9. 妹が着いた日
三十日目の夕、車輪を石にきしませて、門へ馬車が着く。侍女と長持を連れ、妹が降りた。王都の外套の色だけが、北の夕暮れに一つだけ明るく浮く。門番が槍を寄せて問う。
「どちら様で?」
「王都から。ルヴェック伯爵家の、デルフィーヌよ」
使用人が客を迎える列を作る。その間を縫い、車軸を鳴らして、同じ門へ下の村の荷が着く。土と薪の匂いをまとった者たちは妹の馬車を素通りし、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「奥様、割符をくだされ。今年の最後の荷だで」
「一荷に一枚。ご苦労さまです」
「今年は、麦が食えるだで。奥様の札で」
「お姉様、この者たちは?」
「薪を運ぶ、下の村の方々です」
妹の目が、割符、村の者、わたしの順に移る。侍女は長持の取っ手を握ったまま、荷車を避けて半歩下がった。
「峠の道、長かったわ。馬車が二度も止まったの」
「根雪の前で、ようございました」
「根雪? ……お姉様、王都の言葉で言ってちょうだい」
「峠が閉じる雪です。今日が、その前でした」
妹は空を仰ぎかけ、すぐ顎を戻す。王都とは違う低い雲が、峠へ重たく垂れて夕映えを隠している。それから、思い出したように口元だけで笑う。
「お姉様、繋ぎをありがとう。離れは、用意してくださったのでしょう?」
「はい。薪が三月分、乾いております」
妹が離れの戸を開けると、薪が天井まで積み上がっている。乾いた樹の皮と木屑の匂いが、蓄えた重さごと暗がりから溢れ、冷えた頬を撫でる。
「離れに、薪?」
「乾いた屋根が、他にありません」
料理番が、離れの戸口から薪の山越しに声を通す。
「お客様のお部屋は、客間に」
「客、ですって?」
「届けが出るまでは誰もが客です」
妹は薪の山を見上げ、それからわたしへ視線を戻す。外套を押さえた指が、戸口の薄闇で止まる。
「この薪は、誰が?」
「三つの村の者が運び、兵が積みました」
「お姉様が、頼んだの?」
「頼んでいません。割符を切りました」
妹の眉が寄る。王都で札と言えば、夜会の招きを記した、指先ほどに軽い紙だ。
「割符って、何?」
「薪一荷と替える札です。これから、その札の話から覚えることになります」
「……覚える? わたくしが?」
「印を持つ方が、覚えます。帳に、覚えを書いてあります」
妹が、割符の白い木肌を指でつつく。小さな音が返る。
「その札、わたくしにも切れるの?」
「印を持てば。印は、閣下がお渡しになる物です」
妹の目が、わたしの手へ落ちる。麻で剥けた指の皮には綱の跡がまだ赤く、ひりつく。
「お姉様、手が……荒れているわ」
「麻の分です。綱を二本、綯いましたので」
料理番が先に立ち、冷えた廊下へ足を向ける。侍女は長持の取っ手を握ったまま、客間と食卓の方角を見比べ、動けずにいる。
◇
食卓の席は二つ。殿の席と、奥の席。どちらの前にも、まだ膳は無く、磨かれた板に火の色だけが揺れる。妹は衣の裾を鳴らし、ためらわず奥の席へ寄る。
「客間の方の膳は、客間へ運ばせます」
料理番は台所から湯気の立つ膳を持って現れ、妹の前で足を止めず、硬い音を廊下へ残して出て行く。
「わたくしの席は?」
「客間に、膳を」
「お姉様が、そこに?」
「はい。三十日、奥の席に」
「……三十日も?」
妹の目が、奥の席の座面へ落ちる。外套をつまむ指が、浅い皺を作る。
「……お姉様が、毎日?」
「はい。空けずに」
妹の侍女が、戸口で膳の行く先を目で追う。料理番の足音は廊下の奥へ遠ざかり、石の冷たさだけが残る。
わたしは奥の席に着く。座面の木には、三十日の重みが薄い艶となって馴染んでいる。妹はその二つを見比べたまま、裾さえ動かさない。
食卓に、妹の席は無かった。
閣下が入る。戸外の冷気を背から流し込み、殿の席へ腰を下ろす。妹は衣擦れの音さえ止め、火の光の中で立ち尽くし、手を固く握っている。
「わたくしが、証文の花嫁ですのよ」
「王命は、伯爵家の娘を初霜の日までに迎えろ、だ。初霜の日に門をくぐったのは、この人だ」
「でも、繋ぎだと伺って……」
「繋ぎは終わりだ」
字のとおりに聞く。終わり。膝の上で組んだ指から、火の熱が引いていく。三十日、この手で繋いだ切れ目が一度に開き、耳の奥で鳴る。
「妻は、この人だ」
「……え?」
思いもよらなかった一言に体が――震えた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 話が違いますわ!」
「それは侯爵家に言いたまえ」
「え……? お、お姉様、まさか……?」
「妻からは何も聞いてはおらんよ。【北の獣】と謗られても、そのくらいの情報は得られるのだよ」
妹の肩が落ち、立ったままの身体から張りつめていた力がほどけていく。外套の裾が石床をこすり、かすかな音を立てる。
「……閣下」
「明朝、馬車を回す。王都まで送らせる」
妹は答えない。侍女が戸口から半歩出て、靴底を擦ってまた戻る。料理番は客間から姿を見せ、膳の空いた盆を胸に抱えたまま、敷居を越せずにいる。閣下は匙を取り、湯気を割って黙って食い始めた。
妻は、この人だ。字のとおりに聞いても、その言葉は印の朱より鮮やかなまま、まだ帳のどの欄にも収まらない。麻で剥けた指先だけが、針で突いたように痛む。
食卓のあと、客間の戸の前で妹が振り向く。廊下の石は足の裏まで冷たいが、台所から流れる薪の匂いは途切れず、火のある方角を教えている。
「……北は、怖いと聞いていたの。獣が出ると」
「怖いところです、デルフィーヌ。薪が切れれば」
「お姉様は、怖くなかったの?」
「見ていたのは、切れ目だけです」
「……お姉様らしいわ」
妹は、わたし自身のことを初めて訊いた。帰り支度の低い物音が向こうで始まるなか、その問いだけは帳からこぼさぬよう、消さずに覚えておくことにする。王都で十年、わたしのことを何も訊かなかった。訊かなくても、火は足されていたからだ。いまは戸越しの衣擦れが、紙の端で指を切るように残る。
妹が、戸の取っ手を握ったまま、もう一度こちらを見る。指の節が白く浮き、目はそらさない。
「……明日は、見送ってくださる?」
「はい。門で。割符を渡す門ですので」
妹が戸を開ける。客間の薪が小さくはぜ、火の音とぬくもりが廊下へこぼれてくる。
「明日の馬車は、朝早いの?」
「峠が閉じる前に。根雪は、待ちません」
「……分かったわ」
「では、明朝に。馬車は、閣下が回してくださいます」




