父と息子
王と二妃と芳俊。芳俊と芦楓と比轍。常梅香と段季。
その日、王は見慣れない光景を見た。
二妃と二皇子、七皇子がいるのはいつものことだが、滅多に顔を見せない六番目の息子がそこにいた。
「芳俊か?」
「久方ぶりにお目にかかります」
芳俊の着物は遠目には華美なところがなく、なんの変哲もない連続した模様が刺繍された着物で、帯はなんの飾りもない皮の帯に見える。華美な装いを見慣れた父親にとって、六番目の息子の姿は質素なもので、顔をしかめた。
「もう少しまともな格好はなかったのか」
「ございません。これが私の持つ一番良い着物です」
芳俊は正座して、父に向って頭を下げる。
「父上に献上できるものも持ち合わせがございません」
二妃が小さく嗤い、二皇子蘭俊は「不敬な」と顔をしかめた。
「珊州には命譜がなく、命譜を作ろうと思えば地公にお頼みしなければなりませんが、地公は長くご不在」
コホンと蘭俊が咳払いをする。
「母のいないそなたが知らないのも仕方ないが、地龍の八公主が人界に下りているという。その娘を探し出して頼めばよい」
芳俊は蘭俊を見て表情に期待を見せた。
「二殿下はもしや地龍の八公主をご存じでございますか!」
「知らん。だから探し出せばよいと言ったまでだ」
芳俊は大袈裟に肩を落とし、それから父を見た。
「恐れ入りますが父上、私は州を譲ってくださる方がおられなかったので自分で州を作ろうと思いましたが、申し上げましたとおり地公のご助力なしには作れないものなのだと身に染みました」
「そうだったか」
父は六番目の息子の話に身を乗り出す。
「苹州は無理でございますよ」
二妃が王にしなだれかかって言う。
「苹州は三殿下の物で、今はどなたかが暫定の州公であると央原君のお達しであったのでしょう? ならば苹州は空いておりません」
「そうだな」
芳俊は父を見て、肩を落としたまま嘆息した。
「苹州はなりませんか」
がっかりした六番目の息子を見て、王は「そういえば」と言葉に焦る。
「芳俊、そなたはいくつになったかな」
「二十七です」
「二十七にもなって加冠(成人の儀)もまだでいらしたのね」
二妃が憐れを装う。
「お母上が亡くなられて躾役も天牢では、加冠の手配を誰も思い出さなかったのも仕方のないこと。よろしければ、私がお手配いたしましょうか」
優しさを見せて、二妃が口を開く。
裏になにが隠されているかはわからないが、受けよう、と芳俊は頭を下げた。
「それでは、二妃様にお願いいたします」
「あら殊勝だこと」
「もし可能であれば、比氏の女を宮に呼びたいと思っております。珊州にはまだなにも形がございませんが、せめて土地だけでも体裁を整えたいと思っても、今は司空の比河が天牢におります。比一族の男子はすべからく身分を剥奪され、誰にも治水の助力を請うことができません」
二妃の前で、芳俊は喋った。
(よくこう口からぺらぺらと言葉が出る)
自分でも呆れながら、芳俊は続ける。
「比氏はご存じのとおり、天龍としての身分を失っておりますから、比氏の女からは助言を受ける以外のことはなにもできません。しかし助言がないより、私は助言があるほうがありがたく思っております。もしそれが叶うようであれば苹州をいただきたいとは申しません」
広い袖の下に顔を隠して、芳俊は口には出さずに続ける。
(ただし、すでに央原君からいただいた苹州を二殿下と五殿下にさしあげるとも申しません)
「比氏でよいの? 礼部の厳氏、吏部の籐氏には前途のある息女がおいでですよ。六皇子の王妃にと望めばどちらも娘を紹介してくるでしょう」
芳俊は袖に隠した表情をわずかに嘲笑に変えた。
(礼部の厳氏、吏部の籐氏、どちらも二妃の息がかかった一族だ)
「いえ、私は加冠もままならないまま過ごしてまいりました。閑散とした宮のことを思えば、令嬢たちのためにも加冠からすぐに王妃をいただくわけにはまいりません。しかし、二妃様からそうおっしゃっていただけるのであれば、やはり比氏の女から、宮の調度などについても指南を受けて整えたく存じます」
二妃の視線を感じながら、芳俊はじっと姿勢を崩さないように気を付けて続きを待つ。
ふと、二妃が動いた気配があった。
「比一族の女は、今はただの人間も同然です。それでも、六殿下はそれをお望みになる?」
「今はただの人間も同然、そのような女であれば、宮中でなに問題を起こすこともありますまい。指南役に徹してもらえると了解しております」
芳俊は食い下がる。
父の嘆息が聞こえた。
「おまえは昔から、なにを欲しがったこともなかったな。加冠の祝いに宮に入れたい女のひとりぐらいはどうにかしてやろう」
王が二妃に「采配は任せる」と言うのが聞こえた。
(大丈夫だ、比轍は二妃には負けない)
芳俊は頭を下げたままで沙汰を待つ。
「では芳俊殿のために暁寧殿の宮をひとつ比氏の女のために整えさせましょう。加冠のこともどうにか手配してさしあげますから、ご安心なさって」
芳俊の耳に二妃の甘ったるい声が落ちて、蘭俊の不機嫌な舌打ちが聞こえた。
*** *** *** *** ***
芦楓は芳俊の頼みで苹州から戸部の知己に内密の依頼を出し、天牢の比河と通じて、比氏の養女の戸籍を戸部の記録に用意し、比轍を比梅香という比氏の女として偽装した。
芦一族は元々戸部などを掌握する司徒という役職を任ぜられる者を多く輩出する一族だった。そのため芦楓は戸部とのつながりが強く、戸部には芦氏が身分を剥奪され天牢に投獄されたことに批判的な者たちが多くいる。
芦楓は暁寧殿から通路を抜けて苹州に戻った芳俊を見た。
部屋には、芦楓のほかに比轍が簡素な着物をまとった常梅香の姿で控えている。
「比梅香の籍は整っております。これが古い身分証を使って書き替えた比梅香の身分証です。人間から養女として受け入れ眷属にした者という経歴にしてありますので、これぐらい古い札がよいでしょう」
芳俊に札を渡して、芦楓はちらりと比轍を振り返った。
「おまえが大好きな歴史小説みたいな流れでよかったな」
「私は小説を読むのが好きなんだ。登場人物になろうとは思わない」
「地龍の眷属として神籍までもらっておいて、それか」
芦楓が比轍に呆れた顔を見せ、芳俊が笑った。
「それで」
芳俊に体を向け直して芦楓は問う。
「殿下の首尾はいかがでしたか」
「二妃が気味悪いぐらいに調子よく比梅香を受け入れた。苹州を要求するのは諦めると言ったのは効果があったのだろうな」
芦楓は大きく頷いた。
「苹州は央原君から知らされた州公の名前をまだ伏せておりますから、二妃も二殿下も誰に兵を向けるべきか把握していないはずです」
比轍はじっと目を伏せてふたりの会話を聞いている。
普段ならばうるさいぐらいに喋る比轍が静かなことに気付き、芦楓と芳俊は比轍を見つめた。
「やけに静かだな」
「比轍、なにか神妙にならざるを得ないことでもあったか?」
「なんでもない、問題ない」
比轍はそう答えたが、眉間に縦皺を刻んで首を振る常梅香の様子を見る限り、芦楓も芳俊も、比轍が問題を感じていないとは思えず、顔を見合わせる。
「本当になんでもない」
芦楓と芳俊の視線に顔を上げて、比轍は気まずそうに手で顔を覆ってから少しの間を置いて口を開いた。
「人間の女の体というのは少々不便なんだ」
比轍の弁解を聞いて芦楓が興味を示す。
「どんな風に不便なんだ? 後学のために聞かせてもらえないだろうか? たとえば龍族の身分を剥奪されたまま人間の女と恋仲になったときに、おまえの経験談を参考にできるかもしれない」
比轍は芦楓を思い切り睨みつけた。
「眠いんだよ、ものすごく。この十五年ぐらいずっと、月に一日か二日はこういう日がある。あとは言わん、言ってやらん」
「それは」
なんとなく目を反らしたのは芳俊だった。
「芳児にも経験がある。龍族の女がどうかは知らないが、人間の女の器だと、そういう日はある」
芦楓は芳俊を見る。
「そういえば殿下も人間の女児の器を気に入って使っておいででしたね」
「私の気に入りというよりは、阿達が気に入ってくれているんだ。阿達の気に入りということは臥渓公主が気に入ってくれているということだから、なるべく阿達のまえでは芳児の姿で努力する」
言い切った芳俊を見てから比轍を見て、芦楓は比轍を蹴った。
「どう考えてもおまえが育て方を間違ったんだ、どうにかしろ、こら、比轍」
「私のせいか」
「努力の方向だけでも変えさせろ。このままだと殿下が地龍の公主に奪われる」
「相手が地龍の公主ならこちらは願ったり叶ったりだろうが」
「おまえは、殿下を、人間の小僧にくれてやる気か」
「やめろ芦楓、蹴るな、こっちはいまなるべく動きたくないんだから」
「おまえの都合なんか知るか、どうにかしろ、比轍」
「芦楓、やめてやれ」
芳俊の制止に芦楓がちらりと比轍を見て「殿下の制止があったからだ」と言いおいて足を引っ込める。
*** *** *** *** ***
段季は常梅香の庵で寝室に陣取り、不機嫌に、常梅香が横になった寝台に座り込んでいた。
「梅香」
名を呼ばれて常梅香が段季を見る。
「私には今、阿達が六皇子を嫌う気分がとてもよく理解できる」
「なんでまた?」
「好みの女が一度も会ったことのない皇子に連れて行かれるのは不本意だ」
段季を眺める常梅香が困ったように呆れた。
「私は指南役として暁寧殿に行くだけだ」
「あなたがここからいなくなるのが嫌だ」
段季の言い分に、常梅香が小さく笑う。
「段公子、あなたは段達殿のお目付け役でしょうが」
「阿達には阿達の目付け役がいる。私は熊氏に属する斥候役」
膝に頬杖をついて段季は常梅香を見つめる。
常梅香はじっと段季を見つめ返し、それから小さく首を振った。
「ならば、いっそ暁寧殿にいらっしゃるか? 地龍がなによりも嫌う天龍の王宮だ」
「そこに面白い情報があるなら、いくのも吝かではない」
段季の答えを聞いて常梅香は「そう?」と薄く笑う。
「天龍たちの権謀術数が渦巻く場所で、陰謀の巣窟であっても構わない?」
「斥候は敵地に入るのが務めだ」
「では私を見張ることにすればいい。こんな姿でも、私は王都で囚われている祖父や父に会えると思うと嬉しくて浮かれている」
「なら比轍殿」
「なんです、熊震殿」
答えながら常梅香はにやけそうになる口元を押さえ、段季の不安そうな視線を見つけた。
「失礼」
「いや」
「つい嬉しくて」
常梅香が言う。
「嬉しい?」
段季に問われて常梅香は頷いた。
「十五年前、あなたは私が天龍の者とは知らずに、私の前で地龍がいかに天龍を忌避し嫌っているかを滔々と語っていらした。その段公子から梅香でなく比轍の名で呼ばれると、地龍と天龍の確執なしに話しができているのだと、感慨深い」
嘘偽りなしに嬉しそうな常梅香を眺めて、段季は「もうそろそろ忘れてくれてもいいのに」と恨み言を口にした。




