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12/12

12. 塩の橇

 三十六日目の朝、料理番が奥の間の戸口から声を上げた。冷えた廊下を、その響きが薪の煙より早く走ってくる。


「奥様! 塩が、ほとんどありません!」


「あら、いつまで持ちますか?」


「今日の鍋までです。明日は、塩無しの汁ですよ」


 家令が帳の上に指を置く。節の太い指が、先代の帳の塩の行を押さえている。塩の行は、先代の帳にはある。わたしの帳には、まだ無い。


「塩は、先代の奥様が東の湖の塩商から買っておいででした。橇は、冬に二便。麦と替えます」


「去年の冬は?」


「……ふん。塩商は来ましたが、印が眠っていて麦が出せず、塩は下ろされずに帰りました。殿は財布で、兵の鍋の塩を買い足しておいでで。屋敷の壺は、その残りでございます」


「では、今年は麦を出します。塩の道を、帳に」


 蔵の塩は、雪囲いの日に見てあった。橇を待つだけの行だ。塩の道、と書く。切れ目が、また一つ行になった。塩の無い汁の味を、舌が先に思い出す。伯爵家の冬にも、塩が切れた年があった。


 昼、鈴の音が坂を上って来る。橇だ。雪囲いの板の隙間から、鈴の音だけが先に届く。門へ出ると、雪の上を滑って来た橇が、鈴を鳴らして止まった。馬の息が白く、橇の底の板が雪を押した跡が、坂の下まで二本の筋で続いている。俵と、油紙の包みと、客。白髪を短く刈った婆が、蜂蜜の壺を胸に抱えたまま橇から降りる。門番が槍を寄せて問う。


「どちら様で?」


「あたしはヴァラ。東の湖の、塩商の後家さね」


 橇の者が、俵を肩へ移し、その重みに膝を沈めて言う。


「先代の塩商の奥方で。今年は、自分で北を見ると仰って」


「塩商の奥方が、橇で?」


「湖の冬は退屈でねえ。……お嬢さんが、この家の奥かい?」


 婆の目が、わたしの手の印箱から、指の綱の跡まで下りる。目の色は黒く、白髪の下で、よく動く。


「奥印は、わたしが持っています。塩は、麦と替えます」


「賭けようか、お嬢さん。この塩、春まで持つか持たんか?」


「賭けません。数えます」


「数える女は、嫌いじゃないよ」


 婆が、壺の蓋を指で叩く。古い陶の縁は、その形に沿って磨り減り、ひとの手の温みを覚えているようだった。


「塩の値は、去年と同じですか?」


「去年の値なら、覚えてるよ。麦で払うなら、同じでいい」


「では、同じ値で。麦は、二便ぶんを今日払います。先代の帳の慣いですので」


「二便ぶん、かい? 数える女は、先まで数えるんだねえ」


「二便目の分まで払っておけば、蔵の麦の残りが今日で決まります。決まった数を、帳に書きますわ」


 蜂蜜の壺は、勘定のあいだも腕から離れない。俵を数え、蔵の麦を奥印で出す。麦の袋が橇へ移るたび、蔵の中の匂いが薄くなる。出したあとの蔵を、家令と数える。割符は三つの村ぶん。払ったあとの麦は、一つの村の分が足りない。


「先代の奥様は、最後の秋に麦を買い入れておられませぬ」


「では、麦の蔵の行を。線は、割符を麦に替える日までは引けません」


「麦の日に、足りぬと分かっていて、書かれるので?」


「分かっているから、書けます。分かった日に書かない切れ目は、麦の日に二度切れます」


 橇の者が麦を積み替えるあいだ、婆は壺の縁を指で撫でて、門の内を見回していた。門の石、雪囲いの板、見張り台の鐘。


 その門へ、妹が出て来る。王都便りの包みを目で探し、宛名を一つずつ読む。父からの手紙は無い。妹の指が包みの上で止まり、それから、力なく落ちる。婆が妹を一目見て、言う。


「ルヴェックの下のお嬢さんかい? 王都じゃ、二つ目の縁談も流れたって専らだったねえ。別の伯爵家の嫡男が、よその令嬢と」


「嘘よ! あの方は、春まで待つとおっしゃったわ!」


「春まで、ねえ。王都の春は短いよ、お嬢さん。カッカッカ」


「だっ、誰なの、あなた!」


 婆が、壺を抱え直す。陶の肌が外套を擦るかすかな音だけが、冷えた門先に残る。


「塩商の後家さね。……あんたの味方だよ。ほら、蜂蜜舐めるかい?」


「……いらないわ!」


 妹は外套の裾で雪を打って、客間へ戻って行く。婆は壺の蓋を開けもせず、その背中を目で追う。妹の縁談が、門で、客の前で、人の口から流れた。帳には載らない切れ目だ。王都で流れた縁談を、王都で聞いた妹を、わたしは知らない。北で聞く妹の背中しか、知らない。


「お嬢さんに、悪いことをしたかねえ」


「王都の話は、王都から来た人の口でしか届きません。届いたなら、切れ目が一つ見えたのです」


「届けた口が、悪いとは言わないんだね」


「言いません。切れ目を隠した口のほうが、あとで高くつきます」


 寝所の話になる。婆は蜂蜜を抱え直して言う。


「客は離れって聞いたけどねえ」


「離れは、薪の蔵です」


「薪の蔵かい! じゃあ台所の隣でいい。火に近いほうがいい」


「台所の隣は、縫い台の部屋です。火は、近いです」


「お嬢さんは客間、あたしは台所の隣。客の格が違うねえ」


 婆は笑って、縫い台の部屋へ入って行く。笑い声は低く、蜂蜜の壺の中で鳴るように籠もる。妹の側に立つ言い方で、妹を刺す人だ。帳のどの欄にも収まらない客が、増えた。


       ◇


 夕、塩の蔵に俵が並ぶ。麦の匂いのあとに、塩の匂いが蔵を満たす。閣下が巡視から戻って、蔵の戸口に立った。俵を数えるように目が動く。


「塩は、母が……湖の塩商と決めていた。俺は、値を知らん」


「値は、帳にあります。先代の奥様の字で」


「……母の帳を、読んだのか?」


「読みました。塩の値も、橇の便の日も」


 閣下が俵に手を置く。塩の粗い粒が、掌の下で鳴る。母の話を、この人は自分から始めた。手はまだ俵の上にある。俵の縄に、指が引っ掛かったまま動かない。


「……母は、塩商と何を話していた?」


「値と、便の日だけです。帳には、それしかありません」


「……それだけか?」


「帳には。話した言葉は、載りません」


 閣下の手が、俵から離れる。掌に残った塩の粒が落ち、冷えた蔵の床を小さく鳴らした。


「……二便目は、いつだ?」


「五十五日目です。帳に、そう書いてあります」


「……そうか」


 夜、帳の塩の道の行に線を引く。戸口には、蜂蜜の壺が人影より先に見えた。婆がそれを抱えて立ち、火の色が陶の肌と白い指を赤く照らす。


「その帳、いくらで売る?」


「売りません」


「じゃあ賭けようか? くっくっく」


「賭けません」


 家令が、婆の後ろで鼻を鳴らす。薪の火がはぜ、その響きだけが奥の間に鋭く残る。


「……ふん。塩商の後家が、奥の間を覗くとは」


「覗くだけさね。数は、お嬢さんの領分だろう?」


 婆が縫い台の部屋へ戻ると、料理番が入れ替わりに戸口へ来る。


「奥様、兵の鍋番が、咳をしていましたよ」


 咳、と帳の端に書く。塩の行の線の下に、小さな字で。


「では、薬草の蔵を。咳は、切れ目の前触れです」

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