第83話 蟻の人生相談
社会では、「蟻知性理論(A.I.T. = Ant Intelligence Theory)」が定説となり、
国家運営の一部にまで導入されている。
その中でも特に信頼されているのが、「蟻庁 人生相談課」。
悩める市民は、ここに行って“蟻に人生の選択をゆだねる”。
「では――次の方、どうぞ」
静かな室内に、案内の声が響く。
望月しおり、二十五歳。 地元の契約社員として事務をこなす傍ら、母の介護と、貯金のやりくりに追われる毎日。 未来を選ぶ余裕も、力も、意志すらも、とうの昔にすり減っていた。
世の中では「蟻に知性がある」とする科学的論文が話題となってからというもの、「蟻の選択には人間よりも合理性がある」と信じられるようになった。
やがて、その延長として──
「蟻に自分の人生を選んでもらう」ことが流行していた。
彼女もその一人
そして今日「蟻庁」を訪れた。
そこは、今の社会で最も信頼されている“判断機関”だった。 しおりも蟻に進路方向を意思決定してもらうために。
結婚の有無、転職のタイミング、子どもを産むかどうか等…。
──そのすべてを、蟻が決める。
「お悩みの内容を記載いただけますか」
職員に促され、しおりは白紙の進路マットに書き込む。
・今の仕事を辞めて転職する
・今の地元を離れ東京に出る
・契約社員から正社員を目指す
・母を施設に入れる
・このまま今の生活を続ける
・今の恋人と別れる
・家を出て一人暮らしをする
・今の恋人と結婚する
「ありがとうございます。では、“判断蟻”をリリースします」
ケースから這い出た一匹の蟻が、静かに歩き始めた。 その脚は迷いなく、まっすぐ進んでいく。
『まるであらかじめ知っていたかのように、一直線に進んでいった』
──止まった。 「今の恋人と結婚する」
職員が言う。 「素晴らしい選択ですね。愛と契約。蟻様らしいお考えです」
しおりは小さく微笑み、頭を下げた。 「……ありがとうございます」
帰り道、しおりは空を見上げる。明日も早い。 でも、“蟻が決めた道”だから。 後悔なんて、あるはずがない。迷いも全く無い。
そして…今の彼と結婚した。
そして…幸せになるために…
【数年後】
夫は無職。パチンコと競馬に通い詰め、暴言と時折の暴力。 給料はすべて使い果たし、生活費はほぼしおりの稼ぎと介護手当。
彼女は毎日、母の世話とスーパーのレジ打ちで体力を削られながらも、夫の顔色をうかがいながらの暮らしを続けていた。
夜のテレビでは、街頭インタビューが流れる。
「ええ、今とっても幸せです。人生の選択は全部蟻に委ねてますから。人間の判断なんて信用できませんから」 「さすが蟻様、って感じですよね」
夜中、こっそりSNSを開くと、同級生たちは自由に海外を飛び回り、
子どものいない生活や独身生活を楽しんでいた。
しおりはふと横を見ると、酔っぱらってソファでいびきを掻いて寝ている夫がいる。 口を開け、競馬新聞を握ったまま、だらしなく眠る姿。
──彼女は苦笑していた。
しおりはつぶやく
「これでよかったのよ。蟻が決めたんだから」
でもその目は、遠く、虚空を見つめていた。




