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第86話 ステップ・ウィズ・アント ~蟻上流舞踏会~

社交ダンスは、もはや「芸術」ではなかった。

この国においては──義務であり、信仰であり、そして一歩間違えば罪だった。


年に一度行われる、厳重な審査を経た市民と蟻たちが、かの歴史ある「蟻舞踏ホール」に集められる。

そこでは、一匹の蟻と一人の人間がペアを組み、共にダンスを踊る。


注意が途切れて視線を外せば──足を運んだ場所に小さな命を踏みおとしてしまう恐れがある。


「それでは、第六組、入場──」


司会の声に、緊張した面持ちの参加者が歩み出る。

彼の背筋は曲がり、膝を異様に折り曲げ、足先だけをすりすりと滑らせるように動かしている。


観客はざわつく。


「……あのフォーム、“蟻避けスタイル”ね」

「足裏と接地面の面積を極小にする、ペアの蟻を踏まないよう最大限配慮する最近流行の技だそうよ。」


彼の足元には、小さな一匹の蟻。

リードは人間が取る──はずだった。だが実際には、蟻の動きに合わせて、人間が踏まないように滑稽にねじれ、大げさに跳ね、わざとらしく倒れ、また立ち上がる。


「芸術的……」

「いや、もはや痛々しい」


音楽が鳴る。優雅な三拍子──

だが、その裏にある緊張感は、もはや拷問にも似ていた。


ぷちゅっ。

足元で音がした。


次の瞬間、会場に悲鳴が走る。


「第五組、停止ッ!」


警備員が駆け寄る。

中年の男性が蒼白になって立ち尽くす。その足元には、一匹の蟻が潰れ、赤いランプが点滅していた。


――踏んだ。たった一歩のミスで。


「蟻殺傷、現行犯。連行します」


彼は声もなく連れていかれた。

その姿を見た舞踏者たちは、さらに必要以上に膝を折り、腰を低く構えて踏まないようすり足で踊り出す。


──そう、これは美の祭典などではない。命懸けの祭典なのだ。




控室のモニターを見ながら、若き女性ダンサー・リナは深く息を吸った。


「私の相手は、“センシティブ種”だからね」

「感情フェロモンに反応しやすい蟻だから大丈夫よ」


肩の蟻にそっと声をかける。

「ねえ、ちゃんと一緒に踊ろうね」


……蟻は何も答えない。


だがリナは知っていた。

ここでただ一度でも失敗すれば、罰せられるのは“人間だけ”だということを。


彼女は、足の指先のすべてに全神経を集中させた。

そして、ステップを踏み出す。


――一歩、また一歩。


観客たちはその姿に見惚れた。

リナの足運びは、まるで地雷原を踏み抜かぬような精緻さ。

優雅さを保ちながら、どこまでも、恐怖に満ちていた。



クライマックス。

舞踏会最後の一組。

“ダンス女王”アリーヌ(蟻)と、人間の新進気鋭デザイナー・藤原が登場する。


照明が落ち、白熱灯がランウェイのように二人を照らす。

藤原は踊らない。ただ、ひざまずき、蟻の歩みに道を譲り、決して藤原は動かない。


観客たちが静まりかえる中、蟻が一歩、また一歩と前進する。

その軌跡は、まるで人間社会の軌道修正を示すように、まっすぐに中央を貫いていた。


「これが、“主役”というものか……」


藤原の声は震えていた。


もはや、藤原は踊らない。そして蟻が踊る。

藤原は、ただの床であり、ただの背景だった。

最後まで藤原はまったく動かなかった。


踊らない者”こそ、今や最も優れた舞踏者なのだ。


そして夜が明ける頃。

舞踏会は静かに閉幕した。


閉幕後、藤原は踏まずに済んでほっとしていた…

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