第31話 選ばれなかったもの
ヘリの音は、思ったよりも早く近づいてきた。
低く、重い音。
逃げ場を与えない音だ。
灯火は、空を見上げていた。
境は、確かに感じる。
使えば、止められる。
でも――使わない。
「……来るわね」
夜刀が、低く呟いた。
迅は、灯火の横に立っていた。
何も持たず、何も構えず。
「灯火」
迅が言う。
「もし、危なくなったら」
灯火は、被せるように言った。
「分かってる」
視線を前に向けたまま。
「迅は、下がって」
迅は、頷いた。
それが、昨日までとの決定的な違いだった。
砂埃が舞う。
装甲服の部隊が、境内に降り立つ。
人間側の“回収班”。
先頭の男が、一歩前に出る。
「境渡り・迅」
「抵抗の意思は?」
迅は、正直に答えた。
「ない」
男は、即座に言った。
「では拘束する」
灯火の心臓が、強く脈打つ。
――ここで動けば。
迅は、連れて行かれない。
でも。
灯火は、動かなかった。
男が、灯火を見た。
「君は?」
灯火は、一歩前に出る。
「……青藍院 灯火」
「境の管理者です」
ざわ、と空気が揺れる。
男は、少しだけ眉をひそめた。
「なら分かるだろう」
「迅は危険だ」
灯火は、静かに答えた。
「危険なのは」
「迅じゃない」
男の目が、細くなる。
「境か?」
灯火は、首を振る。
「恐れている、あなたたち自身」
沈黙。
迅が、灯火を見る。
驚きと、不安が混じった目。
灯火は、続けた。
「迅は、もう戦えない」
「力もない」
「それでも拘束するのは」
「あなたたちが、“力を失った存在”をどう扱うか決められないから」
男は、鼻で笑った。
「感情論だ」
灯火は、はっきり言った。
「違う」
「これは、線引き」
境が、微かに震える。
だが、展開しない。
「迅を連れて行くなら」
灯火は、ゆっくり息を吸う。
「私は、止めない」
迅の胸が、締め付けられる。
「灯火……?」
だが、灯火は迅を見なかった。
男が、意外そうに言った。
「ほう」
「話が早い」
灯火は、拳を握る。
爪が、掌に食い込む。
「ただし」
声が、震えないように。
「迅を“処理対象”にした瞬間」
「境は、あなたたちを拒絶する」
男の表情が、変わる。
「脅しか?」
灯火は、首を振った。
「事実」
迅は、思わず叫んだ。
「灯火!」
灯火は、初めて迅を見る。
その目は――泣いていなかった。
「迅」
「これは、私の選択」
迅は、言葉を失う。
守られなかった。
選ばれなかった。
その事実が、胸に落ちる。
男は、短く指示を出した。
「……拘束は延期だ」
「上と再協議する」
部隊が、動きを止める。
ヘリの音が、遠ざかる。
その場に、静寂が戻った。
迅は、灯火に近づく。
「……どうして」
灯火は、俯いたまま答える。
「迅を守ったら」
「私は、迅の人生を奪う」
迅は、息を呑む。
灯火は、声を絞り出す。
「戦えなくなった迅を」
「“守られる存在”に固定する」
「それだけは……したくなかった」
迅の喉が、震える。
「……それで」
「俺が、連れて行かれても?」
灯火は、はっきり言った。
「それでも」
「迅が、迅でいられるなら」
迅は、何も言えなかった。
胸が、痛い。
でも――不思議と、嫌じゃなかった。
夜刀が、静かに言う。
「……灯火」
「それ、覚悟いるわよ」
灯火は、頷いた。
「分かってる」
迅は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとう」
灯火は、驚いたように顔を上げる。
「え……?」
迅は、少し笑った。
「選ばれなかったけど」
「見捨てられた気は、しない」
灯火の目が、揺れる。
迅は、続けた。
「……隣にいられる」
「それだけで、十分だ」
灯火の視界が、滲んだ。
この日。
灯火は、迅を“守らなかった”。
迅は、初めて“自分で立つ理由”を得た。
そして、境は静かに――
次の代償を準備し始めていた。




