後編
あの湖は「聖地」だったらしい。
神の神託により、まもなく神殿から迎えが来た。
彼と私は神子として迎えられたが、まもなくして一ノ瀬君と共に私は神殿を出奔することとなる。
望めば知ることの出来る一ノ瀬君の力は、神殿の意図と、私たちの扱いをどうするつもりなのかまで見抜いていた。
この世界に存在するだけで良い私たちは、客寄せパンダであり、体の良い偶像、そして、権力の道具でしかなかった。
いずれ私と一ノ瀬君はどこかの権力者の伴侶として使われる事がほぼ間違いないだろうといわれた。そして、そこで人形のように大切にされることはあっても、人権なんてない様な扱いをされるかもしれない、と。生きていればそれだけで良いのだから、確実に保証されるのは衣食住だけ。
無知なフリして最初は迎えに来た彼らの言いなりになる事を決め、私たちは兄妹を名乗り常に一緒にいられるようにした。
私はこんな所に連れてこられたという、言葉にならないわだかまりを抱えていたけど、頼れるのは一ノ瀬君だけで、信頼出来るのも一ノ瀬君だけだった。しかも隣同士のベッドで眠り、朝一番最初に顔を合わすのも、一日の一番終わりに顔を合わすのも一ノ瀬君という生活。その上彼はいつだって私を気遣ってくれて、泣き言もグチも全部受け止めてくれて、私には彼しかいなくて、そんな状態で怒りなんて持続するはずがない。
「知る」事の出来ない私は、脅えることが多く、その度に一ノ瀬君が「大丈夫」「俺がいるから」と、手を繋いでくれた。
こんな所に連れてこられた怒りより、好きな気持ちが大きくなっていく方が、ずっとずっと早かった。
一ノ瀬君の力は隠し通した。一ノ瀬君の力は、権力者には魅力的すぎる。そして、私の力もまた、些細な物ではあったけれど、便利な物だった。
私に与えられた力は、気配を消す力。
「私にも力があれば良いのに」とつぶやいたとき、一ノ瀬君が教えてくれた。
すぐそばにいても、気付かれたくないと強く祈るほどに、人は私に気付きにくくなる。見えていても「いる」と意識出来ないという物だそうだ。
その力は一ノ瀬君には効かなくて、そして手を繋いでいると、私の力は一ノ瀬君も一緒に作用する。二人のためだけの力だった。
「神殿を抜け出すのにもってこいの力だね」と私が言うと、「ほんとだ」と一ノ瀬君が笑って「その時は頼りにしてるから」と、わざとらしく頼み込んでくる。「任せて!」と胸をはったのは、足手まといになるばかりの自分ではないことに、少しだけ安堵したのをかくすためだった。
長い時間集中して祈り続けるのは難しいけれど、長ければ1時間ぐらいは完璧に気配を消し続けられるだろうか。でも1時間なんて、よっぽど切羽詰まらないと難しいだろう。
私たちはあのままではいくら知識があっても生活する力はなかった。だから神殿に身を寄せて、神子として民の暮らしを視察しながら、私たちの暮らしてゆける術を模索していた。
そして、私たちが逃げ出せる日がやってきた。見つかりにくい日と道のりを一ノ瀬君が「知り」、私の気配を消す力をフルに発揮して二人で隠し通路を使い神殿を抜け出した。
それから神殿で得た金目の物を売り払い、旅に必要な物を揃える。
未知への恐怖と、興奮と、ほんの少しの開放感を抱いて、私たちは広い世界へと踏み出した。
私たちは、日本に、地球に、もう戻れない。この世界で生きていくしかない。それはもう、世界に……神様みたいな何かに、決められてしまったことだ。
そんなあきらめがついたのはいつ頃だっただろう。
旅に慣れてきた頃、一ノ瀬君が「日本に帰りたい?」と尋ねてきたときには、一ノ瀬君への怒りなんか全くなかったし、帰りたいとは思っても、帰れないことを受け入れていた。
怒るよりも毎日生きるのに必死だったこともある。現代の日本人には過酷すぎる毎日だったから。あたりまえに食事に付けて、安心して眠れるということ自体が恵まれているという世界での生活だ。体力的にも怒る前に眠りたかったし。
今では歩いて足の裏のマメが潰れ続けるという生活も、もうだいぶ慣れて、マメは出来なくなって、足の裏はものすごく硬くなった。
日本に帰りたいかという質問に、私はそれを聞いてどうするんだろうと思いながらも「帰れるならね」と答えた。
「ごめん」
と、この世界へ来て、もう何度目か分からない謝罪をされる。
私は一ノ瀬君の手を取る。
怒ってても怒ってなくても、何かあったときは必ず手を繋いできた。そうすると「見捨てない、離さない、大丈夫だよ」って言われてるみたいで安心した。だから私も怒ってても怒ってなくても感情が揺らいだときは、同じように伝われば良いと思って手を繋いできた。
ふと思うと、あの一ノ瀬君と、手を繋ぐのがあたりまえになってるなんてすごいなぁって、感動して思わず笑ってしまう。だって、あの憧れの一ノ瀬君とだよ!
帰りたいと言った口で私が笑うから、うなだれていた一ノ瀬君は私の顔を見てあれって顔をした。
一ノ瀬君はこの世界の全てを知ることが出来るけど、私のことだけは知ることが出来ないらしい。
「謝らないで。一ノ瀬君が悪いわけじゃないのは、もう、分かってるから」
「でも」
「ずっと、足手まといの私を見捨てずに守ってくれてる一ノ瀬君の方が、ずっと大変でしょ」
「足手まといなんかじゃない!! 俺は、河野さんがいるからやって行けてるだけで、……俺は、ずっと、河野さんに救われてばっかりだ」
一ノ瀬君はうつむいて、最後の方はぼそぼそと消えるような声で言葉を途切れさせた。
「救われてって……私の方が頼りっぱなしだったよね? 一ノ瀬君が何で私に怒らず我慢出来てるのかの方が、不思議。最初は私も拗ねてたし、大変だったでしょ? ……一ノ瀬君は、すごいよ。できすぎ君だよ」
一ノ瀬君は違うと首を横に振る。
「……前から、その、学校にいたときから、俺、河野さんの雰囲気、好きだったんだ」
へ? 何を唐突に……!!
脈絡のない思いがけない告白に、挙動不審になる。
「え、あ、で、でも、私、そんなに目立つ方じゃなかったよね?」
「うん、それは、そうなんだけど、その、だから……何となく?」
「あ、そ、そう、まあ、雰囲気、だし、ね?」
口をとがらせて拗ねてみせれば、慌てたように、そうだけどそうじゃなくてと言い訳を始める。私がそれを見て笑えば、一ノ瀬君はほっとしたように続けた。
「穏やかそうで、普通に優しそうで、でも引っ込み思案とかいう感じでもなくて、一緒にいて居心地良さそうな、ほんとに普通って感じが、何となく、良いなって思ってて。こっちに来たとき、あれからずっと、変わらない河野さんに、すげぇ救われたんだ」
首をかしげれば、最初にこの世界に飛ばされたとき、混乱して淡々と一ノ瀬君から言われるがままに行動したときのことをあげられた。
「知ることの出来る俺でさえ混乱してたのに、河野さんの方がもっとびびってたはずなのに、河野さん、何とか冷静でいようとしてくれてたよね。俺もパニクってて、とにかく移動しなきゃ、河野さん連れてかなきゃってばっかりで、ろくに説明もせずに勝手に決めたのに、俺のこと信用して、付いてきてくれただろ。河野さんが、そうしていてくれたから、俺もちゃんと考えて動くことが出来た。河野さんいなかったら、あの時点で俺たぶん半狂乱になってた。俺のせいでこっち来たって分かったときも、本当はもっと、怒りたかったんだろ? でも、俺のことを考えて我慢してくれてる様子とか、何となく、分かった。手、振り払わずにいてくれて、すげぇ、救われた。河野さんがいるから、頑張ろうって、思えた。この世界来て、分け分かんねぇことばっかりで、ふざけんなって怒鳴りたくなるようなこといっぱいあったけど、河野さんが頑張って我慢してくれてたりするの見ると、俺も耐えられた。河野さんの変わんない普通さが、俺の日本での「普通」の感覚を守ってくれてた」
きっと私の言動は、間違いなく普通だったと思う。混乱したとき、右へならえで、私の意志とかどうしたいとか主張する気もなければ、考えることすら出来ずに流されて、出来る人に任せっぱなしの判断ばっかりだ。事なかれ主義で、善くも悪くも個より集団を重んじて、日本人らしいといわれる物だったんじゃないかと思う。私は常に、一ノ瀬君との関係が平穏であれるように努めていたし、それが楽だった。
結果、一ノ瀬君は、私に出来ないことを全部引き受けてやってくれていた。
ずっと、その事を頼りっぱなしで申し訳ないと思っていたから、一ノ瀬君の言葉はとても意外だった。
私の言動はきっと日本でいたなら「普通」に「優しい」物で、「気遣い」とか「思いやり」と受け入れられただろう。でも、この特殊な状況下では、きっとそれは邪魔で、重荷になる物だったんじゃないかと思う。
でも一ノ瀬君は、役に立たない私なんかの「日本人的な」「普通」の「気遣い」を欲していた。
一ノ瀬君にとって「日本人」の「普通」であれることが、救いだったなんて、思いもよらない言葉だった。
ぽつぽつと、とりとめなく話し続ける彼の言葉に、うん、そう、と相槌を打ちながら彼の言葉を促す。
こんな風に、気持ちを話してもらえたのは、初めてで、うれしかった。
そして一ノ瀬君はいちど言葉を切ると、覚悟を決めたように、再び話し始めた。
「俺、さ……こっち来るとき、ほんとは、手を離したら、俺だけ行けるって分かってたんだ。あの瞬間からこの力は発揮されてて。手を離せば河野さん巻き込まずにすむって、分かってた。……でも、絶対離しちゃいけないって、思ったんだ。離したら、俺一生苦しい思いするって、分かって、怖くて、離せなかった……」
それは、苦しそうな告白だった。絞り出すような声は、時々かすれて震えていた。
彼はきっと、このことを知られたくなくて、そして、ずっと言いたかったんだろう。抱え込んでいるのが、苦しくてたまらなかったんだろう。
「……だから、ごめんな……」
一ノ瀬君がことあるごとに紡いでいた「ごめん」の意味は、彼にとってとても重い言葉だった。私が思うより、ずっと、ずっと。
でもね、私は、やっぱり一ノ瀬君のせいじゃないと思うんだ。
仮に一ノ瀬君のせいだとしても、やっぱり、私は許してる。だって私が一ノ瀬君とこの世界に来たとき、一ノ瀬君が私にここにいる意味を与えてくれていたから。
『俺があの時、河野さんを、……離したくなかったから』
一ノ瀬君、あの聖地の湖で、そう言ってくれたよね。一ノ瀬君が、私を望んでくれた。一番最初に伝えられたそれは、ずっと、私の支えだった。
「今も、そう思ってくれる?」
「え?」
「今も、離せないって、思ってくれる?」
「あたりまえだ!! 今だって、俺は、河野さんがいなかったら……」
彼は震えながらうつむいて唇をかみしめる。
私も、私もだよ。一ノ瀬君と、離れたくなかった。離して欲しくなかった。だから、きっと、これでよかった。
「一ノ瀬くん」
彼の名前を呼ぶと、のろのろと彼が顔を上げた。こんな風に、弱った顔をする人だなんて、知らなかった。今までずっと一ノ瀬君はすごい人だと思っていた。何でも出来るし、頭もよくて運動も出来る。人をまとめることもリーダーシップをとることだって出来る、判断力もある、頼りになる人。
でも、きっとそれだけじゃなかった。私の手を引っ張ってくれている間、きっと彼も苦しんでた、辛かった、悲しかった、混乱して、きっと………泣きたかった。
私はそんな彼に、気付いてあげられなかった。同じ立場で、同じ苦しみを共有出来るはずの、たった一人の人間が私だったのに、彼だけに苦しさを押しつけてた。
なのに、甘えて被害者面して重荷になることしかしなかった私なのに、彼は見捨てずに怒りもせず、一人苦しさを抱えて、私に謝ってた。彼も、同じ立場だったのに。彼も世界の身勝手を押しつけられた被害者だったのに。
大好きだよ、一ノ瀬君。あなたが私を大切にしてくれたように、私だってあなたを大切にしたい。私なりにあなたを守りたい。
「一ノ瀬君、……祐君」
彼の両手を握る。はじめて名前を呼べば、彼は少し驚いたように私を見た。
私もうつむき加減の彼の顔をのぞき込むようにして、それから背伸びをした。
はじめて触れ合った唇の感触は、柔らかで、優しくて、ずっと私を守り続けてくれた彼そのもののようだった。
「こうのさ……」
「祐君、大好きだよ。私は一緒に来れて、よかったよ。離さないでいてくれて、ありがとう」
「あか、り……」
彼も、はじめて私の名前を呼んでくれた。
一ノ瀬君の……祐君の目に涙がにじむ。
「朱里、朱里……。俺も、君に好きって言っていい? 朱里をこんな世界に引きずり込んだ俺だけど、でも、俺は………」
涙をこぼしながら、彼は繋いだ両手をほどき、代わりに私の両方の頬を包み込むように触れてくる。
「君が、君だけが、……朱里さえいれば、俺はがんばれるから……」
「良いよ。……言って。たくさん言って。そしたら、とてもうれしいから。私も祐君のそばにいて良いって思えるから」
私が微笑むと、彼は苦しそうに、でもほっとしたように微笑んで、涙に声を詰まらせながら声を絞り出す。
「朱里、好き、好きなんだ……」
額を合わせて、彼の涙を頬に受け止めながら、私たちはもう一度キスをする。
「だから、朱里、一緒にいて……」
縋るように触れてくる彼の頬に私も手を伸ばして、濡れている頬を指先で何度も撫でる。
「うん。いるよ。ずっといる。……大丈夫だよ」
キスの間に、何度も何度も、そう繰り返す。
額を合わせて、頬を触れ合って、何度もキスをしながら。
「好き」と「一緒に」と……それから「大丈夫」と。
祐君が、この世界に来てから、ずっと私にかけ続けてくれていた言葉。きっと、本当は、彼こそが欲しかった言葉。
大丈夫だよ。何度でも言うよ。私はずっと祐君といる。
二人で生きていこう。ずっと、手を繋いで生きていこう。
戻りたい世界から、遠く離れた、この世界で。
「祐君、いこう……!」
笑って手を伸ばせば、彼も笑顔で手を繋いでくる。
この世界で、私たちは生きていく。