第59話 帰りたい音
白い湖の上を、一行は静かに歩いていた。
足元へ続く白い石畳は、水面へ沈むこともなく、まるで最初からそこにあった道みたいに、鐘楼へ向かって淡く伸びている。
空は白かった。
雲もない。
太陽もない。
なのに、不思議と暗くはなくて、世界そのものが薄い光の中へ溶け込んでいるみたいだった。
風は吹かない。
水も揺れない。
ただ、ときどき遠くから、鐘の音だけが響く。
カーン――。
今まで地下道で聞いていた、“こん”という欠けた音ではない。
少しだけ、鐘楼の鐘らしい音。
けれど、まだ完全ではなかった。
響きの奥が、どこか割れている。
寂しくて、途切れそうで。
まるで、“帰り方”そのものを忘れてしまった鐘が、それでも必死に鳴ろうとしているみたいな音だった。
「……」
ルティは、胸の前へパンの袋を抱えたまま歩いていた。
時々、その袋へ顔を近づける。
白樺亭の匂い。
焼きたての、小麦の匂い。
あたたかかった場所の匂い。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
「……におい、へった」
ぽつり、とルティが呟く。
「食いもんだからな」
バルドが即答した。
「減らねえ方が怖え」
「……」
ルティは、真剣な顔で袋を見る。
「……ふえると、うれしい」
「夢みてえなパンだな」
「……しろかばていなら、あるかも」
「ねえよ」
バルドが即座に返す。
そのやり取りに、セレナが小さく吹き出した。
静かすぎる白い湖へ、かすかな笑い声が落ちる。
すると、その瞬間だった。
湖面へ映っていた崩れた町の景色が、ほんの少しだけ揺らぐ。
黒い灰ばかりだった道端へ、白い花が一輪、静かに咲いた。
「……」
ザーラが、それを黙って見ていた。
白い道の少し先。
振り返らないまま歩いていた少女の輪郭が、さっきよりほんの少しだけはっきりしている。
まるで、少しずつ“こちら”へ戻ってきているみたいだった。
「……ザーラ」
ルティが、小さく呼ぶ。
ザーラが、ゆっくり振り返る。
「なに」
「……かね」
ルティは、遠くの鐘楼を見た。
霧の向こうにそびえる、壊れた塔。
「……なおしたら」
「……みんな、かえる?」
ザーラは、少しだけ目を伏せた。
長い沈黙。
それから、静かな声で答える。
「……全部は無理」
その言葉は、小さかった。
でも、はっきり重かった。
「帰れない人もいる」
ルティの足が、止まる。
「……」
ザーラは、白い湖を見つめたまま続ける。
「向こう側に長くいすぎた人」
「帰る場所を忘れた人」
「“帰りたい”っていう気持ちそのものが、薄れてしまった人」
声が、少しずつ沈んでいく。
「鐘を鳴らしても、戻れない」
白い湖が、静かに波打った。
ルティは、その言葉をじっと聞いていた。
黙ったまま。
逃げずに。
「……」
それから、小さく聞く。
「……ザーラも?」
ザーラは、答えなかった。
でも、その沈黙だけで分かってしまう。
ルティの胸が、ぎゅうっと痛くなる。
ザーラは、たぶん最初から知っていた。
自分は、戻れないかもしれないって。
だから、ルティを帰そうとしている。
「……」
その空気を切るみたいに、バルドが低く言った。
「だったら鐘なんざ鳴らさねえ」
ザーラが、少しだけ目を見開く。
「……バルド」
「全員帰れねえなら意味ねえだろ」
「そんな単純な話じゃない」
「単純だ」
バルドの声は硬かった。
「こいつに、“誰を置いてくか選べ”って話なら、そんなもん最初から却下だ」
ルティが、ゆっくり顔を上げる。
ザーラは、苦しそうに目を伏せた。
「でも、それが現実なの」
「全部は救えない」
「私も、それで失敗した」
その瞬間だった。
湖面が、大きく揺らぐ。
白い水へ、映像が浮かび上がる。
崩れた鐘楼。
泣いている人たち。
向こう側へ引かれていく影。
その中で。
必死に手を伸ばしているザーラ。
小さな身体で。
ひとり。
またひとり。
助けようとして。
呼び止めて。
引き戻そうとして。
そのたびに、自分の足元が沈んでいく。
「……っ」
ルティが、息を呑む。
ザーラは、泣いていた。
映像の中で。
ずっと。
「帰って」
「お願い」
「帰って」
何度も。
何度も。
声が枯れるほど叫んでいた。
でも。
最後には、自分がどこへ帰ればいいのか、分からなくなった。
「……」
映像が消える。
ザーラは、静かに言った。
「あなたも、同じになる」
「だから、帰って」
白い湖の上へ、壊れた鐘の音だけが響いていた。
カーン――。
遠く。
寂しい音。
「……」
ルティは、ぎゅっとパンの袋を抱きしめる。
「……いや」
小さく言った。
ザーラが、目を上げる。
「……いや、だ」
今度は、少しだけ強かった。
ルティの目には、涙が滲んでいる。
でも、逃げていない。
ザーラを、ちゃんと見ている。
「……わたし」
「……ぜんぶ、むり」
ザーラの目が、少し揺れる。
「……?」
「……ぜんぶ、たすける」
「……できない」
ルティは、ゆっくり言葉を探す。
ちゃんと言いたい。
ちゃんと伝えたい。
難しい。
でも、今は逃げたくない。
「……でも」
「……きいて」
「……かえりたい、ひと」
「……いる」
「……なら」
「……よぶ」
白い湖が、静かに揺れた。
ザーラが、息を止める。
ルティは、続ける。
「……わたし」
「……むりやり、つれてかない」
「……でも」
「……かえりたい、って」
「……おもいだしたひと」
「……よぶ」
その声は、小さい。
けれど、前よりずっと芯があった。
「……」
「……わたしも、かえる」
ルティが、自分の胸を押さえる。
「……ひとりで、いかない」
「……きえるの、ちがう」
「……ちゃんと、かえる」
そして。
ルティは、ザーラをまっすぐ見た。
逃げずに。
逸らさずに。
「……ザーラも」
「……きいて」
ザーラの唇が、わずかに震える。
「……なにを」
ルティは、小さく息を吸った。
それから。
胸の前のパンを、そっと持ち上げる。
「……ごはん」
バルドが、一瞬だけ顔をしかめる。
「そこから入るのかよ」
「……だいじ」
「まあ……そうだが」
ルティは、真剣な顔で頷く。
「……あったかいの」
「……しろかばてい」
「……ミーシャ」
「……リック、うるさい」
「……オットー、まどぎわ」
「……バルド、こわい」
「そこ固定なのか」
「……でも」
ルティの声が、少しだけやわらかくなる。
「……みんな」
「……かえってきて、いい、っていう」
その瞬間だった。
白い湖が、大きく揺れる。
湖面へ映る崩れた町の景色が、少しずつ変わっていく。
灰の中へ、花が増える。
消えていた灯りが、一つずつ戻っていく。
ザーラの瞳が、大きく揺れた。
「……」
ルティは、頑張って言葉を続ける。
「……わたし」
「……わすれない」
「……だから」
「……ザーラも、わすれないで」
ザーラの頬を、涙が伝った。
「……無理よ」
かすれた声。
「長くいすぎた」
「帰る場所が、もう……」
「……ある」
ルティが、すぐ言う。
ザーラが、息を止める。
「……ある」
「……まだ、ある」
「……セレナ、いる」
セレナが、目を見開く。
ルティは、ザーラを見たまま続ける。
「……なくなってない」
「……まってる」
その瞬間。
ザーラの表情が、くしゃりと崩れた。
そして。
カーン――――。
鐘楼の鐘が、大きく鳴った。
今までで一番、“鐘楼の鐘”らしい音だった。
白い湖へ、波紋が広がる。
湖面へ映っていた無数の人影たちが、一斉に顔を上げる。
「……!」
セレナが、息を呑む。
影たちは、ゆっくりこちらを見る。
空っぽだった顔へ、少しずつ感情が戻っていく。
懐かしさ。
悲しさ。
帰りたい気持ち。
「……」
ルティの左腕が、どくん、と脈打つ。
でも、今までみたいな“引かれる痛み”ではなかった。
誰かの声が、流れ込んでくる。
――帰りたい。
――帰りたい。
――帰りたい。
ルティは、目を閉じる。
苦しい。
悲しい。
でも。
小さく息を吸って。
そして。
初めて、自分からはっきり言った。
「……かえろ」
その言葉は。
誰か一人へ向けたものじゃなかった。
白い湖へ。
鐘楼へ。
帰れなくなった人たちへ。
そして。
自分自身へ向けた言葉だった。
「……かえろ」
もう一度。
今度は、少し強く。
「……みんなで」
その瞬間。
鐘楼の最上部に吊られていた巨大な鐘へ、静かに“音”が戻った。
今までずっと、壊れた響きしか返さなかった鐘が。
誰にも届かなかった鐘が。
遠い昔に置き去りにされたみたいに、冷たく沈黙していた鐘が。
ルティの「かえろ」という声へ応えるみたいに、かすかに震える。
カーン――。
白い世界へ、鐘の余韻がゆっくり広がっていく。
それは、誰かを追い立てる音ではなかった。
閉じ込める音でもない。
まるで。
“帰ってきていい”と、世界そのものが思い出し始めたみたいな音だった。




