第82話 控除の巣
「三千匹で固定資産税が半分に。五千で全額免除。……一万匹を超えれば、子ども手当も支給対象に入ります」
役所の窓口で、担当者はパンフレットを手に説明した。
河井慎一は頷きながら、頭の中で計算していた。
家のローン、保険料、塾代、そして最近妻が始めたリモート治療の費用。
どれも「足りない」のが現実だった。
「で、その……本当に安全なんですよね? 人間に害は……」
「もちろんです。認定種ですから。共生適応検査もパスしていますし、女王個体の登録管理もございます」
──そう言って渡されたのが、「蟻導入控除申請書」だった。
設置は意外なほど簡単だった。
市と提携している「蟻環境建設株式会社」が、床下に巣導管を通し、湿度調整用のミスト噴出装置と、
専用の“女王室ユニット”を設置。
「最初は2000匹からスタートですね」と、作業員は笑っていた。
初めのうちは、蟻の存在は気にならなかった。
むしろ、娘の美咲(みさき・8歳)が喜んでいた。
「ねえパパ、見て! ごはん、運んでる!」
台所に落としたパンくずを、蟻たちがきれいに列を作って運んでいく。
「お掃除してくれるお友だち」として、美咲は“アリアちゃん”と名前までつけていた。
減税の効果はすぐに現れた。
今年の住民税は4割カット。
住宅控除も増え、月々の返済がかなり楽になった。
慎一は“ちょっとだけ”数を増やそうと、役所に申請した。
「5000匹? 大丈夫ですよ。コロニーが安定していれば、3万までは問題ありません」
その言葉に、慎一は笑みを浮かべた。
──しかし、何かがおかしくなったのは、その年の夏だった。
居間の隅に設置された通気口から、蟻の列が“絶え間なく”伸びるようになった。
「ちょっと……最近、多くない?」
妻がつぶやく。美咲はもう蟻に話しかけるのをやめていた。
次第に、家の空気が湿ってきた。
床は微かにぬめり、壁の裏で“動いている気配”がする。
ミスト噴出機の使用量は倍になり、女王室ユニットの稼働音も、夜通し止まらなかった。
慎一は言い訳のように言う。
「……でも、税金が下がってる。これで塾も続けられるし、治療費も払える。
このくらい、我慢すれば……」
秋、蟻の数は1万2千匹を超えた。
そして冬。
ある夜、慎一はふと目覚めた。
寝室の天井の隅に、黒い影がうごめいている。
──渦巻くように、うねるように。
蟻だ。
壁を這い、天井を這い、ベッドの下、電気の裏、ドアの隙間。
慎一は立ち上がる。
「……おい、美咲……!」
声をかけるが、返事はない。
娘のベッドの布団をめくった瞬間、慎一は凍りついた。
そこには──美咲の形をした、蟻の塊があった。
その奥に、見えたうっすらと残ったピンクのパジャマ。
小さな手の形をした蟻の集合体が、それが「美咲」であったことを示している。
そして…慎一は必死に蟻の塊をかき分け実咲に声かける
「おいっ、美咲大丈夫か…!?」
慎一の目には涙が滲む。
蟻たちは無言で、静かに彼の肩を這い上がっていく。
「もういいよ、減税なんて、控除なんて……もう、どうでもいいんだよ!」
そして、ふと壁に貼られた紙を見る。
【蟻定住証明書】
居住個体数:32,114匹
コロニーランク:S(最上級)
その下に、小さな字でこう書かれてあった。
慎一は崩れ落ちるように床に膝をついた。
あたり一面、うごめく蟻。蟻が、蟻が、蟻が…。
足元から、背中から、腕の隙間へとみるみる入り込んでくる。
無数の脚が、全身の身体を覆い、口の中にも入り込み、目をもふさぎ混む──
そして、部屋の空気全体が“生きている”ようだった。
──年末、役所では「納蟻優良住宅」表彰式が行われていた。
スクリーンに表示されたのは、
「河井慎一様邸──納蟻数32,114匹。控除額年間120万円相当」
司会者が読み上げる。
会場から拍手が起きる。
画面には、部屋一面に真っ黒に蠢く部屋の映像が流されていた。
それは、まるで生きている一つの巣のようだった。
「……おめでとうございます。あなたの家はもう、誇り高き“居巣”です」
あれから可井さん宅方を見かけた者はいない…
今、どこにいるのだろうか…もしかしたらまだ、あの黒い渦の中に…




