表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

149/171

第59話 帰りたい音

白い湖の上を、一行は静かに歩いていた。


足元へ続く白い石畳は、水面へ沈むこともなく、まるで最初からそこにあった道みたいに、鐘楼へ向かって淡く伸びている。


空は白かった。


雲もない。


太陽もない。


なのに、不思議と暗くはなくて、世界そのものが薄い光の中へ溶け込んでいるみたいだった。


風は吹かない。


水も揺れない。


ただ、ときどき遠くから、鐘の音だけが響く。


カーン――。


今まで地下道で聞いていた、“こん”という欠けた音ではない。


少しだけ、鐘楼の鐘らしい音。


けれど、まだ完全ではなかった。


響きの奥が、どこか割れている。


寂しくて、途切れそうで。


まるで、“帰り方”そのものを忘れてしまった鐘が、それでも必死に鳴ろうとしているみたいな音だった。


「……」


ルティは、胸の前へパンの袋を抱えたまま歩いていた。


時々、その袋へ顔を近づける。


白樺亭の匂い。


焼きたての、小麦の匂い。


あたたかかった場所の匂い。


それだけで、少しだけ息がしやすくなる。


「……におい、へった」


ぽつり、とルティが呟く。


「食いもんだからな」


バルドが即答した。


「減らねえ方が怖え」


「……」


ルティは、真剣な顔で袋を見る。


「……ふえると、うれしい」


「夢みてえなパンだな」


「……しろかばていなら、あるかも」


「ねえよ」


バルドが即座に返す。


そのやり取りに、セレナが小さく吹き出した。


静かすぎる白い湖へ、かすかな笑い声が落ちる。


すると、その瞬間だった。


湖面へ映っていた崩れた町の景色が、ほんの少しだけ揺らぐ。


黒い灰ばかりだった道端へ、白い花が一輪、静かに咲いた。


「……」


ザーラが、それを黙って見ていた。


白い道の少し先。


振り返らないまま歩いていた少女の輪郭が、さっきよりほんの少しだけはっきりしている。


まるで、少しずつ“こちら”へ戻ってきているみたいだった。


「……ザーラ」


ルティが、小さく呼ぶ。


ザーラが、ゆっくり振り返る。


「なに」


「……かね」


ルティは、遠くの鐘楼を見た。


霧の向こうにそびえる、壊れた塔。


「……なおしたら」


「……みんな、かえる?」


ザーラは、少しだけ目を伏せた。


長い沈黙。


それから、静かな声で答える。


「……全部は無理」


その言葉は、小さかった。


でも、はっきり重かった。


「帰れない人もいる」


ルティの足が、止まる。


「……」


ザーラは、白い湖を見つめたまま続ける。


「向こう側に長くいすぎた人」


「帰る場所を忘れた人」


「“帰りたい”っていう気持ちそのものが、薄れてしまった人」


声が、少しずつ沈んでいく。


「鐘を鳴らしても、戻れない」


白い湖が、静かに波打った。


ルティは、その言葉をじっと聞いていた。


黙ったまま。


逃げずに。


「……」


それから、小さく聞く。


「……ザーラも?」


ザーラは、答えなかった。


でも、その沈黙だけで分かってしまう。


ルティの胸が、ぎゅうっと痛くなる。


ザーラは、たぶん最初から知っていた。


自分は、戻れないかもしれないって。


だから、ルティを帰そうとしている。


「……」


その空気を切るみたいに、バルドが低く言った。


「だったら鐘なんざ鳴らさねえ」


ザーラが、少しだけ目を見開く。


「……バルド」


「全員帰れねえなら意味ねえだろ」


「そんな単純な話じゃない」


「単純だ」


バルドの声は硬かった。


「こいつに、“誰を置いてくか選べ”って話なら、そんなもん最初から却下だ」


ルティが、ゆっくり顔を上げる。


ザーラは、苦しそうに目を伏せた。


「でも、それが現実なの」


「全部は救えない」


「私も、それで失敗した」


その瞬間だった。


湖面が、大きく揺らぐ。


白い水へ、映像が浮かび上がる。


崩れた鐘楼。


泣いている人たち。


向こう側へ引かれていく影。


その中で。


必死に手を伸ばしているザーラ。


小さな身体で。


ひとり。


またひとり。


助けようとして。


呼び止めて。


引き戻そうとして。


そのたびに、自分の足元が沈んでいく。


「……っ」


ルティが、息を呑む。


ザーラは、泣いていた。


映像の中で。


ずっと。


「帰って」


「お願い」


「帰って」


何度も。


何度も。


声が枯れるほど叫んでいた。


でも。


最後には、自分がどこへ帰ればいいのか、分からなくなった。


「……」


映像が消える。


ザーラは、静かに言った。


「あなたも、同じになる」


「だから、帰って」


白い湖の上へ、壊れた鐘の音だけが響いていた。


カーン――。


遠く。


寂しい音。


「……」


ルティは、ぎゅっとパンの袋を抱きしめる。


「……いや」


小さく言った。


ザーラが、目を上げる。


「……いや、だ」


今度は、少しだけ強かった。


ルティの目には、涙が滲んでいる。


でも、逃げていない。


ザーラを、ちゃんと見ている。


「……わたし」


「……ぜんぶ、むり」


ザーラの目が、少し揺れる。


「……?」


「……ぜんぶ、たすける」


「……できない」


ルティは、ゆっくり言葉を探す。


ちゃんと言いたい。


ちゃんと伝えたい。


難しい。


でも、今は逃げたくない。


「……でも」


「……きいて」


「……かえりたい、ひと」


「……いる」


「……なら」


「……よぶ」


白い湖が、静かに揺れた。


ザーラが、息を止める。


ルティは、続ける。


「……わたし」


「……むりやり、つれてかない」


「……でも」


「……かえりたい、って」


「……おもいだしたひと」


「……よぶ」


その声は、小さい。


けれど、前よりずっと芯があった。


「……」


「……わたしも、かえる」


ルティが、自分の胸を押さえる。


「……ひとりで、いかない」


「……きえるの、ちがう」


「……ちゃんと、かえる」


そして。


ルティは、ザーラをまっすぐ見た。


逃げずに。


逸らさずに。


「……ザーラも」


「……きいて」


ザーラの唇が、わずかに震える。


「……なにを」


ルティは、小さく息を吸った。


それから。


胸の前のパンを、そっと持ち上げる。


「……ごはん」


バルドが、一瞬だけ顔をしかめる。


「そこから入るのかよ」


「……だいじ」


「まあ……そうだが」


ルティは、真剣な顔で頷く。


「……あったかいの」


「……しろかばてい」


「……ミーシャ」


「……リック、うるさい」


「……オットー、まどぎわ」


「……バルド、こわい」


「そこ固定なのか」


「……でも」


ルティの声が、少しだけやわらかくなる。


「……みんな」


「……かえってきて、いい、っていう」


その瞬間だった。


白い湖が、大きく揺れる。


湖面へ映る崩れた町の景色が、少しずつ変わっていく。


灰の中へ、花が増える。


消えていた灯りが、一つずつ戻っていく。


ザーラの瞳が、大きく揺れた。


「……」


ルティは、頑張って言葉を続ける。


「……わたし」


「……わすれない」


「……だから」


「……ザーラも、わすれないで」


ザーラの頬を、涙が伝った。


「……無理よ」


かすれた声。


「長くいすぎた」


「帰る場所が、もう……」


「……ある」


ルティが、すぐ言う。


ザーラが、息を止める。


「……ある」


「……まだ、ある」


「……セレナ、いる」


セレナが、目を見開く。


ルティは、ザーラを見たまま続ける。


「……なくなってない」


「……まってる」


その瞬間。


ザーラの表情が、くしゃりと崩れた。


そして。


カーン――――。


鐘楼の鐘が、大きく鳴った。


今までで一番、“鐘楼の鐘”らしい音だった。


白い湖へ、波紋が広がる。


湖面へ映っていた無数の人影たちが、一斉に顔を上げる。


「……!」


セレナが、息を呑む。


影たちは、ゆっくりこちらを見る。


空っぽだった顔へ、少しずつ感情が戻っていく。


懐かしさ。


悲しさ。


帰りたい気持ち。


「……」


ルティの左腕が、どくん、と脈打つ。


でも、今までみたいな“引かれる痛み”ではなかった。


誰かの声が、流れ込んでくる。


――帰りたい。


――帰りたい。


――帰りたい。


ルティは、目を閉じる。


苦しい。


悲しい。


でも。


小さく息を吸って。


そして。


初めて、自分からはっきり言った。


「……かえろ」


その言葉は。


誰か一人へ向けたものじゃなかった。


白い湖へ。


鐘楼へ。


帰れなくなった人たちへ。


そして。


自分自身へ向けた言葉だった。


「……かえろ」


もう一度。


今度は、少し強く。


「……みんなで」


その瞬間。


鐘楼の最上部に吊られていた巨大な鐘へ、静かに“音”が戻った。


今までずっと、壊れた響きしか返さなかった鐘が。


誰にも届かなかった鐘が。


遠い昔に置き去りにされたみたいに、冷たく沈黙していた鐘が。


ルティの「かえろ」という声へ応えるみたいに、かすかに震える。


カーン――。


白い世界へ、鐘の余韻がゆっくり広がっていく。


それは、誰かを追い立てる音ではなかった。


閉じ込める音でもない。


まるで。


“帰ってきていい”と、世界そのものが思い出し始めたみたいな音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ