第9話
実は旧版より強化されてる精霊王。
熱砂の砂漠に降り注ぐ、星の光に満ちた石の杭。豪雨の如くに降り注ぐ漆黒は、並の魔物は愚か三大と称される魔獣でさえも致命の傷を受けるもの。
杭に貫かれながらも迫る砂の津波も、砂一粒が掠るだけでも矮小な魔物が消し飛ぶ程の力に満ちている。飲み干されたのならば、或いは杭より危険であろうか。
「ミュシャ」
「え、あ、きゃっ!?」
無抵抗に受けるなど、ヒビキであっても出来はしない。本能が危険と判断し回避を推奨、僅かな理性が背後の少女を危険を考慮しその手を伸ばす。
壊さぬように繊細に、されど間に合わぬのでは意味がないので慌ただしく。掬い上げるように拾い上げたミュシャを横抱きにして、降り注ぐ雨を間一髪で躱していく。
「っ」
飛び退いて後退した先で、表情を歪めるヒビキ。いつしか砂漠の砂は熱した鉄板のように熱く、少年の足裏は見るも無残に焼け爛れている。自然治癒の速度が遅い。それだけ浄化の力が増していた。
津波は飲まれる砂を増やして高さを増し、降り注ぐ雨は今も続く。その全てを数度の跳躍で躱しながら、空を見上げる少年の呼吸は既に荒い。何故ならそれは単純に、真面な呼吸が出来ていないから。彼にとってこの場所は、酸素のない水中と同じだ。
【苦しいか、悪竜王】
「――っ」
気付けば声は背後から。咄嗟に振り向いた先に居る裸体の女が腕を振るう。その右腕の先には翡翠に輝く巨大な爪が、水晶の如くに透き通った五指がヒビキに向かって振るわれる。
明らかに杭や砂をも超える程の力が籠った爪撃を前に、本能は手元の女を盾にしろと命じ理性が拒み庇おうとする。結果として少女に届かせぬことは叶うも、鋭い爪はヒビキの背に深く食い込み肉を抉った。
「ヒビキっ!」
苦悶の声を漏らす少年への呼び掛けに答えるような余裕はなく、女の追撃もまた止まらない。左の腕にも巨大な爪が出現していて、その凶器は既に振るわれている。
これは不味いと断じた生存本能が、兎角離れんと断じて動く。地面を叩いた両足から爆発するように瘴気が噴き出し、着地を考慮することなくその体を遥か後方へと撃ち出した。
「きゃっ!?」
「ぐっ、ぅぅ」
地面を数回バウンドして、砂の上に転がるヒビキとミュシャ。痛みの余り守る少女を手放したヒビキが全身火傷塗れなのに対し、地に転がったミュシャは無傷に等しい状態。
この砂の熱は、魔性に対してのみ機能する。精霊の子である彼女は然したる影響を受けず、対して魔の王たる少年には絶大な効果があった。触れれば焼ける高熱の鉄板の上で、転がり回った時のような有様である。
【だが、その痛み、苦しみは、在りし日の民が既に味わったもの。お前たちが既に与え、これから齎すものと同義!】
火傷塗れの顔を上げれば、その視線の先には女の姿。鋭い蹴りを繰り出す精霊王にとって、この場は自身の体内に等しい。砂の領地の果ての果てまで、彼女は一息で転移し縦横無尽に暴れ回るのだ。
【分かるか、悪竜王! その行い、大罪と言わずになんと言う! 遍く全ての命への冒涜を、お前たちはこの地で為した! これを大悪と言わずして、何を大悪と言えば良いっ!】
怒りのままに、振るわれる蹴撃で飛ばされる少年。その体をボールのように何度も何度も蹴飛ばしながら、空間を飛び回る女は遥か過去へと想いを馳せる。
四大の精霊王。彼女らは嘗てを生きた死者。最初から捧げられる為に産み落とされて、その末路は余りに悲惨なものだった。そして誰もが、納得していた訳ではない。
シュアと言う女は、ヘリから火山の火口に突き落とされた。後の火の精霊王は落下の途中で、世の全てに怒りと恨みを抱き無念を叫びながら焼死した。
マリナと言う女は、水圧で自壊するように設計された潜水艇で深海に押し込められた。後の水の精霊王は浸水する鉄の棺の中で、死にたくないと泣き喚きながら溺死した。
フェドーシャと言う女は、足を縛られ枯れた樹木に逆さ吊りにされて放置された。後の風の精霊王は死肉を漁る鳥すら息絶えた星の上で、全てを諦めたまま風に含まれた病原菌に犯され苦しみ藻掻いて病死した。
そしてクロエは、大地に生きたまま埋められて、少しずつ腐りながら餓えて死んだ。そんな彼女が友らの末路を知ったのは、星と同化したその後のこと。
星との同化方法を、彼女たちは知らされてはいなかった。死後に理解して、それでクロエは仕方がないと納得した。そんな女と同じく、同胞たちも意思は同じだとクロエは思っていた。だがその実内面は皆バラバラで、共通していたのは己が死への恐怖と魔王への敵意くらいだろうか。
魔王も人間も全て殺してしまいたいのだと、何もかもに怒りの矛先を向けた火の精霊王とは違う。成ってしまった以上は役目だけは果たそうと、嘆きながら流されている水の精霊王とも違う。
抗っても無意味だから、せめて多くの人には幸福な生を。そう願って諦めた風の精霊王とは似ていて異なる。唯一土の精霊王だけは使命感と共に、今も昔も至大至高の結末だけを求めている。
【罪には罰をっ! 罪人の首を落とさねば、詫びることさえ出来んのだ! 捧げた命に! 散った全てに! 望まぬ想いをした者たちに! 他に何を返せると言うっ! 言えんさ、何もっっ!!】
捧げた命に、苦しんだ人々に、報いる為に生きると決めた。多くの命が失われたのだから、せめて後の世は平穏でなければ嘘だろう。返るべきものがあるべきなのだと、それが女の立脚点。
大地は悠久に不変であると、その認識に影響を受けているとは言え30万年だ。今も抱いた情熱も燃やし続けていられるのは、女の気質がそういうものであったから。誰よりも使命感に燃える堅物こそが、このクロエ・グノーメと言う精霊王。故にこそ女には、こんな道しか選べない。
【これより訪れる冬の時代。シュアが代行者と定めた東の武王ならば、或いは真なる魔王すらも討てるやもしれん。だとするならば、妾が此処で貴様と争うのは、無意味である以上に害悪だろう】
大地は知る。既に定まった冬の時代、どれ程に引き延ばそうと訪れてしまうその未来。震える程の寒さを齎す大雪を、粉雪の如く溶かしてしまいかねない者が居ることを。
火の精霊王が見出し心服し、火を超える炎の王と言う名を贈った存在を。彼の代行者ならば確かにと、クロエをして納得する強さはある。彼を信じるならば、この行いは愚行である。分かっていてしかし堅物な女には、こんな道しか選べない。
【だが、妾はシュア程に期待が持てん。武王も所詮は修羅でしかない。いいや、あれは修羅の究極だ。並の修羅など比較にならぬ怪物は、或いは魔王以上の脅威と成り果てよう。それは誰よりも、修羅と言う呪いを世に残した我らが胸に刻むべきこと】
古き民が生み出した、修羅と言う呪い。闘争を是とし血に酔う化外に、世を救えるとは思えない。否、彼の王が勝ち生き延びてしまえば、必ずや魔王以上の敵を求めて世を乱す。
個人の好悪の話ではない。修羅とはそういう生き物だ。三大欲求よりも高い位置に闘争を求める心があり、それを満たせねば飢えて狂う。生まれた時からそういう生き物に、一体何を期待しろと言うのか。
今は気高く飢えている。それしか食えぬのならば、飢えて死ねば良いのだと。だがそれが何時まで持つか。本質的には世を憎んでいる火の精霊王ならばそれで滅ぶも良しとしているのだろうが、この堅物にはそんな道など選べやしない。
それは使命感が故。多くを捧げて来たのだから、失った者らに報いなければならない。果ての破滅など論外で、誰もが笑って過ごせる未来を求めているのだ。それを齎す者が居ないのならば、我が身の全てで叶えてみせよう。そんなクロエの抱く感情は、悪く言えば傲慢の類だろう。
【嘗て妾を、頑固者だと罵った小僧が居たよ。ああ、確かにそうだな。きっと妾は、他の誰よりも人間と言う種に失望している。お前たちには任せられんと、責任感や使命感の強さは翻せばそういう意味になるだろう】
我が救わねば、お前達では無理だろう。我が導かねば、お前達では無理だろう。救いの形が提示されても、それを気に入らなければ否定する。それでは報いが足りていないと、クロエはそう言う女である。
故にこそ在りし日に、彼女と相対した勇者はそれを指摘した。全てを背負おうとしていたクロエに対し、黙って見ていろと笑って言った先代勇者。彼は言葉の通りに魔王の影を打ち倒し、世界全土に希望を示すという奇跡を為した。
言葉と共に殴り付け、言葉と共に蹴り付けて、玉遊びのようにヒビキを地面に叩き飛ばしながら女は告げる。自覚して尚治らぬ己の悪癖を、指摘した少年が最期に守ったのがこの怪物であるが故。
聖剣の光が、世界を照らした。あの瞬間は、世界の誰もが無条件に未来を信じた。故にクロエはあの時初めて他人を信じ、故にクロエは誰よりもその死を嘆いた。だからこそ彼女は、此処に問うのだ。
【その小僧が、最期に生かし守った光よ。お前は妾に、何を示せる? 答えてみせよ、龍宮響希】
地に伏して、傷付いて、それでも醜悪な黒を纏って修復していく怪物。悪竜王と言う怪物は、しかしまだ龍宮響希と言う人格を残している。
彼をこそ守りたいと切に願った勇者が居たから、心は壊れて摩耗してもまだ人の欠片が残っている。その欠片が勇者が守るに値する光だとすれば、もう一度だけ、人を信じても良いかと思えたから。
「難し、い。分から、ない。何で、こんな、こと、するの?」
されど、その想いは届かない。少年は女の言葉を、一割すらも理解出来ていなかった。何故ならば、龍宮響希と言う人格は、もう既に壊れている。残っているのは、その残骸から生まれたナニカ。今も瞳を閉じたまま現実から目を反らし、寝惚けたままに過ごしている悪竜王。
それも無理はないこと。大切なものを全て失い、悍ましき怪物が身に巣食い、鑢で精神を削り続けるような拷問を受け続けた。
未来になんて、期待は出来ない。居て欲しい人は、もう誰もいないのだ。帰りたい場所など、もう何処にもないのだ。己は誰かを犠牲に産まれた、悍ましい怪物なのだ。目を開いてそう自覚してしまえば、それこそ気が狂ってしまう。
化け物のままならば、壊れたままでも良かったのだろう。だが胸に宿っている、残滓から感じる想い。それを否定したくはないから、ヒビキは目を閉じている。
これは自己防衛なのだ。目を瞑って耳を塞いで、何も知らない何も分からないと蹲る。そうしていなければ、本当に魔王になってしまうから。だから少年は、唯の幼子と化している。
【……言ったであろう。罪には罰が必要だ。我が末は大罪を為したが故に、妾は裁かねばならん。そうでなくては、散った全てに顔向け出来ん】
「…………?」
【ちっ、どこまで寝惚ける心算だ阿呆め。端的に言えばだ! 悪いことをしたから、怒られているのだよ!】
それを悪しと言える程に、クロエは冷血ではない。されどそれで良しと言える程に、クロエは諦めてもいない。心に亀裂が入った故の幼児退行など、彼女に言わせれば唯の弱さだ。
そんな弱さを持つのが、唯人ならば捨て置けた。されど此処に居るのは悪竜王。世を破滅に導く五大魔王の一角ならば、いつ狂うか分からぬ弱さなど脅威でしかない。その儚さは害悪だ。
「おこ、られる。ごめん、なさい、する? 僕も、一緒に、謝る、よ?」
【そういう次元で済む話ではもうないのだとっ、思考を止めた脳では理解も出来んかっ!】
殴られ続け、傷付き続け、それでも顔を上げて首を傾げてそう口にする。そんな幼い少年は、確かに善良なのだろう。それでも儚く弱いのならば、彼は存在すらも許されぬ大悪だ。
アカ・マナフが目覚めれば、全ての魔物はその影響を受け活性化する。影ですら見過ごせぬ程の強化率なら、真なる魔王が目覚めた時にはどうなるか。
少なくともアジ・ダハーカも影響を受け強くなる。勇者の残した聖なる剣でも封じ切れない程に強くなれば、この弱く儚い子どもの自我など跡形もなく消えてしまおう。
故に、弱く儚いのなら、ヒビキは生きていてはいけないのだ。
【もう良い! 勇者が末期に抱いた願い故、僅かにでも期待した妾が愚かであった! この今になっても尚、己の内に目を向けることさえ出来ぬ幼子に、一体何が為せると言うっ!】
傷だらけで、しかしぼんやりとしたままの子ども。その顔に向かって、クロエは生身の腕を伸ばす。思わずと遠ざかろうとするヒビキだが、この異界では逃れることなど出来やしない。
どれ程早く動いても、それ以上に転移で距離を詰められる。自然の通りとして数秒で、彼の額に精霊王の掌が触れる。瞬間、爆発するような音と共に撃ち込まれたのは膨大な量の精霊力。
「が、っ!?」
【やはり、貴様は此処で滅びろ、悪竜王っ!!】
何時しかその指先には、絡め取るように長く伸びた翡翠の爪。掌から撃ち込まれる力は宛ら、パイルバンカーの杭が如く。激しい爆発と共に、ヒビキの頭部を物理的に破壊する。
蛆や羽虫や百足が肉片から湧いて、苦しみながらも急速に修復していくヒビキの頭蓋。汚らわしいその光景に身を竦めることもなく、また掴み取ったその顔を離すこともなく、クロエは更に次弾を撃ち込む。
「ぐ、ぎぃっ!?」
【悪しき者、許されぬ者、弱く儚き小さな子! 許されぬ罪と共に、その苦難しかなき生を終わらせろっ! 果てに妾が報いてみせる! 故に今は疾く、永久の眠りへ落ちるが良いっ!!】
爆音が響く。何度も何度も何度も、砂漠を揺らす程の音がする。捨て置かれ遠く座り込んだままのミュシャの鼓膜すら、破いてしまうのではないかと言う程の轟音が異界を揺らす。
弾ける度に汚物が舞い散り、真向からその穢れを浴びても女は揺るがない。己の頬を這いずる蛆虫を一顧だにもせぬまま、翡翠に輝く水晶杭で掴んだ悪竜を壊し続けた。
数秒か、数分か、半刻には満たぬだろう。疾く眠れと願いながらも、攻勢を止めぬクロエ。鳴り続ける爆音の中で、だらんと少年の四肢が力なく落ちる。
漸くに終わるのかと、クロエが気を抜いた一瞬――びくりと音を立てて、ヒビキの右手が彼女の腕を掴んでいた。
【ぐぅっ、なぁっ!?】
女の前腕を掴んだ小さな掌は、しかし見た目以上に力強い。多少の痛みならば手を離さぬと覚悟していた女が思わず、呻いてしまう程の激痛。
それでも揺るがず顔を掴み続けるその腕に、ならばと言わんばかりに込められた力が圧を増す。ぴしりとクロエの腕に罅が刻まれ、秒と持たずに砕けて散った。
【馬鹿、なっ! 妾を、砕くっ!?】
「訳、分か、らない」
腕を半ばから圧し折られ、驚愕に呻きながら後退するクロエ。傷口からは血ではなく、緑に光る砂を散らす。そんな女を見ることもなく俯いたまま、誰にも聞こえない程の小さな声でヒビキは呟く。
【あり得ぬ! 妾の体は、星と同義。この身は、四大で最も防御に秀でているのだぞ!? この身の守りは、隕石の衝突で漸く傷が付く程度! あのアカ・マナフですら、妾を直接傷付けるは手に余ると断じたと言うにっ! 圧し折るなど、どれ程の力が要ると思っておる!?】
「意味、分か、らない」
クロエ・グノーメは星の化身。不変と悠久の概念を宿したその身は、真っ当な手段では傷一つ付けることさえ困難だ。単純な火力で彼女を害するには、その言の通り隕石の衝突に秘する威力が必要だ。
TNT爆薬換算で約1万5000トン分のエネルギー。広島型原爆と同じだけの威力を至近でぶつければ、その外皮も僅かに傷付くことだろう。そこまでして、漸く擦り傷を付けられる程度なのだ。物理的に倒そうとするなど、どれ程に力が必要となることか。
【怪物め。やはり、どれ程に哀れむ境遇だろうが、魔王は魔王かっ!?】
だと言うのに、俯いたまま呟き続ける子どもは軽々と腕を握り潰した。その握力だけで、原爆以上のエネルギーを叩き出したのだ。余りにもあり得ないと、混乱してしまうのも当然のことだろう。
人類全盛期には、これ以上の兵器など山程あった。それらが一切通じなかったのが、全盛期のアカ・マナフ。だが当時の魔王ですら、身体能力ではこの悪竜に劣るのだろう。宙に浮かび冷たい汗を流す女は、そう悟った。
「でも、そう、だね。分かる、こと、ある」
俯いて、座り込んで、目を閉じていたヒビキはゆっくりと瞼を開く。その双眸は、異色ではない。黄金に染まった瞳が示す、彼はこの今、魔王として目を覚ましたのだ。
「お前、邪魔だよ」
【が――っ】
一瞬、瞬きにも等しい時間で距離が詰められる。その結果自体はクロエの動きと同じでも、その原因は全く違う。転移ではなく、高速移動。悪竜王は単純に、光よりも早く動いただけだ。
そして、着弾。余波だけでも大地を砕く程の威力を魔術で操り、振るった拳に収束させる。振るわれた拳は正に星を砕く程の威力を有し、殴られたクロエの体は砕けながら宙を吹き飛ぶ。
舞うと言うには相応しくない程の高速で、吹き飛ばされたクロエを更なる速度で追う悪竜。蹴り飛ばし、殴り飛ばし、吹き飛ばし続ける姿は先の焼き直し。
【やって、くれるな。悪竜王!】
「かはっ、はははっ」
殴られ壊され遠ざかる意識をどうにか意地で留め、空間を跳ぶクロエ。急速に肉体が復元するのは彼女も同じく、翡翠の光が瞬きその身は一瞬で元の姿へ。
高防御と高耐久に再生能力。土の精霊王が他に秀でている能力はそれであり、古きより友らの盾として常に最前線に在った。そんな女だからこそ、悪竜王の暴虐にも耐え得る。
姿勢を正し、空を飛びながら黒き石の刃を放つ。そんな女に向かって飛翔する悪竜は、黒杭を前にしても減速さえしない。先には血肉を抉った刃が、魔王の外皮すら貫けずに砕けて散った。
【ちぃ、厄介にも程があるぞ!】
「ははははははははははははははははははっ!」
笑い声を上げながら、直進を続ける魔王に技巧などはない。複雑な思考も駆け引きも何一つなく、飛んで走って進むだけ。だがそれが、どうしようもなく厄介だ。
傷一つ付かぬ外皮に頼り、光よりも早い速度で迫る重戦車。雑に振るう拳の威力も一撃で星が砕ける程とくれば、技量の不足など付け入る弱味になろう筈もない。
動きの先を予測して、転移を続けなければ追い付かれる。追い付かれ、殴り飛ばされればダメージが蓄積する。その結果がどうなるかなど、想像するに容易い末路。
「楽しいね、まるで鬼ごっこだ」
【流暢に、それが貴様の本性かっ!】
杭が通じない。そう断じたクロエが引き起こすのは砂の津波。天さえ覆い尽くす程の砂は、一粒一粒が魔を滅する光を宿したもの。その物量を前に、耐えられる魔性などそうは居ない。
されど、此処にある竜は特級の例外。先には火傷を負っていた砂を浴びても、平然と遊び始めるような怪物だ。砂遊びをするのかと、喜々として地面を弄り始めた悪竜。猛毒に触れて尚も無傷な姿は、舌打ちを零したくなる物だろう。
【ああ、そうだろうよ。五大の魔王は、人類の負の側面より生まれし大悪。個の意志で抗えるようなものではなく、その剣を以ってしても封じ切れるものではないとっ!】
「御託はいいよ、どうせ理解出来ないし」
とは言え元より、砂の津波は目晦まし。己が転移する先を気取らせない為のものでしかなく、相手を愚弄するかのように砂遊びを始めた姿は正に僥倖。
女はその手を天に掲げる。高く掲げた右手の先に、集う無数の光。翡翠の輝きが球体を形成し、その内側にて膨大な量の力が鼓動を始める。
生半可な攻撃が通らぬならば、全身全霊を込めた一撃を。己の全てを込めた乾坤一擲を当てることさえ叶うのならば、悪竜とて滅ぼすことは可能な筈。
【……これでは、足りぬな。ならばっ!】
集まった力。収束した力は己が操れる最大量。だがこれでは致命には届かぬだろうと、断じてクロエは更にと思考を進める。
星の力では、これが上限。ならば気に入らぬ話ではあるが、人の力も此処に加える。聖なる剣が人の善性を束ねた剣に、星の息吹を宿した物であるように。同じく、星と人の両面を持つ武具を此処に鍛えるのだ。
【王なる精霊が、全霊を込めて作り上げる精霊武装。妾がこの世で初めて織り成す武具を、お前を葬る為だけに用立てよう】
精霊王が生み出す至高の武具。他の三者と異なって、クロエだけはまだ作り出していなかった精霊武装。
それは故にクロエが生きた時と等しい力を宿す。友らと同じく神話をなぞり、その刃を今この場にて作り上げる。
アジ・ダハーカは討たれるモノだ。その神話には敗北が記録されており、ならばそれを踏襲する形で作り上げた武具ならば敗北の因果を彼の怪物に齎すことが可能となる。
作り上げるのは矛である。アジ・ダハーカを打ち殺す武具も、同一視されるザッハークを打ち殺す武具も、どちらも矛であるが故。その双方の性質を宿した武具を生み出すのだ。
【完成】
光の中で鼓動が続き、一際大きな動きと共に生み出されたのは黒鉄の槌矛。先端は雌牛の頭部を模しており、握りの先では燃える光輪の意匠が回る。
スラエータオナの牛頭の矛。ガルシャースプの鎚矛。アードゥルの光輪。それら全てが、神話においては悪なる竜を苦しめた物。彼を滅ぼす為だけに、それら全てを束ねた武具だ。
人の総意より生まれた魔王は、言うならば概念存在と言うべきモノ。その存在はその神話故に力を保証され、その神話故に滅びを約束されている。
人間の信仰より生まれた神故に、人間の信仰より生まれた武具こそ特効。ましてやこの刃には、星の息吹が込められている。例え悪竜王であれ、否――悪竜王だからこそ耐えられない。
【吠えろ――英雄神話・悪竜滅す牛頭の矛っ!!】
言葉と共に、炎神の光輪が激しく回る。黒きメイスの本体は、翡翠の光を纏って激しく輝く。数秒とせずに光は肥大化、武具を覆い尽くして見えなくなった。
故に女の右手の先に、浮かぶは二色に輝く膨大な光のみ。矛の形に輝く緑の光に、燃えるように輝く白い光。それは一点を超えた時点で一瞬動きを止めて、直ぐに爆音を発し飛翔した。
「――っ」
砂遊びを止めたヒビキは脅威に気付いて顔を上げるが、既に動き出すには遅い。光より早く動ける彼であろうとも、放たれた時点でもう手遅れ。既に敗北と言う因果は世界に刻まれた。
蛇王は牛頭の矛に頭を砕かれ、ダマーヴァンド山に封じられたと言う。悪竜は巻き毛の大英雄が手にした矛で、打ち殺されるとされている。炎神の光輪は、悪竜の口内を焼き苦しめ続けると伝承に残る。
故に、その全てを成立させるまでこの精霊武装は止まらない。否、この精霊武装が動き出した時点で、それら全ての結果が成立すると言う原因が発生したのだ。故に、回避も防御も既に意味がない。
光速で距離を取ったと言うのに、それ以上の速度で追い付いている鋼の矛。頭部に着弾すると共に、その身に世界の終末まで続く炎の激痛を齎し、その体を余波だけで吹き飛ばす。巨大なクレーターを地に作り、ヒビキの体は肉片へと変わった。
【終わり、か。目覚めたばかりでなければ或いは、結果は違っていたであろうな】
地に突き刺さった矛を見下ろし、中空に座すクロエは思う。素の実力で、己は劣っていたと。他者を嬲り弄ぶと言う魔物の衝動と一度は機会を与えないとならない魔王の性質、それに助けられた結果がこれだ。
精霊の武具とて、この異界でなければこんなにも早く作れなかっただろう。土の精霊王には分かっていたのだ。此処で遭遇してしまったことこそ最悪だが、それでも多くの偶然に救われたが故に底の底には至っていないと。
そんな女は、戦矛を回収しようと近付き手を伸ばして―――――がしりと、その手が異形に掴まれた。
【な――っ!? 馬鹿なっ!?】
「キヒ――ッ」
歪な声は、虚空から。女の腕を掴んでいるのは、二の腕から先しかない人のそれに酷似した左腕。されどその手は鱗に覆われ、女の胴よりも大きな爪が生えている。
僅か残っていた肉片が膨れ上がって、其処から湧いているのは無数の害虫。蠅や油虫が腕の断面に食い付いて、一瞬後には脈動する血肉に変わっている。悍ましい穢れが、此処に集う。
【敗北の因果を、死を迎えることで乗り越えた!? だとしても、蘇生が早過ぎるっ!!】
「キキ、ヒヒ、ヒヒャハハハハハハハハハハハハ」
ぐちゃぐちゃと肉塊が蠢いて、蘇るは悪竜王。衣服までも戻った姿は、まるで時間を巻き戻したかのようで――――されど先にはなかった異常がある。
己の胴よりも巨大な両腕は黒い鱗に覆われて、腰から先には自身の全長よりも巨大な尾が。歪に嗤う怪物の肩には、非対称に走った亀裂――否、二つの口が開いている。
涎を垂らす二つの口と、狂ったように壊れたように泣いているように嗤う一つの顔。より深度を増した異形こそ、悪竜王の戦闘形態。
「何だよ馬鹿かよ分かってないの? 君が振るう武器は悪竜王を殺せるモノでも、君自身は違うだろぉっ! 悪竜殺しは英雄とセットで運用しなくちゃぁ、結局唯のゴミになるっ!」
【ぐっ、おぉっ!?】
腕を掴んで、そのままに振り回す。肉体に食い込む程に強く握られた女は抜け出すことも出来ぬまま、振り回されては地に叩き付けられる。まるで小さな子供が、玩具を振り回して遊ぶかの如くに。
「はは、あははっ! 楽しいなぁ楽しいなぁ楽しいなぁっ! ああ、でも不思議だなぁ。どうしてこんなに楽しいんだろう! こんなにこんなに楽しいのに、どうして涙が出るんだろうなぁ!!」
何度も何度も、何度も何度も何度も何度も、振り回して叩き付ける。まだ壊れないのかまだ壊れないのか、いつまで壊れないでくれるのか。嗤い狂う怪物は、果たして何を思うのか。
泣き嗤う怪物に掴まれたまま、摺り潰されている女。クロエは歯噛みを続けながら、必死になって思考を進める。最早切り捨てるしかないと、放つ力は己に向けて。右腕から先を自裁した。
【ぐ、うぅっ! 化け物めっ! 有する力だけなら、あのアカ・マナフでさえも超えるかっ!】
腕一つ無くしただけでは抜け切れず、鋭い爪に右半身を大きく抉られながら如何にか後退したクロエ。荒い呼吸を立てながら、宙へと逃れる女は想定を再び改める。
アカ・マナフよりも単純な戦闘では厄介。そう断じていた以前から、更に脅威度を一段増やす。直接戦闘での撃破は不可能に近い、暴虐の化身こそがこの悪竜王なのだと。
「膂力だけ? 何を言ってるんだい?」
されど、その想定ですらも、まだ甘い。
『発動』
ヒビキの肩に開いた二つの口が、その呪言を呟いた。直後、気付けばクロエの腕は悪竜王に掴まれていた。悪竜王の位置は変わっていない。これは光速で移動したのではない。彼はクロエを強制的に転移させたのだ。
【っ!? 無詠唱、魔術? この地で、妾を、精霊の王を、強制的に転移させるだと!?】
あり得ない、何度目になるか分からぬ困惑を晒す女に迫る拳。その顔を殴り付ける異形の拳に砕かれながら、クロエは再び己の体を自裁する。
右半身に続いて左の半身も大きく失い、達磨となりながらも飛翔し遠ざかる女。疲弊故に再生が追い付かぬ女を顔を見て、悪竜は邪悪に嗤った。最早、何処に逃げようと無駄である。
「幾千之魔導。魔竜の権能は、望む魔術を使うこと。息を吐くように、当たり前に全ての魔術が使用出来る。この意味、君なら分かる? 僕にはよく分からないや」
星の中心核であるが故に、これでも悪竜王は弱体化している。この異界に居るのだから、これでも精霊王は大きく強化されている。だと言うのに、転移の強制にさえ抗えなかった。
この時点で、最早勝負にならない程の差が彼我にはある。自在な転移を封じられた時点で、光速での戦闘速度にさえ対応出来なくなるのだ。その身を傷付けるには全力を出す必要があると言うのに、これでどうしろと言う。
更に最悪な状況を、クロエは悪竜王の言葉を聞いて理解する。魔術の本質、それが如何なるモノであるのか。クロエは確かに知っていたから。
【魔術とは、人の無意識に干渉し、人の想像出来る現象を現実に引き起こす技術。全ての魔術を使うなど、それは最早、全知全能と同義ではないかっ!?】
始まりの魔王アカ・マナフは人の悪意より生まれた。その魔王に穢され落ちた命は、人の悪意に深く影響を受けている。魔物が有する瘴気と言う力こそ、人間全てが持つ悪意が濃縮されたもの。
魔術とはその瘴気を介して、人類全ての集合的無意識に干渉。人間と言う種の後押しを受けて、人の想像する全てを現実に再現する。故にこそ、全ての魔術が使えるとは、全知全能にも等しい権能であるのだ。
「多分、違うよ。出来ないことは結構あるし、ほら、分かりやすいの一つあるだろう。魔術は人を救わない」
だがしかし、悪竜王が語るように不可能は存在する。例えば多くの人が不可能だと思っていること。それを為すには、より多くの魔力が必要となる。
時間を数年単位で操作しようと思えば、人間では用意出来ない程の量の魔力が必要だ。悪竜王をして数年単位で時間を巻き戻せば、かなり疲弊するのだ。
更に言えば、魔術は原則として人間を救えない。何せその本質は人の悪意だ。苦しめ貶めることは簡単でも、悪意で他者を救うのは酷く難しいことなのだ。
「けど、対応力って意味なら、かなり高いよね。それにほら、僕って五大魔王で最強だし」
【っっっ!】
逃れようとする精霊王を見ていた怪物は、にへらと嗤って力を行使する。一瞬で稼いだ距離を零にされ、間合いに連れて来られたクロエの顔に打ち込まれる拳。
壊れながらも壊し切らない絶妙な加減で、無駄に苦しみながら宙を舞うクロエ。そんな女に片手を向けて、強制転移をもう一度。へらへらと軽薄に、されど悪辣に嗤う怪物は拳を振るう。
【ごっ、がっ!?】
「基本性能は最強で、どんな奴相手にも対処出来る対応力が備わってる。だから単騎での決戦に限るなら、アジ・ダハーカが一番強い」
簡単には壊さぬように、簡単には殺さぬように、加減しながら殴り続ける。その度に削れていく女の無様を見下し嗤いながら、悪竜王は全てを馬鹿にするかの如くに語るのだ。
「だから、さぁっ! アカ・マナフ程度を相手に四人掛かりでどうにかってお前が、この程度の優位を用意しただけで、僕を滅ぼそうって言うのが馬鹿げた話な訳だっ!!」
殴る。殴る。殴り続ける。ヘラヘラと嗤って拳を振るう怪物こそは、五大魔王で最強の存在。その身は光よりも早く、その一撃は星すら砕く。恐るべき性能を有する怪物は、限定的ながらも全能に等しいのだ。一体誰に、この怪物が倒せるか。
「ああ、力を振るうのは楽しい。弱い奴を甚振るのは愉しい。加減してやってるのにも気付かずに、馬鹿なとか言い出す奴を見ると本当に嗤えてくる。お前のことだぞ、精霊王」
殴る。殴る。殴り続ける。動かなくなるまで遊んだら、後は壊してゴミ箱行き。ヘラヘラと嗤う怪物は、今もまだ何も見ていない。
目を瞑り耳を塞いで暴れ回る、子どものような怪物で――しかしそれが、誰の手にも負えない程に、どうしようもなく強いのだ。これが、これこそが、悪竜王アジ・ダハーカ。
「あれ? でも僕って、いつからこんな……まぁ、良いか。考えてもどうせ分からないし、辛いだけの思考なんて要らない。僕は唯の暴力装置。それ以外なんて必要ないから」
拳を振るい続けていた怪物の胸元で、空色の光が一瞬輝く。その一瞬だけ瞳の色は異色に戻って、されど直ぐに金色に戻ってしまう。
其処に宿る残滓の声は、ヒビキには届かない。耳を塞いでいる子どもは、認めていないのだ。信じたくない、あり得ないと断じている。だからこそ、その死者の声は、ヒビキにだけは届かない。
【お、のれぇぇぇ】
「……へぇ、まだ抗うんだ。頑張れ、頑張れ」
使い古した雑巾の如く、見るも無残な姿と化した精霊王。それでも燃え続ける使命感が故に、彼女の内に撤退と言う文字はない。今更に逃げようとしても、逃げ切れまいという確信もある。
故に右手を再生させ、しかし治すのはその部位だけ。空を飛べる以上は足など不要。僅かでも多くの力を残して、狙うは最後の悪足掻き。伸ばした腕が掴んだ物は、悪竜王を滅ぼす為に作り上げた武器。
牛頭の矛をその手に掴み、身を翻して大きく振るう。半壊した顔で猿叫を上げながら、横に振り抜いた矛が悪竜の右手を打つ。されどその一撃は鱗を穿つことさえ出来ず、逆に矛の先端が砕けていた。
【く、最早、傷一つ……】
「うん。頑張ったけど、ダメだったね。君の力にも、もう慣れたから、一人じゃ多分勝てないよ? まあ、他の三人を連れて来ても、僕には勝てないと思うけどね」
理由は二つ、一つは先程の出力を出せなかったこと。そしてもう一つが、悪竜王が耐性を得ていたこと。この怪物は学習する。一度受けた攻撃は、二度目には真面に通らなくなる。
故に此処で万策が尽きた。土の精霊王クロエ・グノーメでは、最早何をしようと悪竜王アジ・ダハーカを倒せない。いいや恐らくは最初から、クロエでは悪竜王を倒せなかったのだ。
「じゃ、そろそろ遊びも終わろうか」
【まだだ! まだ、妾はっ!】
「うーん。そういうの、もう良いから。ほらっ!」
【ごぁっ!?】
確定した敗北を前に、それでも足掻こうと後退したクロエ。その姿を見送る悪竜王は、馬鹿にするように嗤った後に、その拳を地面に突き刺した。
巨大なクレーターが出来る程に強く、大地を穿った拳の衝撃で空が揺れる。同時にまるで内側から殴られたような衝撃を受けて、後退していたクロエは地面に転がった。
「うん。やっぱり思った通り、ここが君の体内なら、どこを殴っても君に当たるよね」
【あり、えん。世界を、揺らし、揺るがせる、だと。惑星に等しい強度を有する、妾の世界ぞ。例え星を砕く程の力でさえ、この世界を砕くにはまるで足りんと言うにっ!?】
「ふーん、意外と硬いんだ。地球くらいの大きさなら、適当に殴っても縦に二つに割れるんだけどなぁ」
この現状、その理由は一つ。此処は星の中心核で、彼女は星の化身である精霊王。この異界が彼女の体内に等しい場所ならば、何処を殴っても彼女の体内を殴っているのと同義となる。
無論、生半可な威力ならば意味がない。クロエ自身が語るように、その強度は地球そのものより硬いのだ。一つの世界と言う概念を帯びているこの場所を壊すには、それこそ宇宙の開闢に等しい力が要る。
されど――それは壊すのに必要な火力と言うだけの話。壊さず傷付けるだけならば、星を砕けるだけの威力で十分だ。
【が、ごっ!?】
「まぁ、良いや。一発で壊れないなら、殴り続ければ良いだけだし」
地面を殴る。その一撃に込められたのは、惑星がまるで豆腐のように砕けるだけの破壊力。何度も何度も殴る度、まるで打ち上げられた魚のように苦悶を漏らしてクロエが悶える。
「けど、これも結構楽しいね。まるで悲鳴が打楽器みたいだ。打てば打つだけ音が鳴る。……そう言えば昔、楽器を使って何かをしようと、誰が口にしたんだっけ? ああ、思い出せないなぁ」
地面を殴る。地面を殴る。地面を殴る。奇をてらって空を殴って、何にもない虚空が振動だけで砕ける程に大きく揺れた。振るった拳が当たらずとも、空を切る際に生じる衝撃波だけで惑星が砕ける程の威力があったのだ。
「殴っていれば、きっと何か思い出すかも。そうでなくとも、これはこれで楽しいし。そうだねそうだなそうしよう。君は死ぬまで、叫び続けて。そうすればきっと、僕にも何か」
振るう。振るう。拳を振るう。子どもが楽器を前にして、無茶苦茶に音を鳴らしているかのように。悪竜王は甲高い声で嗤い狂って、知れず涙を流していた。
「はは、ははは、ははははははははははははははははははっっっ!」
最早、その暴虐は止まらない。引き金を引いてしまった女が動きを止めるまで、悪竜王は暴れ狂うことであろう。
◇
そんな光景を、捨て置かれた少女は遠く見る。
「ヒビキ、クロエ様……」
栗毛の少女が見上げる空は、幾つもの亀裂が走り砕け始めている。地平線の端から暗闇が広がっていて、その光景はまるで世界の終わりを思わせた。
「私は……何をやってるの」
そんな世界の終わりを前にして、少女は何をしているか。何もしていない。膝を抱えて尻を落として、その光景を見上げているだけ。何も何一つ出来ていない。
「世界が、終わる。クロエ様が死ねば、大地が死ぬ。誰も彼も、皆死ぬ」
世界の終わりは、最悪の想像ではなく明確な未来の出来事。クロエ・グノーメは星の化身だ。彼女が死ねば、星の四分の一も死に絶える。
星の土が全て死ぬのだ。草木は大地に実ることがなくなり、土は全て命なき砂に変わって建物を支えることも出来なくなる。やがては海に飲まれて、陸地が全て消えるのだ。
そんな状況で、果たしてどれ程の人が生きられる? 生き残ったとしても、恐らくは更なる被害が起きる。四大の一角が消えれば、世界のバランスが狂う。他の三要素にも、無視できぬ影響が起きるだろう。
「でも、それでも良いのかもしれない」
土の精霊王は、死んではならない存在だった。そんな彼女が不退転を決意する状況を作ったのが、此処に居るミュシャと言う名の大罪人。
それが分かって、だと言うのに、彼女は動かなかった。動こうとは、思えなかったのだ。だってもう、彼女には必死になる理由が存在しない。
「皆、死んだ。父さんも母さんもミミも皆、もう私には誰も残っていない」
ある日突然、奪われた。だから失った者を取り戻すのだと、それが出来る力を求めた。救いは何処かにある筈だ。だってそうでなければ、この世は何とバランスが悪いのか。
「許されないことをした。本当は分かっていたんだ、先生に騙されてるって。だって先生、隠してなかったもん」
だが、本当は分かっていた。都合の良い答えなんてない。世界は何処までも理不尽で、多くの人が不幸になるように出来ている。そういうものだと結論付けて、諦めるしかないのだろう。
「だから、これで終わろう。此処で終われば、楽には成れる筈だから」
愛する人達はもう居ない。信頼していた師には騙されていた。世界終焉の引き金を引いて、それでも前を向いて生きられる程に少女は強くない。だから全てを諦めるように、その目を閉じて――
――アンタは、それで良いのか?
空色の風が、彼女に届いた。
「風? 空色の精霊力? 一体、どこから?」
顔を上げて、周囲を見回す。そこには当然、誰も居ない。幻聴かと僅か疑うも、見知らぬ声の幻聴などあり得まいと切り替える。見えない誰かが、其処に居るのだ。
――胸を張れるか、大切だった人たちに? これで良かったと、笑ってアンタは死ねるのか?
「そんな、そんなこと、今更」
そんな誰かが今更に、もう手遅れな言葉を紡ぐ。誰何の声を上げるより前に、ミュシャは言葉を口に出来なくなった。だって胸を張れないと、他でもない己が一番思うから。
――そうじゃないって言うなら、どうかアンタに頼みがある。俺の声は、アイツにはあんまり届かないからさ。
「どうして、ミュシャが」
声の主では変えられない。この先の未来を変える為に伸ばしても、死者の手では届かない。誰よりも愛する彼の少年は、彼の死を信じていないから。その死を否定された死人は、彼の前では存在さえも保てない。
――アンタしかいない。頼むよ。アイツにこれ以上の、罪を背負わせたくはない。世界の滅亡なんて、させたくないんだ。
「……勝手な話ね。本当、勝手な話」
勇者の声は届かない。精霊王は敵意を一身に受けている。故にあの少年を呼び起こせるのは、この場においては取り残された少女だけ。
世界の破滅。その引き金を引いた大罪人の少女だけが、その訪れを遠ざけることが出来るのだ。そんな少女にとっては身勝手で、他の誰にとっても勝手な話。
――悪いね。だが、まだ可能性は残っている。アイツはそういうモノだけど、それでも、それだけじゃないから。今ならまだ、アンタの声はきっと届く。
断言はしてくれないのかと苦笑して、ミュシャは気付けば立ち上がっていた。理由は彼女にも分からない。立ち上がる理由なんて、もう何一つない筈なのに。
「道を拓くくらいはやってよ。あんな神話の大怪獣の前に、生身で行けって言うんだから」
そうして少女は走り出す。うだるような熱気に満ちた砂漠の中を、刻一刻と終わりに向かう世界の中を、破滅の中心と言うべき悪竜王の下へ向かって。
「何やってんだろう、本当に私」
全力で駆けて、それだけで息が上がっている。ミュシャ・ルシャと言う少女は、戦士ではない。亜人であるが故に、人より身体能力が秀でているだけ。
戦い方なんて知らないし、どころか長距離をこの速度で全力疾走するのはこれで人生二回目だ。走り方すら覚束ないのは、学者志望を自称して、運動不足にあるからだろう。
そんな何もかもが足りていない、少女が神話の只中にあるような戦場へと駆ける。誰がどう見ても、単なる自殺行為でしかないこと。けれど少女は、笑っていた。
「でも、どうせ死ぬなら、そうだね。前のめりの方がまだ、胸を張れると思うから」
それはきっと、良い方向の思考じゃない。後ろ向きで、どうしようもない発想で、それでも確かに吹っ切れた。だから少女は、少年の名を此処に呼ぶのだ。
「ヒビキっっ!!」
瞬間、空色の風が吹く。誰かが背を押しているのだと、分かったミュシャは大地を蹴る。前に向かって跳躍する彼女は風に乗り、瞬くような速さで少年の下へ。
悍ましい姿だ。両手両足は鱗に覆われ肥大化し、臀部からは巨大な尾が生えている。両の肩には牙が並んだ口が開いて涎を垂らし、綺麗な顔も鱗に覆われ始めている。けれど、その瞳は、異色であった。
「ミュシャ?」
月の瞳が輝いて、だから少女は握り締めた拳を解いた。正気に戻す為に、頬を張るとか殴るとか、そんなことを考えていた。けれどその目を見た時に、きっと違うと分かったのだ。
(ああ、そうか。この子は唯、怖かったんだ。なら――)
その色に、ミュシャは懐かしいと感じた。もうずっと昔に思える過去に、同じ色の瞳を見たことがある。少年に家族を重ねていたから、その事実に直ぐに気付いた。
怖い夢を見て、どうして良いか分からず泣きじゃくっていた妹。夜中に縋り付いて来た幼子と同じく、悪竜王と呼ばれる怪物は唯々怖がって暴れていただけなのだ。
考えてみれば、当然のことだろう。相手の言葉を殆ど理解していない子どもだ。難しい言葉で捲し立てられ、悪いことをしたと言われたから謝っても許してくれなくて、もう暴れるしか出来なかった。たった、それだけのことなのだ。だから、解決策も簡単なこと。
「もう、いい。もう、良いんだよ。ヒビキ」
握った拳を解いて伸ばす。呆然としている子どもに向かって、伸ばした手で掴んで引き寄せる。その豊満な胸元で、泣き喚く子どもを抱き締めた。
母が我が子にそうするように。あの夜、泣いていた妹にそうしたように。優しく抱き締めて、その頭を撫でて、もう怖がる必要はないんだよと心からの想いを伝えるのだ。
「あ、れ?」
触れた体に感じる温かさと柔らかさ。確かに伝わる想いを感じて、気付けばヒビキの体は戻っていた。異形の手足は失われ、人型に戻った彼は感じる。
少女の熱以外にも、何か触れるものがある。それは抗いようもない程に、安心感を与えてくれるもの。懐かしいのに、思い出せない、そんな風を、彼は感じた。
「この、風。何だろう、懐か、しい」
――馬鹿ヒビキ。全く、どんだけ手間を掛ける心算だよ。
だから、そうだろう。漸くに、声が聞こえた。届いた言葉に、どうしようもなく泣きたくなって、少しだけヒビキは思い出せた。
「キョウ、ちゃん。ああ、そうだ。そう、だった、ね」
言いたいことが、沢山あった。伝えたい想いが、沢山あった。言葉に出来ない程に沢山あって、なのに今は抗えない程に眠いから。
もう大丈夫と抱き締める少女の腕の中で、ヒビキはその目を静かに閉じる。健やかな寝息を立て始めた少年の顔には、優しい笑みが浮かんでいた。
「……寝ちゃった、か。本当、こうしてみると、唯の子どもね」
怖いものがあったから遠ざけようと暴れて、もう大丈夫と言われたら疲れて寝てしまう。その様はスケールが大きいだけで、唯の子どもと大差がない。
幼児退行している少年は強い力を持つだけで、本質的には守られていなければならない子どもに他ならない。それが確かな実感として分かったから、ミュシャは苦笑と共に彼の髪を優しく撫でた。
◇
そうして、暫く。抱き締めた姿勢から、膝枕へと変えて眠る少年を見詰めるミュシャ。穏やかな気持ちになった彼女に、生き延びた女は言葉を掛けた。
【ミュシャ】
「クロエ様」
傷付いた身を再生させて、しかし力を大きく失ったのだろう。最初に見た時の神々しさは既になく、疲労をどうにか隠しているような硬さだけが其処にはあった。
「申し訳、ございませんでした。罰は、何なりと。詫びても許されぬ程に、大罪を犯したこと、理解、しました」
【……戯け。遅いわ】
ヒビキを起こさぬように姿勢を正して、クロエに対して頭を下げる。何だかスッキリとした今ならば、素直に断罪を受け止められる気がしていた。
【そして、思考も鈍い。此処でお前を断ずれば、今度こそ悪竜王は止まるまい。妾では勝てぬ。そう理解させられた故、選べぬ道よ】
対して鼻で笑ったクロエは、その言の陥穽を突く。在りし日の民に報いる為であっても、ミュシャと言う己の末をクロエは処断出来ない。
ヒビキと戦っても勝てない以上、彼を安定させられる少女を切るのは下策であるのだ。そんな理屈に至ったことで安堵を抱き、そんな情に弱い己の醜態に舌打ちする。この女は依然、堅物である。
【口惜しい。歯痒いとも。怒りも憎悪も溢れん程に、怨嗟の言葉は尽きんだろうよ。それ程に、妾は気に食わん。だが――懐かしい、声を聴いた。あの風が、今も残っているのなら】
同時に思う、己を罵倒し否定し奇跡を示した先代勇者。その想いが残った風を浴び、感慨に耽ってしまうのは疲弊が故にであろう。そう断じて、クロエは思考を切り替えた。
【ふん、詰まらぬ事を言った。他に何も為せぬ身で、今更何を言おうが繰り言よ】
そうして、訪れるのは僅かな沈黙。謝罪を受け入れられることなく、何を言って良いのか戸惑うミュシャ。そんな彼女に対し、これで情に厚い女は、その未来を憂う言葉を紡いだ。
【お前の師、ディアナ・プロセルピナの素性には気付いているな】
「邪教の教主。古くより世を荒らす魔王崇拝者たちの、現在の指導者だとは」
己の師の素性。問われたミュシャは固くなりながらも、己の知る知識を語る。偽名さえも使ってはくれなかったから、ミュシャは早期にその素性に気付いてはいたのだ。
中央大陸を中心に、千年以上に渡って暗躍を続ける魔王崇拝者たち。自らの宗派も語らぬ彼らを指して、国教である聖教の対である“邪教”と言う。
その指導者である教主。歴代の指導者達は皆、同じ名を名乗っていた。その名こそミュシャの師である女が口にした、ディアナ・プロセルピナと言う名に他ならない。
【違う。奴は邪教の創始者だ。妾よりも長く生きる、吸血鬼と言う人型の魔物。三大魔獣に比肩する、魔王アカ・マナフの片腕と言うべき存在よ】
そう答えたミュシャに対し、それでは足りぬとクロエは返す。邪教を受け継いだ女ではなく、彼の存在は邪教を作り上げた創始者であると。
ディアナ・プロセルピナ。30万年を生きるクロエよりも年を経た、最古の魔物が一体。この世界で唯一体しか存在しない、吸血鬼と言う魔物の女王。
【奴はその不死性と未来視故に、妾たち精霊王の手すらも摺り抜け続けた人界の寄生虫。恐らくは此度の一件も、全てが奴の企みだろう】
「それは」
吸血鬼とは、始まりの魔王が作り上げた毒の一つ。人間に擬態し人間社会に溶け込み、内側から蚕食する怪異。その発生は火星政府の滅亡時に遡り、彼女こそが修羅が起こした内乱を主導した元凶でもある。
軍神の星を滅ぼした女は、その時点で己と同じ吸血鬼を背後から襲い喰らい尽くした。そうして唯一無二の一体と化した後、好き勝手に生きている怪物だ。その討滅を幾度も精霊王達は計画するも、終ぞ滅ぼすには至らなかった。
単純に強いと言うのもあるが、それ以上に有する性質が厄介なのだ。殺した生き物の数だけ蘇生すると言う不死性と、限定的ながらも未来予知が可能な魔眼。その二つを武器に、己に都合が良いように立ち回る。
そんな凶悪な魔物を魔王との激闘の片手間で相手にすることなど出来ず、魔王を封じた後は満足に動けぬが故に滅ぼそうとしても逃げられ続けた。そんな策謀に秀でた吸血鬼が、ミュシャ達を利用した。結果がこの状況である。
【心せよ。これより先を望むなら、アレはお前たちの前に立ちはだかろう。如何なる形であれ、な】
「…………」
何れ必ず、相対することになるだろう此度の元凶。その存在に対してミュシャは、結論を出すことが出来ずに居る。騙されていたと知っても、それでも情は今もあるのだ。
この為に救われたのだとしても、死に掛けていた所を救われた事実は変わらない。邪教の長と知って尚、愛情を向けてくれていたことも分かっていたから、妄信せずには居られなかった。
そんな少女に、答えなんて出せる筈もない。だから黙り込んでしまった彼女に対し、クロエは深く深く溜息を吐いた。
【地上までは送ってやる。故、疾く去るが良い】
「……クロエ様はこの後、どう為される御積りですか?」
【この地の浄化を試みる。焼石に水を掛ける行為に等しくとも、その数日、数ヶ月が未来を繋ぐかも知れぬからな】
少女の迷いに気付いて、しかしこれ以上は己の領分ではないと。それに早く居なくなって欲しいのも本音だ。ヒビキが此処に居るだけで、破滅の未来は一分一秒と近付いてしまうから。そうとも、女はまだ未来に希望を抱いている。
「……クロエ様は、どうして諦めないのですか?」
素っ気なく帰れと言い力を振るおうとしたクロエに対し、思わずミュシャは問い掛けていた。此処まで傷付いて、もうどうしようもないと分かっていて、それでも足掻き続けている。そんな女の気持ちが、理解出来なかったから。
もう、何もないのだ。辛うじて賭けていた大いなる力は嘘でしかなく、失われた時を取り戻す術はない。
罪を犯して、裁かれても良いとは思えた。だってこれから先を生きていくのだと考えたら、気が重くなる要因しかなかったから。
世界の滅びが訪れる。尊敬する師とも争うことになる。失った家族は戻らない。それでどうして、前を向いて生きようと思えるのか。
だが、それは目の前の女だって変わらない筈なのだ。もう、何も残らない可能性が高い。都合の良い未来を信じることなんて、クロエにも出来ない筈なのだ。
なのに己の祖は、己とは違い前を見詰め続けている。誰かに期待しているのではなくて、奇跡が起こると信じているのではなくて、なのに最後まで足掻こうとしている。その理由が、ミュシャには分からない。
【結局の所、性根だな。座りが悪いのだよ、投げ出すのは。使命だなんだと理由を付けた所で本質は、己が納得出来んと言う単純な物なのだろうさ】
「己が、納得……」
そんな少女の問いに、答えを返す必要なんてなかった。寧ろ語りを続けることは、世界の寿命を縮めること。そうだと分かっていたのに、声を掛けてしまうのは女の性根故にであろう。
【はぁ……老婆心に、教えてやる。魔術は人を救わない。お前の事情を、悪竜王は解決出来ない】
「っ、それは……クロエ様は、そうですよね。ご存知、なのですね」
冷たい声で、救いのない事実を突き付ける。大地で起きた全てを知る女は当然、ミュシャの事情も知っている。知っていて、守ってやることが出来なかった。そんな己の眷属に、冷たく告げる理由は負の感情が故ではない。
【死者の蘇生も、時間の逆行も、悪竜王には可能だろう。彼は人の想像が及ぶ範疇において、真実全能と言うべき存在だ。だがしかし、そも魔術とは悪意に依って成るもの。故、何かを救うために用いようとすれば、其処には必ず歪みが生ずる】
魔術の力の根源は、生命を呪い貶めようとする魔物の力。人の悪意より抽出されたもの。故に悪意と言うフィルターで、魔術の結果は歪んでしまう。
蘇生させた死者は、体内に残った魔力によって堕落し魔物に変わるだろう。それも意識を保ったまま、苦しみながらに救おうとした人を襲う悍ましい化外と成る筈だ。
大きく時間を逆行させた場合、木々の枝のような分岐が生じる。真に救いたいと思う者は救われぬまま、別世界の同一人物が救われる結果になるだろう。本当に救いたい人を救えなかったと言う事実さえ認識出来なくなる。
これはあくまでも一例に過ぎない。だが、実際に起こり得る事象である。長き世を生きたクロエが実際に見たことのある、死者を取り戻そうとした魔術師の成れ果ての一つだ。
【魔術は人を救わない。仮に誰かを助けたとして、その裏でそれ以上の悲劇を必ず引き起こす。卓越した魔術師はその反動さえも制御してみせるものであり、確かに悪竜王の権能はその卓越した技量を再現出来る。……だが、如何なる術者とて、その反動を零には出来ぬ。故、お前の事情が問題となるのだ】
人を救おうとした際の反動の方が大きくなるのは、悪意とはそういうものだから、魔術とはそういうものだからだ。
無論、その負担分を何らかの方法で帳尻合わせすることは可能だ。ヒビキが出会い頭にミュシャを時間回帰で癒したように、歪みが齎すデメリットを無視する方法は存在している。だが、その方法で抑えられる歪みの量には限界があった。
【蘇らせたい死者の数は何人だ? 彼らが死んでから、果たしてどれだけ時間が経った? そうした負担が増える度、生じる歪みは大きくなる。年単位で数十人。それ程の歪み。如何に悪竜王でも制御は出来ん】
ミュシャが取り戻したい人々は、一人や二人では済まない数だ。ミュシャが彼らを失ってから、既に3年は過ぎている。
数秒前に死亡した人間を一人二人、蘇生させる程度ことならば悪竜王は容易く行えるだろう。だが、数十人、数年規模となれば話は別だ。
先にクロエが挙げた方法。死者蘇生も時間回帰も、どちらを使おうとも歪みは非常に大きくなる。結果として、その歪みは救おうとした人に牙を剥くのだ。
【故に、悪竜王には救えない。お前を、ではない。通常、歪みを負うのは救われる側だ。故、お前が救いたかった者が救われないのだ】
「――っ。私、は」
例えば、死者を蘇生させたとする。その死者が笑顔の裏で苦しんでいようと、その生皮の下が悍ましい魔物に変わってしまおうと、知覚出来ないのならば対する者からすれば救いと変わらない。
悪竜王の魔術を以ってすれば、ミュシャからその記憶を奪うことも容易いのだ。故に苦しむ同胞たちの前で、全てを忘れて自分だけが幸せになる。そういう救いも存在している。
だが、それは少女にとっては救いでも、救いたいと願った者らにとっては救いとは断じて言えぬ終わりだろう。
そう暗に告げられて、反発するかのように何かを言おうとしたミュシャ。しかし少女の言葉に被せる形で、クロエは一つの真実を告げた。
【だが、龍宮響希は――ヒビキと呼ばれる少年は、そうと決まった訳ではない】
悪竜王では、ミュシャは救えない。だが表に浮かぶ人格に限って言えば、そうと決まった訳ではないのだと。
【あの幼子は、その体に宿った聖なる剣は、お前の救いたい者を救えるだろう。しかし、それは同時に、お前の救いを意味していない】
「クロエ様? それは、一体?」
ミュシャの問いに、しかしクロエは答えない。これは堅物である彼女なりの線引きだ。少女が罪人である事実は変わらないから、安易に手を伸ばしてはならないと己に課している。
此処まで語ってしまったことも余分だろうと思わなくもないが、懊悩すると言うのならばそれも贖罪の一部であろう。そう己に自己弁護をしながら、精霊王は己が末である少女に告げた。
【努々、忘れるな。次は流されることなく、お前が自身で選ぶのだ。救いたいのか、救われたいのか。心から望む未来が、そのどちらであるのかを】
「救いたいのか、救われたいのか……」
魔術を使えば、ミュシャは救われる。苦しみ続ける家族の真実を知らなければ、それは救いと同義であろう。悪竜王に縋ったならば、知った真実を忘れる事だって容易い筈だ。
もう一つの手段を使うのならば、ミュシャが救われることはない。だがそれは確かに、失われていった者達にとっては紛うことなき救いとなろう。だから、クロエは問うたのだ。救いたいのか、救われたいのか。
【では、もう行け。お前達が居るだけで、人類の未来が失われるのだ。一分一秒でも疾く、失せるが世のためと知るが良い】
言われた言葉について思考を進めるミュシャと眠るヒビキの体が宙に浮く、この地より押し出そうとする力を感じてミュシャは顔を上げた。
「クロエ様!」
何かを言わなければならないと、見詰めた先の女を呼ぶ。気怠げに顔を向けた女を見て、言うべき言葉は見付かった。
「ありがとう、ございました!」
謝罪は言った。他の言葉は違う。ならばきっと、足りていないのは感謝であろう。晴れやかとは言えぬ表情で、それでも笑みを浮かべて消えていく少女たち。その姿を見送る堅物は、鼻を鳴らして口にした。
【ふん。全く、遅いわ】
頬を僅かに緩めて、そんな己に自責して、クロエ・グノーメは動き出す。やるべきことは、ずっと昔から変わらない。これまでも、これからも、未来の為に。一人戦い続けるだけだ。
【精霊王たちの人類評価】
火の精霊王「死ね。殺す」
水の精霊王「怖い。関わりたくない生き物」
風の精霊王「ダメな子が多いよね。その分、凄い子は凄いと思うよ」
土の精霊王「妾が守護らねばならぬ」




