第38話 減っていくもの
朝の白樺亭には、いつもの匂いが満ちていた。
焼きたてのパン。
温かいスープ。
木の机に染みついた、長い時間の生活の匂い。
窓から差し込む光はやわらかく、外を歩く人々の声も穏やかだ。
何も変わっていない。
本当に、何も。
「……」
それなのに。
ルティは、入口の前で立ち止まっていた。
小さな手が、扉の取っ手に触れたまま動かない。
「……?」
首をかしげる。
何かが、おかしい。
「おい、どうした」
後ろからバルドの声が飛ぶ。
「開けっぱなしにすんな」
「……うん」
返事をする。
でも、すぐには動かなかった。
「……」
見ている。
店の中を。
机。
椅子。
窓。
カウンター。
全部、いつも通り。
それなのに。
「……へん」
ぽつりと、つぶやく。
「何がだ」
「……」
言葉が出ない。
分からない。
でも。
“少ない”。
そんな感覚だけが、胸に残っていた。
⸻
昼になると、白樺亭はいつも通り賑わい始めた。
常連たちが席につき、皿の音と笑い声が重なっていく。
リックが大声で笑い、ミーシャが呆れた顔をしている。
バルドは相変わらずぶっきらぼうで、ルティはぱたぱたと小さな足音を響かせながらパンを運んでいた。
「……これ」
「おう、ありがとな」
いつものやり取り。
いつもの景色。
「……」
でも。
やっぱり、何かが変だった。
ルティは、何度も店の奥を見る。
窓際。
いつも誰かが座っている席。
「……」
空いている。
「……?」
小さく首をかしげる。
誰だっけ。
いつも、そこにいた人。
大きな手でスープを飲む人。
声の低い人。
「……」
思い出せない。
「おい、ルティ」
ミーシャが呼ぶ。
「そっち運んでー」
「……うん」
返事をして動く。
でも。
胸の奥に、ざらざらした違和感が残ったままだった。
⸻
夕方。
客足が少し落ち着いた頃。
「……あれ?」
ぽつりと、リックが声を漏らした。
「どうした」
バルドが顔を上げる。
「いや……」
リックが、店の中を見回す。
「オットー来てねえなって」
「……」
その瞬間。
空気が、少しだけ止まった。
「……あ?」
バルドが眉を寄せる。
「……そういや」
今日はまだ、一度も見ていない。
毎日来る。
決まった席に座る。
酒を飲んで、無言で帰る。
あの男を。
「……珍しいな」
ミーシャが言う。
「体調でも崩したのかしら」
「……」
誰も、すぐには動かなかった。
ただ。
妙な沈黙だけが落ちる。
「……」
ルティが、ゆっくり顔を上げる。
窓際の席。
空っぽ。
「……」
胸が、ざわつく。
昨日。
いた。
確かに。
「……」
そのときだった。
ガタン。
店の奥で、椅子が倒れる音。
「っ!?」
全員が振り向く。
誰もいない席。
なのに。
椅子だけが、ゆっくり揺れていた。
「……なんだ」
リックが顔をしかめる。
風はない。
窓も閉まっている。
それなのに。
「……」
ルティの目が、わずかに開く。
見える。
床。
椅子の下。
薄く。
黒い線。
「……っ」
息が止まる。
線が、増えている。
昨日よりも。
もっと深く。
もっと広く。
「……だめ」
小さく、つぶやく。
その瞬間。
空気が、ぴたりと冷えた。
ミーシャが肩を震わせる。
「……なに?」
「……」
誰も答えられない。
でも。
“何かがいる”。
全員が、そう感じていた。
⸻
「……おい」
バルドの声が低くなる。
「オットー、昨日帰ったよな」
「……たぶん」
リックが答える。
でも、途中で止まる。
“たぶん”。
なぜ、そんな曖昧なんだ。
昨日、話した気がする。
酒も飲んでた。
笑っていた。
……本当に?
「……」
頭の奥が、ぐらりと揺れる。
思い出せない。
顔が、ぼやける。
声も。
歩き方も。
「……なんだよ、これ」
リックの声が震える。
「なんで……思い出せねえんだ」
その瞬間。
ルティの背筋が、ぞわりと粟立った。
「……いる」
小さく言う。
全員が振り向く。
「どこだ」
バルドが聞く。
「……」
ルティは、ゆっくりと店の奥を見る。
窓際。
空席。
そこに。
“何か”が座っている。
見えない。
形はない。
でも。
いる。
「……」
ルティの指先の痣が、じわりと熱を持つ。
黒が、少しだけ広がる。
「……っ」
苦しそうに、小さく息を飲む。
その瞬間。
空席の前に置かれていた水の入ったコップが。
ことん、と揺れた。
誰も触れていないのに。
ゆっくりと。
まるで、“そこに誰かいる”みたいに。




