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秋空の餓狼伝説

 さっきから目の前がチカチカする思ったら急に真っ暗になった。それから軽い浮遊感がきて、踏み出した右足のローファーが空をかいた。


(あ、やばい)


 叶谷千咲は他人事のようにそう思った。でもどうすることもできない。定められた物理法則にのっとり、古ぼけたアスファルトに顔面からダイブするしかない。顔や頭のどこかを打ったり擦りむくのは仕方ない。しかし脳挫傷とか記憶喪失はさすがに困る。死ぬほど苦労して詰め込んだ英語の構文や数式を使う機会がなくなってしまう。


 ああ、神様。うまい事(よきに)忖度して(はからって)──。


 普段はちっとも信じちゃいない頂上的存在に曖昧なオーダーを投げつつ千咲は倒れた。千咲の心はすっかりと運命に従順だったが、しかし肉体の方はシド・ヴィシャス並みに反骨精神旺盛(パンク)だった。


 バランスを崩すと同時に教科書参考書及び空になった弁当箱入りの通学かばんを手放し、電撃的なスピードで両腕の肘を曲げて顔の前にかざす。小さく前へ倣えならぬ小さくホールドアップみたいな体制になりつつ、前腕と手のひら全体を使ってぴしゃりと地面をたたいて衝撃を分散。ぺちゃん、と小さく音を立てて千咲は大地に軟着陸した。


 稽古のお手本にしていいくらいの見事な前受け身である。やっててよかった合気道。今年の夏で引退したけど。


 手やひじが衝撃でピリピリとするが、ケガらしいケガもない。だが未だに頭はフラフラするし、そして何より、


「お腹すいた……」


 ほとばしる欲望を口にすると、くきゅうっ、と胃袋が慟哭をあげた。小柄なくせに燃費が悪いのは昔からだ。

 千咲は頑張って面を上げ、放り出したかばんを引き寄せ中身をがさごそかき回す。こんな時のために普段からこっそりおやつを持参しているはずだったが、今朝がたうきうきと詰め込んだセブンの練り羊羹はどこにもなかった。


 そしてさらに最悪なことに、確かに鞄に収めたはずの財布までなかった。

 気づいた千咲は蒼白になって立ち上がろうとして再びの眼前暗黒感に襲われ、とどめに胃袋がパンクなシャウトを上げたところで今度こそ精魂尽き果てた。


 イスラム教徒の亜種みたいな格好で大地にひれ伏し、それっきり動けない。


 おまけに誰も助けてくれない。


 曲がりなりにも東京都だというのに、駅前から少し外れた夕暮れの住宅街の人影はまばらだ。その数少ない人影ですら、なるべく千咲を見なかった事にして素通りしていく。


 地味な外見とはいえJKである。それがこうして行き倒れているのだから、もう少し慈悲深く接してくれてもいいのではなかろうか。


 いじけまくった思考とともに、うっすらと涙がにじむ。ひもじくて親指をはむ。おはじきがあったなら、迷わず食っていただろう。


 本当は、こんなことをしている場合じゃない。予備校に行って、もうすぐそこに差し迫った受験に備えなければならない。

 授業料だって安くはないのだ。お腹がすいたから休むなんて許されない。


 それにもし、本当にそんな理由で休んだとしても──両親はきっと信じてくれない。担任の教師もだ。


 三人とも心から千咲を心配し、その身を案じて娘の我がままを許すだろう。まだ子供なんだから、もっと甘えてくれてもいいと。何なら学校も休んでいいと。


(それだけは、ヤだな……)


 負けたくない、と思った。つらい事や嫌なことから。確かに千咲は未成年だが、それを盾にしていいほど子供でもない。

 そうはいってもつらいものはつらいし、負けるときは負けるだろう。

 でもここであっさり折れては、今までの自分を裏切る行為だ。不条理や理不尽に負けるのだとしても最後まで抗いたい。


 その時晩秋の風が吹いて、千咲を励ますようにやさしく嬲った。


 しかしそれはただただ肌寒いだけで、制服のスカートがまくれ上がり、小ぶりな臀部とそれを包む下着をさらけ出させるだけにとどまった。自然とはたいていの場合、人類に厳しい。噛み締めていると、千咲の視界が陰った。


「あ、ぱんつ」


 焦げたキャラメルみたいな、少しかすれた甘い声が頭上から降り注いだ。やけにうきうきしていた。

 気うとく頭を転がすと、編み上げブーツと網タイツに包まれた細い足がフリフリのフリルから突き出していた。もう少し視線を上げると、全身ビビッドピンクのドレスで決めたゴスロリ少女がそこにいた。年のころは10歳ぐらいか。ちょっと息をのむほどきれいな顔で、髪は美しいアッシュゴールド。少しだけ毛先がカールしていて、夕暮れの陽の光を浴びて、薄紅色を帯びている。逆光でよく判断がつかないが、瞳の色も色素が薄い。外国人だろうか。少しだけ、イントネーションに訛りがある。

 両手で紙袋を持っていて、中には紙束がぎっしりと詰まっている。少女は重たそうにそれを抱えなおすと、じっと千咲の臀部を眺めて愛くるしい笑顔を咲かせた。


「安物っぽいけど可愛いね。なかなか似合ってると思うな!」

「……見ないでよ。お金とるよ」


 ジト目で毒づいてやると、少女は華やいだ笑顔のまま、その場にさっとしゃがみこんだ。


「なんでパンツ見せてるの?」 

「なんでパンツに話しかけるの?」


 いい加減鳥肌がたってきた尻をゆすって起き上がると、少女は額にアスファルトの模様をつけたままの千咲をまじまじと見つめた。

 こうして間近で見つめられると、その無邪気さとまばゆさに目が潰れそうな気がしてくる。気まずさをごまかすように、強い語気で千咲は言った。


「見せてたんじゃないの。倒れてただけ」

「ほほう」


 少女は興味深げに相槌を打つと、紙袋の中身を一枚取り出し、その裏面にへたくそな文字でメモを取る。


「にほんじん たおれると ぱんつ だす」


 それはこの国の常識ではない。誤った文化知識をただすために没収し、くしゃくしゃにして丸める。

 千咲が日本人すべてがこのようなプレイを行うわけではなく、己がいかにして天下の往来にうら若い下半身をさらけ出すに至ったかを異国の少女にもわかりやすく述べると、少女は「うぃ!」と元気良く返事をして新たな一枚を取り出し、こう書きつけた。


「にほん ぱんつ みせたら おかね もらえる」


 正しい。圧倒的に正しいが少女にはまだ早い。再び紙切れを没収し、千咲は日本の一般的な貞操観念についてどう説明したものかと知恵を絞っていると、またもや腹の虫が鳴り響いて千咲の意気地を打ち砕こうとする。

 もはや一刻の猶予もない。何か胃に物をおさめたくてたまらない。


 何かないか──具体的にはツツジとかないか。あれは甘くていいものだが、いかんせん春の花だ。仕方がないので電柱の下、名も知れぬ謎の雑草を口の中に含もうとすると、少女のひんやりとした手が千咲の手首を絡めとっていた。


 それはどうよ、とあどけない少女の瞳が語っている。


「邪魔しないで! 腹ペコなの!」


 身も世もない、端的なJKの叫びにもゴスロリ少女は動じない。だがきちんと意味は伝わっていたのだろう。

 斜め掛けにしたかわいらしいポシェットをぱかっと開けて中身を改める。男前な手つきで逆さに振ると、包装紙でくるまれた小さな粒がひとつ、コロンとアスファルトに転がった。


 少女はそれを素早く摘み取る。滑らかな手つきで開封し、千咲の鼻先をむぎゅっとつまんで無理やりこじ開け、さっと中に放り込む。


 早撃ちめいたその手腕に千咲は目を白黒させた。が、口腔に放り込まれたものがキャンディだと知るとたちまちにその甘露の虜となった。どうやら手作りの品のようだ。蜂蜜とマーマレードのキャンディ。濃厚な甘みの中にマーマレードのさわやかな苦みがさっと広がり、口の中を飽きさせない。喜びの涙が餓えたJKの頬を霏々とつたう。口の中で完全に溶け消えてなお、頬の内側を卑しくねぶりまわし終えると、人心を取り戻した千咲は少女の前に深々とひれ伏した。


「ありがとう、本当にありがとう……!! このお礼はどうしたらいいのか……!!」

「De Rien!!」


 渾身の日本式誠意(どげざ)を開陳する千咲に対し、ゴスロリ少女はスカートの両端をちょこんとつまみ、優雅で淑女な返礼をした。

 のみならず、見れば見るほど貴族めいたその少女は、卑しい小市民である千咲の手を取りひっぱりあげる。華奢に見えるが、思ったよりも力が強い。


 千咲はされるがままに立ち上がるが、少女はなおも手を離さない。紙袋を胸に抱きかかえながらも、千咲をどこかに誘おうとする。


「ボク、今お金ない。ボクのうちに来て!」



 何がなんだかよくわからないが、そういう事になった。




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