第75話
つい先程まで澄み渡っていた青空が、魔王の影に覆われていく。布に大量の墨汁を零した時のように、見る見る内に色は変わって世界は暗闇の中へと。
星の全てが包まれた今に、天からの光は届かない。暗闇の中で頼りとなるのは、町に並んだ街路灯と水路を流れる青い水が儚く照らす光だけ。世界の終わりと言われても、納得出来る光景が今にある。
「La、La、La――――」
そんなコートフォールの上空から、真っ赤な童女の歌が聞こえる。声に導かれるように誰かが顔を上げたのならば、きっとその目を驚愕で見開いていたことであろう。
其処に在ったのは、赤く、朱く、紅い液体。血のようなそれは、広がり溢れて零れ出す。まるで鍋に入ったトマトスープを、その鍋ごとに引っ繰り返した瞬間を真下から見ればこうなるかと言う光景だった。
「Rain, rain, go away. Come again another day. Daddy wants to play. Rain, rain, go away」
血の、或いはトマトスープの雨が降る。ぽつぽつと、などと言う可愛らしい擬音では済まない。ざーざーと、豪雨のようにと語った所で言葉が足りない。ごうごうと、大滝の真下で聞こえる音こそ相応しい。
「Rain, rain, go away. Come again another day. Mommy wants to play. Rain, rain, go away」
地に注ぎ込まれた滝は、見る見る内に水位を上げる。常識で考えれば、そんなことなど起こりよう筈もないのに。
海に面した都市なのだから、流れ込んだトマトスープが液体ならばそちらに逃げる筈なのだ。なのにまるで固体のように、どんどんどんどん積み重なる。
「Rain, rain, go away. Come again another day. Brother wants to play. Rain, rain, go away」
ならば触れれば影響が出るかと言えば、決してそんなこともない。町一つ包むトマトスープに手や足を浸したとしても、周囲の空気に触れた時のように返って来る感触は何もない。
だからそう、目に見える事象としては周囲の色が変わるだけ。其処に一体何の意味があるのか。其処には或いは何の意味もないのか。どちらにしても可笑しくはない程度には、その下手人は壊れている。
「Rain, rain, go away. Come again another day. Sister wants to play. Rain, rain, go away」
領域の塗り替え。原初の魔王アカ・マナフが惑星全土を自身の影で飲み干したのならば、この童女が行ったのはその領域の一部を自分の絵具で塗り替えたと言う行為。
お気に入りの赤色で、べたりべたりと塗りたくる。筆を振り回して白いキャンパスを埋め尽くすように、刷毛でペンキを壁一面に塗り付けるように、隙間なく執拗に塗り潰して埋め尽くす。
「Rain, rain, go away. Come again another day. Baby wants to play. Rain, rain, go away」
そうして町一つを包み込む赤いスープの世界を作り上げ、その中へと落ちて来る赤い童女。逆さまのまま落ちて来る童女の髪も唇も、周囲の景色と同じく毒々しいまでの赤。
だと言うのに、何故だか目立つ。まるで縁取られているかのように、背景に紛れることもない童女。金に輝く瞳で見下ろして居たのは、第三魔王アリス・キテラ=ドゥルジ・ナス。
「Rain, rain, go away. Come again another day. All the Family wants to play. Rain, rain, go away」
世界を染めた後には、何をするでもなく歌うだけ。そんな挙動も読めない童女の前に、駆け付けて来る二つの影。雷の師弟は此処に、童女をその間合いに捉えていた。
「予想通り、来ましたね」
「ああ、初手はやっぱり、大魔女だ」
共に金髪碧眼。共に軍服と銀に輝く鎧の一部を纏う。生真面目な表情で語る弟子の言葉に、ざんばら髪に無精髭の男は頷き返す。
何時来るかは分からずとも、何時か来るとは分かっていた。故に準備万端不足なしとは言えないが、その胸中に動揺などは微塵もない。
年若く健康的な美しさを感じさせるシャルロットは、その腰に携えた鞘から細身の剣を抜く。右手で抜いたレイピアを敵に向け、半身に構えるのが彼女の戦闘態勢。
その背を庇う位置に立つクリスは、左の腰に吊るしていた刀を鞘ごと右の腰側へと。後天的に鍛えて両利きとなった彼は、居合の構えを維持しながら眼前で歌う童女を睨んだ。
「アリス・キテラは偽りだらけ♪」
そんな二人の姿に気付いたのか、童女はにこにこと楽しそうな笑みを浮かべた顔を向ける。くるりくるりと宙に浮かんだ体を回転させながら、変わらぬ声音で歌い続ける。
「ドゥルジ・ナスは嘘吐き魔女よ♪」
目が合った。そう感じると同時に背筋を走る悪寒。どれ程に愛らしい容姿をしていても、眼前に居るのは狂って壊れた魔王の一人。
大魔女。その異名は決して軽いものではないのだ。封じられていた原初の魔王や悪竜王を除けば、最も強大な魔とは彼女に他ならぬのだから。
「教えてあげるわ。その嘘、本当♪」
向き合う形でピタリと止まり、優雅な所作でカーテシー。挨拶はこれで終わりだからと、ならば次に始まるのは攻撃か。それが常の大魔女だ。
本人にとっては攻撃の意図などない遊びの誘いでしかないのかもしれないが、魔王の遊びなどに付き合える強度の人間など先ず居ないのだから、意図がどうあれその本質は攻撃と何ら変わらない。
英雄とは言え衰えたクリスや、それ以下のシャルロットなど言わずもがな。となれば彼らに出来る最良とは、相手が動き出す前に先手を打つこと。
「それじゃあ、行くよ。シャルちゃん!」
「はい、先生!」
『雷翔一閃!!』
来ると分かっていた。相手に付き合ってやる筋合いもない。となれば端から狙いはこの一点。童女が挨拶代わりの歌を歌っている間に力を高めて、動き出す前に全力で仕掛ける。
構えた細剣に、鞘に入ったままの刀に、雷の力を込めた。そして女は刺突を放ち、男は引き抜いた刀を振り被る。
空を突き、或いは切る刃。その鋼の刃は光と共に延長され、轟音と共に突き抜けた閃光が赤い童女を襲っていた。
◇
彼女達にとっては何が最悪かと言えば、想定外の遭遇戦こそがそれであろう。闇の魔王の復活に合わせて敵が動き出し、初手で大魔女が襲って来る。分かっていたのは、それだけなのだ。
何時なのか。復活した直後なのか、或いは数秒から数分の遅れがあるのか。何処なのか。町を襲って来るとは分かっていても、町の北側か東側か西側か、何処で事が起こるのかも分からない。
故に想定した中での最悪は、大魔女の襲撃にミュシャ達が巻き込まれてディアナを探す所ではなくなると言う状況。それを懸念した彼女らは、事態が動くまでは身を隠していた。
ヒビキが町を去った後、直ぐに近くの軍事施設が内側へと。外からは見られぬ密室の中で、揃って味方からの合図を待つ。先ず真っ先に事態に気付いたのは、当然この女であった。
「始まったな」
壁に背を預け、瞼を閉じて感覚を研ぎ澄ませていた女が呟く。事前に取り決めていた通り、師と妹弟子は初手にて精霊力を大きく消費する大技を使ってくれた。
闇に閉ざされた空の下、赤に染まった町を切り裂く二つの雷光。その眩い輝きは開戦の号砲であると同時に、味方に現状を伝える為の一手でもあったのだ。
圧力すら感じる程に膨大な瘴気。それに満たされた町の中を切り裂く光は、目で見ずともにはっきりと状況を伝えて来る。女傑に僅か遅れること数秒、ミュシャとアンジュもそれを察した。
「貴様らも気付いたか。ならば、我々の為すべきが何かは分かるな。小娘ども」
「そりゃ、あんだけ事前に言われてんだし」
「先生――ディアナ・プロセルピナの捜索、でしょ。んじゃ、目を使うわよ」
目を開いたオードレが目配せと共に告げれば、アンジュは肩を竦めて肯定し、一つ頷いてからミュシャが息を吸う。今度は彼女が瞳を閉じて、己の祈りを形に変えようと――
「戯け」
「あたっ!?」
詠唱を始めた瞬間に、脳天に感じる痛み。加減は当然しているのだろうが、本気ならば少女の頭など粉々に粉砕出来る女の一撃だ。壊さぬように加減した所で、その激痛は筆舌にし難いものとなる。
頭頂部に振り下ろされた手刀に、ミュシャは脳天を両手で抱えて床の上をのたうち回る。傍目で見ながらドン引きしているアンジュを一瞥して黙らせてから、オードレは冷たい声音で言葉を発した。
「貴様のそれは切り札だ。使い道が無数にある現状、他で代替出来ることに使うな阿呆」
「だ、だからって、口で言う前に頭を叩くのは止めてよ? すっごい、視界がぐわんぐわんするんだけど」
転がり回ること数秒。収まって来た痛みに如何にか息を落ち着かせ、恨めしそうにオードレを見上げて苦言を呈す。
そんなミュシャの反応に、女はふんと鼻を鳴らすだけ。取り合っては貰えないと察したミュシャは、深く嘆息してから立ち上がった。
「んで、目を使うなって言うなら、アンタはどうしろって言うの?」
打たれた所に痛みは既にないが、それでも擦りながらにミュシャは問う。目を使わずに他の方法を使えと言われても、直ぐに浮かぶ物はなかった。
そんな猫娘の様子に、打ち所が悪かったかと少し悩みつつもそれを表には出さず、冷たい声音のままにオードレは語る。
「ふん。軟弱者め。仮初とは言え恩師を敵に回して、心理的に追い詰められているのか知らんが、自身の実力を発揮出来んとは情けない。そんな無駄なことに意識を向けるな。今はやるべきことだけを意識し、考えるべきことだけに思考を巡らせろ。貴様の取柄は、その目以外にもあるだろう。狡からい使い方ばかりする頭の回転速度と、汚らわしい亜人らしく発達した五感を此処で使わずして何時使う」
「……え? これ、褒められてる? と言うか、地味に心配されてたりする?」
言葉は厳しく、態度は冷たい。だが少し考えると言い回しが攻撃的なだけで、内容自体は情に溢れているようにも思えて来る。
そんなオードレの特有な発言に、内容を理解したミュシャは思わず零してしまう。近付いて来たアンジュが、小声で彼女に囁いた。
「こういう人なんだよ、ドー姉って。素直になれないと言うか、言葉選びがちょっとって言うか」
「何を小声で言い合っているかっ! 状況を弁え、直ぐに動かんか小娘どもっ!!」
『は、はいっ!』
こそこそとした態度が気に入らないのか、それとも話の内容が恥ずかしいのか。高圧的に告げるオードレの言葉に、ミュシャもアンジュも直ぐ様背筋を正す。
両者共に、特にミュシャには指示に従わなければならない筋合いもないのだが、有無を言わせぬ圧力と言うものが女傑の言葉にはあったのだ。
「んで、ミュシャ。何か思い付くか?」
「うん。先生の性格を考えて、居場所を探せば良いって話でしょ」
そして意識を切り替える。オードレの言葉自体に異論はない。ミュシャの心威を使える状態にしておくと言うのは、確かに現状では最善と言える選択ではあったから。
そうとも、ミュシャならば心威を使わずとも師の動きが読める筈なのだ。その事実に彼女自身が気付けなかったのは、オードレの言う通り恩師に対し今も思う所があるからだろう。
全ての元凶ではある。だが、恩人でもあった。それがマッチポンプでしかなくて、愛玩動物程度にしか思われていなくとも、共に過ごした時間までは否定出来ない。
そんな迷いから、今は目を逸らす。相手の動きを読もうと過去のやり取りを思い出せば思い出す程に、目を逸らせなくなる程に肥大化していく感情。それでも、今だけは目を瞑る。
「あの人の事だから、遠くには居ない。リカバリーが何時でも出来る立ち位置で、でも逃げ出そうと思えば逃げるのも簡単で、それで居て相手の意識の盲点を突きながらも、高見の見物だって出来る場所に居る」
ディアナ・プロセルピナと言う女の性格。共に過ごした中で知った彼女の好みや嫌いなこと。本人から教わったことから、彼女の些細な癖まで思い浮かべて推理する。
情報は十分。故に結論に至るまで、そう長い時間は掛からなかった。候補は数ヶ所。ミュシャの知るディアナであれば、その何処かには必ず居る。其処までは、直ぐに絞ることが出来たから。
「候補は幾つか浮かぶけど――そっちは鼻を使って順に潰す。あの人の匂いは覚えているもの。近くに居れば、絶対に気付ける。だから、可能性が高い所から行くわよ!」
ならば後は、亜人の五感を頼りに一つ一つと潰していくのみ。近付けば分かると言う、確信があった。だからと外へと駆け出すミュシャに、アンジュとオードレは続いた。
場所も告げずに先導する猫人に、続く二人が疑問を零すこともない。どちらも信頼しているのだろう。人柄か能力か両方か、信じる物は違えど問題ないと断じているのは同様だった。
「え? 此処って」
「……成程、盲点か」
そんな二人が、辿り着いた場所で一瞬硬直する。嘘だろうと戸惑うアンジュに、舐められた物だと舌打ちをするオードレ。両者共に無意識に、此処だけはあり得ないと除外していたのだから。
「うん。こちらの拠点に、敵の首魁が隠れている筈がない。普通はそう思う。だからこそ先生は、この庁舎に潜んでいる可能性が高い」
其処は北方領土の政庁として使われている古い城。昨日の夜も寝泊りし、朝まで思い思いに過ごしていた味方の拠点。今は殆どの兵が出払って、守るべき民間人と護衛が少数居るだけの場所。
自分達が拠点と使っている建物。常識で考えれば、一番安全だと思ってしまう場所だ。
だからこそ、此処が一番ディアナ・プロセルピナが潜んでいる可能性が高い。そうと察したミュシャは故に、城の中へと一歩を踏み出した。
「地下はない。いざと言う時に逃げ辛いし、戦場の把握も難しくなるから」
「室内も避難所が近いから見付かり易いし、地下と同じリスクがあるから多分ないよな。それに、他者を見下せる場所って考えると」
「ふん。馬鹿と煙は何とやら、だな。愚かな邪教共の首魁としては、らしい場所に居座るではないか」
城内に入り込んで、護衛に残った怪我人達に警戒しろと声を掛けて、走り抜けて行く少女達の足取りに迷いはない。既に向かうべき場所は、彼女の中ではっきりとしていた。
走りながらその理屈の一端をミュシャが告げれば、続くアンジュが先の発言と合わせて推理を進める。金糸の白百合が頭を悩ませている合間にも、最後尾を行くオードレもまたミュシャと同じ結論に至っていた。即ち、上だと。
「屋上の扉。この先に、ディアナ・プロセルピナが」
「あくまでも、その可能性が高いってだけ――だったんだけどね。これだけ近付けば、嫌でも分かるわ。先生の香水は、特徴的な匂いだもの」
城の尖塔。見張り台も兼ねたその場所に続く階段を駆け上がり、扉を前に一瞬の逡巡。恩師が好んだ香水の特徴的な香りが、ミュシャに事実を確信させる。
最早、対決は避けられない。その事実を前に一度だけ、息を大きく吸い込み吐き出してから前を向く。その足を大きく引くと、蝶番が壊れる威力で扉を蹴り飛ばした。
「先日振りね、先生。その香水も口紅も、正直ずっと趣味が悪いって思ってたにゃん!」
「あら、酷い言い草。でも、来ると思っていたわよ。ミュシャ」
暗い暗い闇の下、赤い赤い世界を背に、闇夜のドレスを纏った女が居た。見張り台と言うには広い開けた屋上で、何処から持ち込んだのかも分からぬ椅子に腰を掛けて居る。
アンティーク調の椅子と机。手にしていた陶器のティーカップを机の上に置くと、ゆっくりと立ち上がって振り向いて来る。毒々しいまでに真っ赤なリップが、ゆっくりと弧を描いた。
「ディアナ・プロセルピナっ!」
扉を蹴破り啖呵を切ったは良いが、平然としたその姿を視認して硬直する。迷いが故にミュシャがそうなったとすれば、入れ替わるように前へと踏み出したアンジュの心に迷いはない。
背負った大剣を引き抜いて、雷を纏って切り掛かる。そんな少女にとって、邪教の教主は明白な怨敵だ。良心の呵責など起きる筈もなく、こいつさえ居なければと言う憎悪を以って切り捨てんとする。
「無粋よ、ロスの娘。まるで肉食の獣を前に、怯えて噛み付くことしか出来ない小動物のよう。争う前に問答の一つは行う余裕を見せないと、底の浅さが知れてしまうわ」
「ちっ!」
しかし雷を纏った一撃は、女の振るう手の前に出現した赤い盾を超えられない。まるで血で作ったかのように赤い盾は、脈打ちながら衝撃破を周囲に放つ。
その圧に吹き飛ばされて、アンジュは入り口近くに着地する。大した傷は受けていないが、今の交差でも理解はした。やはり相手の方が実力は上で、そう簡単には行かないと。
「余り気負うなよ、アンジュビュルジュ。奴はそういう輩の足元を掬うことを得意とする屑だ」
「分かってるよ、ドー姉。敵討ちだってブチ切れたいけど、今は抑えるべきだって分かってる」
「なら良い。足を掬われん程度の冷静さを保てるならば、後はお前の好きにしろ。奴が気に喰わんと言うのなら、その怒りを精々派手にぶつけてやれ」
「応!」
内心で僅か戦慄していたアンジュの肩を、後方からオードレが軽く叩く。そうして彼女が口にしたのは、静止の言葉ではなく真逆。少女を焚き付けるような発言だった。
その言葉も意外であれば、その存在も予想外であったのか。邪教の女は呆れたように息を吐いてから、腕を組んで視線を向ける。この場で一、二を争う両者の視線が交わった。
「けど、一つ予想外。十三使徒がこちらに来るとは、正直思ってなかったわ。亜人嫌いの聖教徒なら、目的の為に妥協は出来ても、率先しての協力は出来ないと判断していたのだけど」
「存外、頭が回らない女だな。使える奴は使えば良い。亜人も人間も、其処に大きな違いはないよ。好悪も侮蔑も、戦場では無用の物。有事に際しては、切り分けて考えるべきだろう」
「あら、それはそれは、敬虔な聖教徒らしくないお言葉。亜人を浄化せよと言う神の教えに逆らうだなんて、枢機卿とやらも随分とまあ変わったものね。金や力で立場を得る者が増えた結果と言うのなら、世の無常を嘆くべきかしら?」
「はっ、思ってもいないことを良く囀る。貴様の虚飾に満ちたその語り、付き合う程の価値もないが、敢えて一つだけ訂正してやろう。私は敬虔な聖教徒だ。貴様のように、自分で作った教義すら守らん屑とは何もかもが違う。教えに従い、亜人は全て浄化する。無論、この小娘も例外ではない。使える内は、便利に使ってやると言うだけの話さ」
互いに微笑を浮かべながらも、交わす言葉は丁々発止。声を荒立ててはいないだけで、多分に悪意を混ぜた言い合いをしながら瞳の温度を下げていく。
両者共に、眼前の相手を最大級に警戒している。単純な実力ではオードレが勝るが、悪質さではディアナに軍配が上がる。争い合えば、どちらが先に倒れてもおかしくはないのだ。
「……さりげなく、殺害宣言されてない。私」
「大丈夫。ドー姉のことだから、いつか浄化するけどいつとは言ってないって感じのニュアンスだって」
「囀るな、小娘共」
最後尾で両者の発言を聞いていたミュシャが「あれ、これ私も殺される?」と思わず零せば、敵を睨み剣を構えつつも律儀にアンジュが返す。
そんな脱力しそうになるやり取りにオードレが僅かに青筋を立て、ディアナが心底愉快だとクスクスと嗤う。一瞬緩んだ空気を締め直す為、オードレは息を吐いてから敵を睨んだ。
「しかし、それにしても嫌に素直だな。貴様が逃げも隠れもせんとは。何だ? 降伏でもする気か? 私は許さんぞ」
「いいえ、貴女の行動は予想外ではあったけど、想定以上ではないもの。降参するには物足りないわね」
予想外と語る割には、余裕を崩さないその姿。揶揄も含めた言葉をオードレが告げれば、優雅を気取るような仕草でディアナは首を横に振る。
そうして、ドレスの裾を手で持ち一回転。女の影が女の形と異なる形状に歪んで、お気に入りのティーセットはその中へと。代わりとばかりに現れたのは、死人のような肌と目をした男であった。
「そう言う訳だ。この性悪を殺せる最大のチャンスと思ったのだろうが、お互いに残念だったな。十三使徒」
「……夢幻のアダムか」
現れた男は分かり易い程に落胆の色が籠った声で告げてから、ドレスの女を背に庇うように立つ。死んだ魚のように感情の籠らぬ瞳で、眼前に立つオードレ・ダグラスを見上げるように見下した。
「ドー姉」
無幻のアダム。現れた邪教の幹部が姿に、案ずるような声をアンジュは零してしまう。思わずと少女が横目に見たのは、忌々しいと目も向けて来ない女の顔にある傷跡。
治療の神聖術や精霊術でも治せなかったその顔の刀傷は、オードレが初陣の日に眼前の男に付けられた呪詛だ。今も痛むその傷は、女であれば下手人を恨まずに居られる物ではないだろう。
「ふん。案ずるな、アンジュビュルジュ。生意気だぞ、貴様」
故に表に出てしまった妹弟子の気遣いに、苦笑を漏らしてから女は告げる。案ずるなと口にしながらも、その内心は荒れていた。眼前の男を恨んでいないと言えば嘘になる。
だが、女はそれを表には出さない。己自身に対しては、何処までも冷酷になれる女だ。故に女としての恨みなど、惰弱に過ぎると己自身に一喝して終わらせる。その程度のことでしかない。
「君の顔には、見覚えがある。何か、僕に言うべきことはあるか?」
次いで口を開いたアダムの声には、申し訳なさにも似た情が籠っていた。女の顔を傷付けたのは本意ではないと、詫びろと言うのなら幾らでも価値のない頭を下げようと。
そんな神経を逆撫でるような言葉に、しかし悪意はないのだろう。悪意を以って彼と対面させたのはディアナの意向で、アダム自身にそんな意図はない。だが結果として、最大級の煽りになっている。
「貴様も貴様だ。何を増長している? 私が貴様に、言うべきことだと? そんなものは何もない。何一つ、な」
だから当然、女の内には怒りがあった。ふざけるなと叫びたくなる想いもあった。しかし、それら全てを下らぬと理性で断ずる。
唯叫び、唯恨み、怒りを吐き出す姿に女が良しとする色はない。美しく、華々しく、誇り高くあるべきなのだ。ならばどうして、こんな負け犬に拘る理由があるか。
「私の傷は、私のものだ! これは私の未熟の証明で、私が歩いた道の証! 貴様如きが立ち入る余地などなく、故に貴様は私の仇敵などでもない! 思い上がるな、邪教に堕ちた負け犬風情がっ!」
「……そうか」
己の情も、敵の策も、その言葉で切って捨てた。痛む心など知らないと雄々しく叫ぶ姿の内実は、きっと単なる強がりに過ぎぬのだろう。
それでも貫き通せば、それこそが真実となる。そうと知るが故に、そうと信じるが故に、揺るがぬと定めた女の姿に男はその瞳を細める。
男にとっては、純粋に眩しかった。そうと生きられなかった男は女が言うように、唯の負け犬にしか過ぎないのだから。
「マシな亜人の猫娘! 貴様は下がって見てるが良い! 案ずることはない。私の後ろに、奴らの牙は一切通さん!」
「元から心配なんてしてないにゃん。あと、名前で呼びなさいよね」
「ふん、貴様の名など、覚えていないなぁ。呼ばれたくば、私の記憶に残る程度の働きをしてからまた名乗れ」
焦がれるような瞳で敵を見たまま、動かぬ死人のような夢幻のアダム。策を一つ潰されて、更には傍らの男の反応も気に喰わぬのか、あからさまに詰まらなそうな顔をする教主ディアナ。
そんな両者を前にして、怒声にも似た声音でオードレが指示を出す。出入口近くで留まっていたミュシャを庇うように射線を封じる位置に立つと、戸惑っていたアンジュに向かって言葉を投げた。
「アンジュビュルジュ! お前が前に出ろ、合わせてやる!」
「え、でも、ドー姉が前に出た方が」
「ふん。貴様も貴様で、何を思い上がっている! 貴様のような未熟者が、私の動きに合わせられる訳がなかろう!」
己の恨みを押し殺し、為すべきを為す。そう宣言した姉弟子と、恨みを消し切れない自身の差。それに戸惑いながら、最善策は姉弟子を主体とすることではと。
何処か弱々しさすら垣間見える少女の動揺に、オードレは下らないと鼻を鳴らす。そうしてから語るのは、不器用だが情に満ちた言葉。己には何処までも冷酷に成れても、身内には何処までも情が深いのが彼女であった。
「フォローはしてやる。思いっ切りにやって来い。そうしたいのだろう? お前は」
「ドー姉。……うん」
己のように、恨みを捨てろとは言わない。己のように、怒りを抑えろとも言わない。その在り方が騎士としては間違っているのだとしても、人としては間違ってなど居ないのだから。
その道を選んだことで隙を晒してしまうと言うのなら、その道を選ばなかった己がその隙を塞げば良い。皆までは言わずとも、その想いは伝わったから。姉に甘える妹は、うんと一度だけ頷いた。
「ディアナ・プロセルピナ。アンタが前に語った通り、ロス家の滅亡は人の業によるものなんだろう」
頷いて、俯いて、それから剣を手に取り構える。姉弟子のように格好良くは在れないけれど、それでも前を向いて先へと進む。その為に、打ち倒すべき敵を見た。
「けど、切っ掛けが人の欲とか悪意だったとしても、それを煽り利用した元凶はお前だ。幾つもの悲劇を、幾人もの犠牲を、今も作り続けている諸悪の根源こそがお前だっ!」
ロス家の壊滅。聖王国の混乱。それら全ての切っ掛けが人の欲だとして、しかしそれを煽り利用した者こそがディアナ・プロセルピナ。
アンジュの家族が死ぬ原因を作り上げ、彼女以外の多くの人が悲しみ苦しむ今を作り上げ、更にはそれを嘲笑いながら利用しようとする諸悪の根源。
「だから?」
「だから私は、貴女を此処に倒す! もう誰かが泣かないように、もう私が泣かない為に、此処に決着を付けるのよ!!」
その事実を指摘され、だからどうしたと嘯く罪悪感一つない女。恐らくはこの世で最も度し難く醜悪な邪悪を前にして、アンジュビュルジュは啖呵を切る。
「覚悟しなさい、邪教の教主! ここが貴女の終焉だっ!!」
「ふ、ふふふ、あはははははははははっ!」
これ以上の被害を出さぬ為に、そして己が前に進む為に、此処で怨敵を打ち倒す。怒りと憎悪を混ぜつつも、それに振り回されることなく告げたアンジュ。
その姿を見て、耐えられないと腹を抱えて、天を仰いで嗤い狂う。そんな悪意に満ちた笑みを響かせるディアナの瞳は、しかし一切笑っていない。冷たく座ったその瞳は、心底から忌々しいと悪意と侮蔑と嫌悪と憤怒に満ちた色をしていた。
「嗤わせるわね、ロスの小娘。貴女如きが、私の終焉? 私を滅ぼす? 不可能よ、そんなこと」
「そう、ね。私一人じゃ無理だと思う。だけど、私は一人で戦う訳じゃない! 貴女の終焉は、私だけじゃなく私達っ!」
故に嗤いながら天を仰いでいた女は振り向くと、笑みを止めた直後とは思えぬ形相で啖呵を切った少女を睨む。
思わず臆してしまいそうになる様相を前にして、それでもと言葉を紡いでみせるアンジュ。その後方から戦場を睨む女傑は、しかし口元に微笑を浮かべてもいた。
「ふん。未熟者にしては、良い啖呵だ」
「……させると思うか?」
「出来ぬと思うか? 負け犬ども」
微笑むオードレにとっては、その形相こそが負け犬の証だ。格下が噛み付いて来た所で余裕を以って返せば良いのに、それを示せぬ時点で底が知れたと。
ディアナの醜態を見下して、アンジュの成長に微笑んで、ミュシャを庇える位置のまま、腰元より氷のような剣を抜く。片手に構えたその姿に、アダムもディアナを守るように武器を構えた。
戦いの火蓋が切られるのは間近。血の上った頭を深い呼吸で冷やすディアナに、迷い続けていたミュシャが声を掛ける。答えを出した二人に続くように、彼女もまた答えを出したから。
「先生」
「ミュシャ。貴女も私を殺す気かしら?」
「……はい。貴女はもう、生きているべきじゃない。滅ぼさなきゃいけない、害悪だっ!」
恩はある。情はある。だが、死ぬべきだ。そう語るミュシャの言葉に、ディアナは何も返さなかった。
先と同じく怒りが度を越したのか、或いは師として成長を喜ぶような情でもあったのか。唯、何も返さなかったのだ。
「もう一度言うわ! 覚悟しなさい、邪教の教主ディアナ・プロセルピナ! 私達が、貴女を終わらせるっ!!」
誰もが言葉を止めた尖塔で、口を開いたアンジュの言葉は開戦の号砲。無言の死人と教主に向かって、雷を纏った少女は疾走した。
邪教集団は敗北者じゃけぇ。所詮は時代の負け犬よ。




