11. 客間の火
三十一日目の昼、根雪の屋敷は音を失っている。窓の外は白く、雪は落ちる音さえ持たない。廊下の石は昨日より冷たい。奥の間で帳を開くと、紙の縁が指に刺さるように硬い。家令が戸口から言う。
「本格的な冬支度は、先代の奥様も根雪の日から始めておいででした。北の雪囲いは、根雪の後に組みます。先に組むと、秋の風で藁が飛びますので」
「どこから、組みますか?」
「北側の窓と戸を、板と藁で塞ぎます。屋敷を一つの箱にするのでございます。去年は、組まれませんでした」
帳の雪囲いの行は、初雪の夜から空いている。組む日が来ていなかっただけだ。先代の女主人が没して、冬支度は全部止まった。若い隊長が家令の後ろから、数から言う。
「板、北側の窓の分で足ります。藁、一荷ずつ。中の村から」
「手は?」
「兵が。殿の言い付けです」
隊長の目が、机に開いた帳の空白へ落ちる。
「板は、どこから?」
若い隊長の声が、すぐに返る。
「離れの板です。薪と一緒に、積んであります」
「では、離れの板を。雪囲いの行に、今日の日を」
家令が、帳の横からこちらの手元を見て訊く。
「割符は、藁にも?」
「藁も荷です。中の村へ、触れを」
「……ふん。触れの一枚も、慣れましたな」
「触れは、慣れる物です。切れ目は、慣れません」
筆を取る。空いていた行の脇へ日を書くと、硬い軸が冷えた指になじむ。線を引く場所は、まだ白く残しておく。
その戸口へ、もう一人の影が立つ。妹付きの侍女だ。声を出さず、空の薪籠を両手で差し出し、目だけを客間へ向ける。底には昨夜の木の皮が一枚、乾いて張り付いている。火を絶やすなという主の言い付けまでは読める。その先は書かれていない。指図はその足で石の廊下を渡り、わたしの列に着いた。
「薪は、離れから。客間の分は、帳に行があります」
侍女は薪籠を抱えたまま、薪を運ぶ兵の列の後ろへ並ぶ。王都の侍女の靴が、北の兵の靴の後ろで、同じ石を踏む。家令が列を見て、鼻を鳴らす。
「お客様の侍女が、奥様の列に並んでおりますな。……ふん」
「列は、列です。並ぶ人を選びません」
「客間の火は、客のものでございましょう」
「火は、屋敷のものです。客間にあるだけで」
廊下の向こうから足音が速く近づく。妹が、初めて奥の間の敷居を越える。外套の前を掻き合わせる指は固く、頬には火の色がない。
「お姉様、わたくしの侍女に、指図をしないでちょうだい!」
「指図はしていません。薪の行を教えました」
「客間の火は、わたくしが決めるのよ! 夜通しって、侍女の部屋にもって、言ったのに!」
「火は、帳で決まります。客間の火の行は、わたしが書きました」
「……帳、帳って!」
家令が、机の端で鼻を鳴らす。妹の目が家令へ飛び、それから帳へ落ちる。王都で妹が帳を見たことは、一度も無い。帳は、わたしの部屋の物だった。
「では、その指図も帳に。侍女の部屋に火を、一つ」
「……書くの? わたくしの言ったことを?」
「言った人の名は書きません。火の行だけ書きます」
筆を動かす。侍女の部屋の火、と書く。妹は口を開けたまま、その一行を見ている。指図が、初めて届いた。わたしの手を通って。妹は何も言わず、薪籠を抱えて戻って来る侍女を、戸口に立ったまま見ていた。
◇
三十三日目。雪囲いを組む。兵が板を抱え、中の村の者が藁の荷を担いで坂を上る。藁の荷にも割符を一枚、門で渡す。雪の上に藁屑が散り、白い地面に細い黄色が筋になる。家令が北側の窓の下に立ち、先代の組み方を言う。
「北の窓から。先代の奥様は、板の隙間に藁を詰めておいででした」
「では、隙間に藁を」
中の村の者が、肩へ食い込んだ藁の荷を雪へ下ろしながら言う。
「奥様、藁も薪と同じで、割符でええだか?」
「一荷に一枚。藁も荷です」
「先代の奥様も、藁は割符だっただで」
「では、同じ札で」
窓が一枚ずつ塞がれる。釘の音が乾いた空へ跳ね、そのたびに窓の光が一枚ずつ消える。屋敷の中は暗く、暖かくなる。板が打たれるたび、石の壁の冷えが一枚ずつ剥がれていく。最後に残ったのは、客間の窓だ。妹が窓の内から、板を抱えて来る兵を見ている。その顔が、板の陰に消える。若い隊長が、板を抱えたまま訊く。
「奥様。客間の窓も、塞ぎますか?」
「塞ぎます。客間も、屋敷の内ですので。火は、板の内で暖かくなります」
廊下へ戻ると、客間の前に閣下が立っている。巡視帰りの外套から、外の冷気と湿った布の匂いが流れ、肩にはまだ雪も残る。内から妹が戸を開けて出て来る。
「閣下、客間の窓まで塞ぐの? 真っ暗よ」
「客間は、妻が用意した」
妹の口が開き、声をこぼさず閉じる。
「火は、妻の帳にある。窓は、冬には塞ぐ」
「……妻」
妹は、その一語を繰り返して口を閉じた。閣下はわたしを見ず、廊下の奥へ歩いて行く。妻、と言った声だけが、板に囲われた廊下に残る。その声は、届けの夜より低く、短い。妹の前で、もう一度言った。妹が、閣下の背中を見送ってから、こちらを向く。
「お姉様。……窓を塞いだら、春が来たって分からないわ」
「分かります。板を外す日が、春です」
「……お姉様は、いつも先の日を言うのね」
「帳は、先の日から書くものですので」
妹の指が、外套の前で止まる。
「わたくしは、今日のことしか言えないわ」
「今日のことを言えるなら、帳は書けます」
妹は答えず、暗くなった客間へ戻った。戸の向こうで、火の音だけがする。
夜。奥の間では、火の熱が昨日より近い。窓を覆う板が風の音を遠ざけている。石の壁へ触れると、冷えの底にかすかな温みが残り、指先へゆっくり移ってくる。
雪囲いの中で、屋敷は一つの箱になった。
帳の雪囲いの行に線を引く。初雪の夜から空いていた行が、閉じる。その下に、客間の火。侍女の部屋の火。家令が肩越しに帳を覗く。
「侍女の部屋の火の線は、毎夜、爺が付けましょうか?」
「妹の指図ですので、いずれ妹の字で。……今夜は、わたしが」
「妹御が、筆を持たれますかな?」
「持つ日が来れば、行はここにあります」
家令の目が、その行に留まる。
「客間の火の行は、いつ線をお引きに?」
「雪解けに。板を外す日と、同じです」
家令は答えず、鼻を鳴らしかけて、やめる。線の下の二行は、閉じる線をまだ持たない。
「冬を越す行が、また一つ増えますわ」
わたしは、筆を置く。
「では、塩の蔵を。先代の冬支度は、まだ続きますので」




