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第93話 アリハラ(蟻ハラスメント)

「それ、アリハラっすよ」


そう言われたのは、ただ道ばたで蟻を避けずに歩いただけだった。


振り返ると、同僚の野村が眉をひそめていた。

まるで誰かの葬式を踏み荒らしたような顔だ。


「……は?」


「いや、今、列から外れたワーカ止めてますよね?最近厳しいっすよ。“進行妨害”で通報されるかも」


彼は真顔だった。冗談の雰囲気ではない。

「迷惑防止条例(第18改定)・第26条」

──『蟻の正常な営巣・進行・採餌活動を妨害する行為を禁止する』


数年前から始まった“蟻との共存社会”は、いよいよ政府は本気を出し始めた。

企業も「蟻に優しい遊歩設計」の新製品を売り出す。


自治体の補助金制度すら、「アリ・ホスピタリティ実践店」の認定が必須になった。


もちろん学校でも道徳の時間は“蟻中心”。

子どもたちは、巣の周りではしゃがないよう厳しく教えられて育っている。


「すみません、あの……」


駅でスマホを耳に当てた瞬間、後ろから肩を叩かれた。

黒いベストを着た市の巡回員だった。


「ここ、第二営巣区域の50cm圏内です。通話はご遠慮いただけますか?」


「……あの、蟻に聞かれて困るような話じゃ……」


「フェロモン波を乱す可能性があります」


淡々とした口調に、僕はすみませんとだけ呟くしかなかった。

通話を切ると、足元を一匹の蟻が通り過ぎていく。


まるで、自分が負けたことを告げに来たようだった。


職場では“アリハラスメント講習”が義務化された。

上司が真剣な顔で言う。


「いいか、フェロモン干渉は“言葉の暴力”と一緒なんだよ。

最近は“無意識アリハラ”も問題になってる。アリを見てため息つくやつとか、アリに舌打ちするとか。全部、通報対象だ」


講習動画には実際の事例が紹介される。

・公園で蟻を避けずに歩いた結果、SNSで炎上

・巣の近くで「あいつらキモい」と発言して謝罪会見

・子どもがアリコロニーに砂をかけ、両親ともども社会的死


笑えない。

誰も笑っていなかった。


ある日、古い友人の結婚式に出た。


新郎新婦の名前より先に紹介されたのは、「媒酌蟻」の個体番号だった。

列席者の間で配られた祝儀袋には、全員分のフェロモンスタンプが押されていた。


「これ、押さないと後から“蟻差別”って言われるからな」


酔った上司が苦笑いして言う。


僕も笑った。

笑っている上司の目の奥が、少し潤んでいるような気がした。



その夜、帰り道。


道路の端で、若者が一人、靴を脱いで震えてしゃがみ込んでいた。

足元に、何かを置いている。


近づいて見ると、それは踏まれた蟻の死体だった。


彼はそっと、花を添えていた。


「すみません、ちゃんと出頭します。しっかり罪を、背負いますから」

……」


僕は何も言えなかった。


遠くで巡回員が歩いてくる音がした。

彼は立ち上がると、まっすぐそれを見つめた。

そして巡回員に伝え、連れられていく。


翌朝、その路地にはフェロモン警告標識が立てられた。


「ここでは、蟻の尊厳が侵されました」


誰も足を踏み入れなくなった。

けれど、蟻だけが整然と、何も変わらずその道を進み続けていた。


まるで、何も感じていないかのように。

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