖面へ、昔の景色が浮かぶ。


鐘楼の前で泣いているザーラ。


無数の手に引っ張られている。


助けて。


帰して。


置いていかないで。


その声へ、全部応えようとして。


少しずつ、自分が沈んでいく。


「……」


ルティは、息を呑む。


ザーラはずっと、一人でこれを抱えていた。


帰りたい声を聞き続けて。


誰も置いていけなくて。


だから、自分が帰れなくなった。


「……」


その時だった。


鐘楼の最上階。


割れた窓の奥に立っていた“誰か”が、ゆっくりこちらを向いた。


ぞわり、と。


空気が変わる。


湖のざわめきが、一瞬で静まり返った。


「……っ」


ルティの呼吸が止まる。


顔は見えない。


でも。


“目”だけが見えた。


深い。


暗い。


底のない色。


その人影が、ゆっくり口を開く。


――ルティ。


「……!」


ルティの肩が、大きく揺れる。


今の声。


「……え」


それは。


自分の声だった。


小さな頃の。


泣きそうな、自分の声。


――おいで。


「……っ」


頭の奥が、ぐらりと揺れる。


違う。


でも。


懐かしい。


帰りたくなる声。


その瞬間。


また声がした。


今度は。


「ルティ」


やさしい声。


ミーシャの声だった。


「帰っておいで」


ルティの目が、大きく開く。


白樺亭の景色が、一瞬だけ見える。


暖炉。


パンの匂い。


窓際の席。


「……っ」


足が、勝手に前へ出そうになる。


でも。


「見るな!!」


リオンの怒声が響いた。


その瞬間、幻がぶれる。


「っ……!」


ルティが、はっと息を呑む。


鐘楼の窓の人影は、静かにこちらを見下ろしていた。


そして。


また、ルティの声で囁く。


――帰りたいんでしょう?


「……」


ルティの身体が震える。


帰りたい。


もちろん帰りたい。


白樺亭へ。


みんなのところへ。


「……っ」


でも。


違う。


何か違う。


あの声は、“帰ってこい”じゃない。


もっと。


甘い。


深く沈む声。


帰るんじゃなくて。


“溶けてしまえ”と言っているみたいな声だった。


「ルティ!!」


バルドが、強く肩を掴む。


「こっち見ろ!!」


ルティが、苦しそうに顔を上げる。


そこには、ちゃんとバルドがいた。


怖い顔。


乱暴な声。


でも。


生きてる人の顔。


「……」


ルティの目に、涙が滲む。


怖い。


本当に怖い。


鐘楼の上の“あれ”は、自分の帰りたい気持ちを使って呼んでくる。


「……ルティ」


ザーラが、震える声で言った。


「あれは、“帰りたい”を食べる」


白い湖が、大きく揺れる。


鐘楼の窓の奥。


黒い影が、ゆっくり笑った気がした。


「帰る場所が欲しい人ほど、引かれる」


「だから、だめ」


ザーラの声が、崩れそうになる。


「近づいたら、戻れなくなる」


ルティは、鐘楼を見上げた。


怖い。


今すぐ逃げたいくらい怖い。


でも。


「……」


小さく息を吸う。


それから。


震える声で、ゆっくり言った。


「……でも」


バルドが、ルティを見る。


ルティは、鐘楼から目を離さなかった。


怖いまま。


泣きそうなまま。


それでも。


「……ザーラ」


「……ひとりで、いた」


ザーラの目が、揺れる。


「……わたし」


「……それ、やだ」


小さな声。


でも。


その声は、ちゃんと前を向いていた。


「……こわい」


ルティが、正直に言う。


「……でも」


「……かえる」


「……ちゃんと」


それは。


初めてだった。


“怖くない”ではなく。


“怖いけど進む”と、ルティが自分で言ったのは。


白い湖の風景が、静かに揺れる。


鐘楼の窓の影が、じっとルティを見つめている。


まるで。


“本当に来るのか”と試しているみたいに。


ルティは、パンの袋をぎゅっと抱きしめた。


白樺亭の匂い。


帰る場所の匂い。


そして。


小さく、でもはっきり言った。


「……むかえに、いく」


その瞬間。


鐘楼の上で。


巨大な鐘が、もう一度、低く鳴いた。

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