第87話 蟻歴史の授業
教室の黒板に、びっしりと数字と記号が並ぶ。
「今日は、蟻共生社会における歴史的英雄を学びます。個体番号で記録されているので、暗記が重要です。テストに出ますから」
先生はそう告げ、黒板に大きくこう書いた。
#A-174392 「アルファ女王」
#B-273948 「防衛隊長カリックス」
#C-485729 「偵察兵ゼロセブン」
#D-578349 「フェロモン使いシグナルX」
……
生徒のタケシは眉をひそめた。
「先生…これ全部、番号と名前がセットになってるけど、名前が覚えづらいんです。『ゼロセブン』とか『シグナルX』とか…」
隣の友人もつぶやく。
「名前より、数字の方が多いし、覚えられる気がしないよ…」
授業は続く。
「A-174392は共生の礎を築いた女王アリ。彼女の指揮で全蟻族の統合が始まった」
タケシはノートに書き写すも、頭の中ではこんな思考がグルグルする。
「これ、英雄なの? ただの記号の羅列じゃないか…」
休み時間、タケシは図書館で「蟻の歴史年表」を開く。
そこには、名前ではなく、長い番号がずらりと並び、またそこから長い説明が続いている。
「この番号でみんな呼んでるのって…なんか味気ないな」
隣の席に座った女子生徒ユミが言う。
「でもね、数字の中にちゃんと意味があるのよ。統合年、地域コード、役割、全部組み込まれてるんだって、蟻の歴史は長いんだから。」
タケシはため息をついた。
「そうだとしても、やっぱりわかんないよ。もっと物語や伝説みたいに語り継いで欲しいよな。」
彼の頭の中に、かつて人間がしていたような「英雄伝説」のようなイメージが浮かぶ。
炎を背に叫ぶ勇者、仲間と絆を深めるドラマ、勝利の歓声——そういうのが欲しい。
だが今の社会では、すべてが番号で管理され、データベースに数字で刻まれていくだけだった。
その時、教室のスピーカーから声が響く。
「次の授業は『フェロモン言語の起源』です。B教室に移動してください」
タケシたちは教科書と“嗅覚強調マスク”を持って立ち上がる。
教室のドアを開けると、わずかに甘く、土のようなにおいが鼻をついた。
フェロモン室は、冷暗な環境に保たれた特別教室だった。
壁には古代蟻族の“文字”――ではなく、フェロモンの軌跡が染み込んだパネルが展示されている。
においを感じることでしか意味が伝わらない“言語”。人間の文字のような抽象性はなく、すべてが“嗅覚”で成立していた。
教師が黒板の代わりに“噴霧装置”を使って言った。
「このフェロモンは、紀元前285年の戦争記録です。“#FF-2B:同胞の喪失に伴う悲嘆”という意味を含みます。さあ、感じてください」
ぶわっと拡がる透明な香り。
タケシは思わずむせた。
「くっ…悲しいっていうより、臭いって感じるんだけど……」
「違うのよ」とユミがささやく。「フェロモンは“言葉”じゃなく、“感情”なの。伝えるんじゃなく、染み込ませるのよ」
教師は続ける。
「当時の蟻族は、争いの中で“書く”より先に、“においで記憶を残す”文化を持ちました。
戦いの後には、“喪失のフェロモン”を巣全体に拡散させ、それが歴史になったのです」
「じゃあ、これって……書き残せない歴史ってこと?」
「ええ。ですからこの授業は、“読む”のではなく、“感じる”授業なのです」
ふと後ろの棚を見ると、蟻たちのフェロモンを記録した装置が並んでいる。
それぞれに「戦勝」「失恋」「旅立ち」「帰還」などの感情タグが付され、ボトルの中で保存されている。
タケシは呟いた。
「歴史を“嗅覚”で覚えるなんて……テスト、どうやってやるんだ?」
「“匂い当て”だってさ。6種類の中から正解フェロモンを選ぶんだってさ」
「無理だろそれ……全部“湿った木の皮”にしか感じないんだけど」
その時、教師が最後に告げた。
「最終試験は、“英雄#A-174392”の戦没時に散布された“絶望”のフェロモンを正しく感じ取ることです。
これは蟻と人間が正式に共生を決めた日の“歴史的感情”です。心して嗅ぎなさい。そして、ちゃんと覚えておくのよ。」
噴霧装置から、色のない感情がゆっくりと漂う。
タケシは鼻の奥に焼きつくような苦みと、なぜか胸を刺すような懐かしさを覚えた。
「……これが、記録じゃなくて、歴史そのものか」
ユミがぽつりと呟く。
「人間の言葉じゃ、足りないんだよ。だから蟻たちは“匂い”で心を渡したのかもね」
タケシは目を閉じて、小さな胸の中で願った。
「どうか、歴史も、もっと心に響くものになりますように…」
「“英雄#A-174392”って誰だったっけ?」




