第92話 井戸端会蟻
朝の八時。ごみ出しの時間を過ぎても、ごみステーションの前には誰ひとりいない。が、少し離れた分譲住宅地の一角に、角柱の根元に沿うように三人の女たちが立っている。
カゴに入ったペットボトル、指定袋の可燃ごみ。それらを手にしたまま、彼女たちはまるで“会合”でも始めるかのように、同じ一点を見つめていた。
それは――地面に開いた、小さな蟻の出入り口だった。
主婦A(50代後半・小柄でよくしゃべる)
「あそこの奥さん、知らない? この間、新しく引っ越してきた人」
主婦B(50代前半・気難しそうな顔)
「個体番号で言うと……ええと、R-34827-2ね。うちの近くの第八コロニー出身らしいわよ」
主婦C(40代後半・ぽっちゃり気味で噂好き)
「あそこ、第八? まぁ……うちの息子が昔、あそこのワーカー蟻に足引っかかれたのよ。あの辺、ちょっとフェロモン強めなのよね」
主婦A
「そうそう、それにしても最近の子たちって、もうみんな将来の夢が“兵隊蟻”とか言うでしょ? うちの孫なんて、“自分もいつかコロニーの一部になりたい”って、目をキラキラさせて言うのよ……」
主婦B
「うちのもよ。この前、蟻語教室通わせろって泣かれて……月謝、高いのよね、あれ」
主婦C
「でも仕方ないわよね、今や“蟻に嫌われたら進学できない”って言われてる時代だし。うちの向かいの中村さんなんて、R-34830-6に気に入られて引っ越し代免除されたって噂よ」
その間にも、足元では無数の黒い点が、整然と列を成してごみステーションへ向かっていた。
ラベルの剥がれたペットボトル、汁の漏れたトレー、破れた靴下――
それらはすべて、蟻たちが「資源」として収集していた。
やがて一匹の蟻が、主婦Aの靴の上に登ってきた。ゆっくりと触角を動かし、何かを“確認”するように。
「……あら、どうしたの?登って来たわ。私のこと、覚えてるのかしらね」
「あなた、最近フェロモンケア始めたって言ってたからじゃない。きっと効いてるのよ」
主婦Bが笑う。
「でもまあ、旦那より蟻に好かれる方が、今の時代、安心できるわよね」
「ほんとそれよ。だって――」
主婦Cが言いかけて、笑い合う。
道の向こう側にある平屋の前、青いブルーシートが掛けられ、警告板が立てられていた。
『この区域は現在、蟻のため自治が停止されています。異常生物の駆除が完了するまで立ち入り禁止。』
「……あそこの奥さん、蟻を踏んづけたって聞いたけど、本当かしら」
主婦Aが声を潜める。
「そうだとしたら、もう終わりね。最近じゃ“物件化”されるケースもあるって……」
三人は一瞬だけ黙った。
だが数秒後にはまた声が戻る。ごく普通に、明るく、どこか滑稽なほどに日常的なトーンで。
「ねぇ、それよりさ、明日、公民館で“コロニーとのより良い関係づくり”の講習あるらしいわよ。行く?」
「行く行く。抽選で“蟻推しステッカー”もらえるんですって」
「わたし、“個体番号R-34827-2の写真入りマグネット”狙ってるの。」
「えー、私も欲しい〜」
笑い声が響いた。
その足元では、蟻たちが静かに、だが確実に“情報”収集していた。
触角と、フェロモンと、隊列と、無音の規律を通じて。
その中心になっているのが人間たちであることを、誰も疑っていなかった。
ただ、どれも聞くに値するほどたいした情報ではなかった…。




