吐いたブツの中身
──誰かが自分に付きまとっている。
そのことが発覚したのは半年前の五月の事である。
その頃はまだ部活にも顔を出していて、千咲は数少ない後輩に稽古をつけたり外部の顧問に軽く捻られたりしながらそれなりに楽しくやっていた。
合気道を始めてからそれなりに長いが、『才能はそれなりにない』とは顧問の弁だ。
漫画やアニメでよく語られるように、『感覚が鋭敏になる』とか『誰かの殺気を感じとれるようになる』とか、そういうスキルは身につかなかった。
よって知らぬが仏を全身全霊で体現していたわけだったが、ご丁寧にもそれをぶち壊したのは後輩の一年男子、桜庭礼央馬だ。
「千咲センパイ、やべーっす!!」
曰くはっちゃけた中学の出身らしく、彼の語彙ははなはだ乏しい。が、この時の「やばい」は「あなたに可及的速やかに確認してほしい事態が起こっています。すぐにお越しください」の意が含まれた物だったので、千咲は稽古を中断して彼の後をついていった。
向かった先は武道場の女子更衣室だ。
入口に数人の女子生徒が集まっていて、その中によく見知った顔があった。
他の子たちよりも頭一つ背が高く、まとっている空気も違う。気品のある東洋的な顔立ちで、少年みたいなショートカットがよく似合う。色が白く手足も長く、無造作に佇んでいるだけなのにりりしくも華々しい。彼女は千咲の幼馴染だ。
「雪華ちゃん」
「あ、千咲。やっと来た」
千咲を声をかけると、愛善雪華はそのりりしい面差しをほんのわずかに緩ませ、またすぐ険しい顔つきになった。
「とにかく中を見て。話はそれから」
それ以上は何も言わず、自分で確かめるよう目で合図する。
千咲は小声で礼を言い、中へと入る。どさくさで礼央馬も中に入ろうとし、丁重に小手を極めてステイさせる。「いてえ!やべえ!」とやかましいが、「やべえのはお前だ」と言わんばかりの女子生徒の視線に射られておとなしくなった。
◆
更衣室は剣道部・柔道部と共用で、もともとは物置だったせいか埃っぽい。そこに汗とコスメの匂いが入り混じっているため、独特の匂いがこもっている。一応は窓はあるにはあるが、滅多なことで開けられることはない。
今は窓が全開だった。普段は締め切っているカーテンが風に吹かれてゆらゆらと揺れている。
そして壁面に据え付けられた鍵付きのロッカーのうち、千咲の名札が張られた所だけ半開きになっていた。
「……なるほど」
確かに鍵をかけたはずだが、年季の入ったロッカーだ。きちんと施錠したつもりでも、何かのはずみで開いてしまうこともあるかもしれない。
だが中身の方はそうもいかない。ひとりでに鞄のファスナーが開き、中から荷物がぶちまけられるなんてことはまずありえない。
そのありえない事が起きていた。
教科書、ノートに参考書。お弁当の空箱に緊急用のお菓子などなど……鞄の中身はすべて取り出され、乱雑にぶちまけられていた。
千咲はそれらをもう一度カバンに詰めなおしながら、一つ一つ検める。
結果、歯ブラシとハンカチ、そして箸が無くなっていた。
◆
いきなり箸の歯ブラシだのと、変態的な意味でレベルが高い。
千咲は生徒指導室に呼び出され、担任と生活指導の教師に事情聴取を受けることとなった。雪華と礼央馬もついてきて、発覚までの経緯を説明してくれた。
第一発見者は雪華と親しい剣道部の女子で、所用で遅れて部活に参加したらしい。
早速着替えようとしたところあのような状態だったそうで、とりあえず雪華に相談を持ち込み、そして雪華はたまたま近くにいた礼央馬に言伝を頼んだそうだ。
伝令としては不適格な人選と言わざるを得ないが、一応勤めは果たしたので不問にする。
犯人に心当たりはないか、周囲に怪しい人物がいなかったか、かなりしつこく聞かれたが心当たりはない。
ひょっとしたらほかの生徒のロッカーと間違えたのかも、と今でものんきに思っているぐらいだ。例えば、千咲の隣で行儀よくも静かにキレている雪華の持ち物ならば、好事家の変態ならずとも欲しがるものはいるだろう。
それを聞いた教師二人も「ありえるな」という顔をしたのは心外だったが、用務員の巡回を増やすことと更衣室の鍵の総入れ替えを約束したので、その日は解散と言う事になった。
気味が悪いし不快だが、ひとまずは安心だろう──と、千咲はのほほんと考えていたのだが。
その後も三日に一度ぐらいの頻度で、妙なことは起こり続けた。
複数の捨てアドレスから無言のメールが大量に送り付けられたり、下駄箱に隠し撮りされた自分の写真が入っていたり。
両親には何とか黙っていたかったのだが、不審者の手は日を置かず自宅にまで及ぶ。
◆
最初の事件からひと月ほど経った頃。
パートを終えた母が自宅に戻ると、郵便受けから異臭が漂うのに気が付いた。不審に思いながらも覗き込むと、B4サイズの封筒が一つ。意を決して中身を空けると、母は『ひっ』と短い悲鳴とともに、すぐに封筒を手放した。
地面に散らばった封筒の中身は、腐った男の体液に塗れた、千咲の箸と歯ブラシだった。
◆
案の定、大騒ぎになった。
両親、とくに母は夜叉のごとくに憤慨し、学校と警察双方に即刻解決するよう一方的にまくしたて、かなわぬ場合は裁判を起こすと息巻いた。
事件が公になった直後は、クラスメイトの大半が同情的な態度だった。
「大変だったね」と声をかけてくれたり、校内を移動する際に着いてきてくれたり。
危ない目にあったらすぐに連絡できるようにと、ラインのアドレスを聞かれたりもした。
千咲にはその気遣いがありがたい反面、申し訳なさを覚えたものだ。
その様子が一変したのは夏休み直前、期末テスト目前の事である。
朝、教室に入るとクラスの空気は一変していた。
痛いほど静かな教室の中で、誰もが千咲を見ていた。やはりこれまた、痛いほど鋭い視線で。
ただ一人雪華だけが、複雑そうな表情で目を伏せている。とりあえずは挨拶はしておく。
「おはよう」
「おぅ。さようなら」
ずれた挨拶を返してきたのは、サッカー部の何某君だ。チャラい外見で、ストーカー騒ぎが発覚した時にも真っ先にラインIDを聞きに来た。その時とは全く異なる険しい目つきで千咲を見ている。
無視して教室に入ろうとすると何某君が舌打ちして立ち上がった。何人かが押しとどめようとするが形だけだ。
ずかずかと足音高く千咲に詰め寄る。強引なドリブルだ。ここからの必殺シュートは、森崎君ではとめられまい。
何某君は千咲と目と鼻の先の距離で足を止めた。180cm近い長身が千咲を見下ろす。およそ三十センチも身長差があるので、ずっと見上げてると首が痛くなりそうだ。
「叶谷おまえさ、空気読めよ。いつまで悲劇のヒロイン気取りだよ?」
「頼んだ覚えもないんだけど」
その一言で教室の空気がさらに固まった。
千咲はいつも通りに話してるのだが、どうもお高く聞こえたらしい。見守る雪華が頭を抱えていた。
何某君はしばし目を丸くしていたが、立ち直るとさらに語気を強くする。
「お前がいると授業に集中できねえんだよ! 図書室なり保健室なり他所でやりゃいいだろうが!」
彼の言葉を、クラスメイトが大同小異に肯定する。
ああ、なるほどと今更思った。ようするにタイムアップだ。みんながこらえてくれる時間の。
彼らの態度を身勝手とは言うまい。『学校に来るな』と言わないだけ、まだ有情だ。
だが理解は出来ても承服は出来ない。
千咲は依然として被害者だし、彼らと同じように人生の岐路を目前にした学生である。
よって授業を受ける正当な権利があり、自分はただ粛々と行使させてもらう──というような論旨をを務めて冷静に説いたのだが、冷静すぎたのがまずかったのだろう。
「いいから行けつってんだろ!」
何某君はついにブチ切れ、千咲に向けて左手でつかみかかった。
肩口に指がかかった瞬間、千咲は体をひらいて腕を躱した。それだけで済ませるはずだったが、余りにも鮮やかすぎた。つんのめった何某君は綺麗に弧を描いて背中から地面に激突、そのまま綺麗に伸びてしまい、自身が保健室直送となった。
後日その噂を聞いた礼央馬が「当て身投げっすか! センパイぱねぇっす!」と余計なことを言ったため、千咲の影で「ギース・ハワード(♀)」と呼ばれるようになったのだが、それはまあ余談である。
◆
この一件でいよいよ千咲は疎まれて、教室から排斥しようという動きが陰に日向に行われるようになった。
罵倒や無視は当然のこと、持ち物が無くなるようになったのはそれからだ。
財布は今回で4回目、どうやら相当おかんむりのご様子。
お金が抜かれたことはない。あくまで『落とし物』として扱い、黙って返すのがやり口だ。下手に騒がれたくないのだろうが、妙なところで及び腰である。
ちなみにストーカー氏の自由気ままな活動も、今なお活発に継続中だ。
どちらが何を盗むのかは、なんとなくわかる。
筆記具や生徒手帳などがクラスメイトで、靴下や歯ブラシなんかがストーカーだ。
前者は学業に差し障り、後者はそれほどでもないが何に使っているのかわかりゃしない。「ググっちゃだめよ」と、雪華にはくぎを刺された。
ここまでの目にあっても、千咲は何もしていない。積極的に犯人を捜すことも、クラスメイトに抗議することも。
何かするとすればこれからで、行うべきは将来に備えることだ。だから勉強は続けるし、予備校にだって通う。他の事はすべて些事だ。
だが両親、とくに母は疲れ果て、娘の行為に疲れ切っている。故に折れろと促してくる。涙ながらに、慈悲を乞うように。
今日はとうとう聞き入れた形になったが、やはり何かに負けたようで悔しい。
明日からはまた通常営業で頑張ろうと、千咲は誓いを新たにするのであった。




