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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第39話 忘れられていく人


白樺亭の中には、妙な静けさが落ちていた。


ついさっきまで響いていた皿の音も、笑い声も、今はどこか遠い。


誰も、大きな声を出さない。


出せなくなっていた。


窓から差し込む昼の光は変わらずやわらかいのに、空気だけが妙に冷たい。


「……」


窓際の席。


オットーがいつも座っていた場所。


そこだけが、ぽっかりと空いている。


「……」


ルティは、その席をじっと見ていた。


いる。


そこに、いる。


見えないだけで。


ちゃんと、まだ。


「……」


けれど。


周囲の空気は、少しずつ変わっていく。



「……いや、待て」


最初に声を出したのは、リックだった。


落ち着かない様子で頭を掻きながら、何度も窓際を見る。


「オットーだろ?」


「毎日いたじゃねえか」


「……」


誰も、すぐには答えない。


リックは、苛立ったように続ける。


「でかくて、無口で……」


そこまで言って、止まった。


「……」


顔が浮かばない。


頭の中に、輪郭だけがある。


でも。


そこへ色がつかない。


「……っ」


リックの表情が、ゆっくり歪む。


「なんでだよ……」


小さく、声が震える。


「毎日見てたのに……」


思い出そうとするたび、頭の奥が鈍く痛んだ。


まるで、無理やり何かを剥がされていくみたいに。



ミーシャが、不安そうに口を開く。


「……私、昨日パン渡したわ」


誰に言うでもなく。


確認するみたいに。


「ちゃんと、“いつもの”って言ったの」


「……」


その声が、少しずつ弱くなる。


「……言った、わよね?」


返事はない。


誰も、自信を持てなかった。


「……」


ミーシャの目が揺れる。


思い出せない。


笑っていた気がする。


小さく頷いた気がする。


でも。


どんな顔だった?


「……」


胸の奥が、ひやりと冷える。


「やだ……」


小さくつぶやく。


「なんで、分かんなくなるの……」


声の最後が、少し震えていた。



バルドは、何も言わなかった。


ただ、窓際の席を見ている。


じっと。


動かずに。


「……」


頭の中では、確かに分かっている。


オットーは常連だった。


毎日来ていた。


酒を飲んで。

スープを飲んで。

無言で帰る。


それを、何年も繰り返していた。


そのはずなのに。


「……」


服の色が、思い出せない。


声も。


歩き方も。


笑った顔も。


「……くそっ」


低く、吐き捨てる。


怖かった。


本当に。


目の前から誰かが消えることより。


“いたはずの人間を思い出せなくなる”ことの方が。


ずっと、ずっと怖かった。



「……いる」


小さな声。


ルティだった。


全員の視線が向く。


ルティだけが、窓際を見ている。


「……オットー、いる」


迷いなく言った。


「そこ」


小さな指が、席を指す。


「……」


その瞬間。


ことん。


机の上のコップが、わずかに揺れた。


誰も触れていない。


なのに。


水面だけが、小さく波打つ。


「っ……!」


ミーシャが息を飲む。


リックが、一歩後ずさる。


「……なんだよ、今」


誰も答えられない。


けれど。


そこに何かがいる。


それだけは、全員が感じていた。



ルティは、ゆっくりと席へ近づいていく。


ぱた、ぱた、と小さな足音だけが静かに響く。


「……」


指先の痣が、じわりと熱を持っていた。


黒が、少しだけ広がっている。


「……っ」


痛い。


皮膚の奥へ、何かが染み込んでくるみたいだった。


でも。


止まれない。


「おい、ルティ」


バルドの声が飛ぶ。


「近づくな」


低い声。


怒鳴っているわけじゃない。


怖がっている声だった。


「……」


ルティは、振り返らない。


「……ひとり」


ぽつりと、言う。


「……くらい」


声が小さい。


でも。


店の中は静かすぎて、その言葉だけがはっきり響いた。


「……」


「……さみしい」


その一言で。


空気が、止まる。



窓際。


空っぽの席。


誰もいないはずの場所。


でも。


「……」


ルティには分かる。


いる。


そこに。


ぼんやりと。


薄く。


消えかけながら。


オットーが、座っている。


「……」


顔は、もうよく見えない。


輪郭も曖昧だ。


境界へ引っ張られている。


少しずつ。


“こちら側”から消えている。


「……」


ルティの胸が、きゅっと痛んだ。


嫌だった。


このまま消えるの。


みんなが忘れていくの。


誰も思い出せなくなるの。


そんなの、嫌だった。


「……オットー」


小さく、名前を呼ぶ。


その瞬間。


ふわり、と。


酒の匂いがした。


強い酒の匂い。


毎日、白樺亭に残っていた匂い。



「……!」


リックの目が開く。


「っ、今……!」


思い出す。


酒臭い息。


低い声。


無言で笑う顔。


一瞬だけ。


本当に、一瞬だけ。


記憶が戻る。


「……オットー!」


思わず、叫ぶ。


その瞬間。


空気が、大きく揺れた。


窓際の景色が、ぐにゃりと歪む。


「っ!」


ガイルが即座に動く。


「下がれ!!」


鋭い声。


全員が息を飲む。


ルティだけが、動かない。


「……」


痣が、広がる。


黒が、指先から手首へ滲み始める。


「ルティ!!」


バルドの声。


けれど。


ルティは、ただ席を見ていた。


消えかけている。


今なら、まだ。


まだ届く。


「……かえる」


小さく言う。


「……いっしょ」


手を伸ばす。


見えない誰かへ。


その瞬間。


冷たい。


深い。


底のない感覚が、指先を飲み込んだ。


「……っ!!」


ルティの身体が、大きく揺れる。


視界が暗くなる。


引っ張られる。


向こう側へ。


「ルティ!!」


誰かの声。


遠い。


でも。


「……」


小さな手だけは、離さなかった。


「……ひとり、だめ」


泣きそうな声で。


そう言った。

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