第42話 守る側の異変
朝の青藍院は、静かだった。
掃き清められた石畳。
朝露を含んだ空気。
いつもと、何ひとつ変わらない。
灯火は、境内の中央で立ち止まり、目を閉じた。
呼吸。
気配。
境界の揺らぎ。
――異常なし。
「……よし」
小さく呟き、箒を手に取る。
迅がいなくなってから、青藍院は灯火ひとりの持ち場になった。
不安がなかったと言えば、嘘になる。
それでも。
「帰ってくる」
そう言って去った背中を、信じない理由はなかった。
午前中は、何事もなく過ぎた。
参拝客が数人。
近所の子どもが一人、石段で転んで泣いたくらい。
灯火は、その子に絆創膏を貼りながら、ふと思う。
――迅なら、どうしただろう。
たぶん、何も言わず、同じことをした。
昼過ぎ。
境内に、風が通らなくなった。
木々が揺れない。
鳥の声が、途切れる。
灯火は、箒を止めた。
「……?」
肌に、微かな違和感。
寒いわけでも、暑いわけでもない。
ただ、空間が詰まったような感覚。
灯火は、社殿の方を見る。
何も、見えない。
だが。
「……境界じゃない」
それだけは、はっきり分かった。
灯火は、社殿に入る。
古い木の匂い。
落ち着くはずの空気。
だが今日は、胸の奥がざわつく。
「青藍院は、閉じてる」
「ここは、通さない」
誰に言うでもなく、言葉にする。
その瞬間。
鈴が、鳴った。
チリン。
誰も、触れていない。
灯火の指先が、強張る。
「……誰?」
返事はない。
それでも、気配がある。
――境界とは、違う。
――でも、人でもない。
灯火は、一歩、前に出た。
「ここは、青藍院」
「理由のない立ち入りは――」
言葉が、途中で止まる。
視界の端。
柱の影が、一瞬だけ、増えた。
「……っ」
灯火は、即座に印を結ぶ。
結界。
強くない。
だが、青藍院と灯火を繋ぐ“線”。
空気が、わずかに戻る。
鈴の音は、止んだ。
灯火は、荒く息を吐く。
「……今のは」
結界の外。
何も、いない。
だが。
境内の石畳に、濡れた足跡が一つだけ残っていた。
灯火は、それを見下ろす。
「境界じゃない」
「侵入でもない」
指先が、震える。
「……観測?」
誰かに、見られている。
そう感じた。
夕方。
灯火は、迅に連絡を入れようとして、端末を握りしめたまま止まった。
――今、言うべき?
――それとも、もう少し様子を見る?
少し、迷って。
端末を、しまう。
「……私が、守るって」
言ったばかりだ。
夜。
青藍院は、闇に包まれる。
灯火は、社殿の前で座り、空を見上げた。
星は、見える。
月も、いつも通り。
それなのに。
胸の奥に、重たいものが沈んでいる。
「迅」
小さく、名前を呼ぶ。
返事は、ない。
その瞬間。
遠くで、何かが確かに笑った気がした。
灯火は、立ち上がる。
「……来るなら」
「正面から来なさい」
夜は、何も答えない。
だが。
青藍院は、確実に――“何か”に認識されたようだった。




