第85話 保険、降りず。
この国では今、蟻を踏むと 罰金または損害賠償 が課せられる。
きっかけは、5年前に可決された『蟻知性尊重法』──通称「蟻法案」だ。
高度な社会構造を持ち、独自の意思決定機構をもつ“蟻”が、「人類と並ぶ存在」として認められたのだ。
以降、「蟻を故意に、あるいは過失で踏んだ場合」は殺傷罪の適用対象となった。
「うっかり踏んだ」では済まされない。
今や、蟻に優しく歩くことはマナーではなく、義務だった。
その結果誕生したのが『対蟻損害賠償保険』。
蟻を踏んでしまった場合の訴訟費用
蟻巣の復旧工事費
被害蟻の“遺族”への慰謝フェロモン支援金
……すべてを補償する夢の保険だった。
中でも最大手の「蟻和生命」は、加入者数国内第1位。 加入の有無が、就職や結婚、賃貸契約にまで影響するほどの“社会常識”になっていた。
だが、ある年の統計で、異常な数字が出た。
【年間踏蟻件数:1,102,305件】
1年で、蟻が110万匹以上も“踏まれた”というのだ。
理由は明白だった。
都市の舗装率の増加
子どもの遊び中の誤踏
高齢者の視覚認識低下
スマホ歩きによる注意欠如
共生することにより大半の蟻が地上で生活するようになった。
保険会社は保険金の支払い対応に追われ、社内はパンク寸前だった。 ついには「対蟻保険審査部」が設立され、支給条件の見直しが始まった。
審査部はこう宣言した。
「“避けられたはずの踏蟻”は、今後一切補償対象としません。」
会社員・遠藤幸司(38)は、帰宅中に公園の砂場を歩いたことで、蟻を1匹踏んでしまった。
翌週、蟻庁から「構成社会破壊に関する申し立て通知」が届いた。
遠藤はこういう時のためにに保険に加入していて安心していた。
遠藤はさっそく保険会社に申請する。
だが、1ヶ月後に届いた返信はこうだった。
【審査結果:不支給】
帰宅時にわざわざ砂場を通らなくても良いところをわざわざ通るところが意図的で悪意がある。
また、被害個体が“将来の女王候補”であったこともありことを重く受け止めております。
今回は保険金受給対象に至りませんでした。
「そんな、バカな…。」
愕然とする遠藤。
スマホを開くと、SNSではこんな声が飛び交っていた。
「昨日、電車の中で蟻踏んじゃって賠償480万円だよ」
「審査厳しすぎて実質降りない。払うための保険じゃねえか!」
「もう保険より、蟻避けスーツ買った方がまだマシ」
やがて、保険会社はこう発表する。
「加入者の“人間性”を見極めたうえでのみ、今後は支給対象を絞ります。
無意識に蟻を殺すような人間は、蟻社会に必要ありません」
遠藤は、出社途中にふと思う。
「……じゃあ俺たちは、結局どこを歩けばいいんだ」
どこを歩いても蟻がいて、踏めば違反、でも保険は降りない。
靴を脱いだ彼の足は、夕暮れのコンクリートに小さく震えていた──。




