第70話 蟻役オーディション
劇団《八本脚》の新作公演「蟻巣」は、いま最も注目される舞台作品だ。
最大の特徴は、実際の蟻が出演するという点。
舞台の端に設けられたミクロスペースにて、日々の行動を映像投影しながら、ストーリーに“現実の蟻”を組み込む。
その“蟻”と共演するためには、人間側の役者にも、並々ならぬ演技力が求められる。
特に、劇中で“蟻そのもの”を演じる「蟻役」には、演劇界での新たなステータスと化していた。
志岐 澄人35歳。
下積み10年以上、端役ばかりの無名俳優だ。
ある日、彼の元に届いたのは「蟻役」オーディションの案内だった。
都内某所、共生文化芸術センター。
控室には十数人の応募者たち。どこか、皆“人間らしさ”を殺している。
会話もない。うつむき、手足を折りたたみ、静かに“何か”を待つ姿勢。
「それでは次の方、どうぞ」
舞台へと続く扉が開いた。志岐の番だった。
審査員席の中央には演出家、審査委員、そして──透明ケースに入った一匹の蟻がいた。
「では、あなたの“蟻性”を見せてください」
声が響く。志岐は、一礼したあと、しゃがみ込む。
手を地につけ、首を前に出し、指先で床を軽く叩く。
目線は定まらず、神経を研ぎ澄ませる。自分の存在を消し、周囲の空気と溶け合う。
かつてない沈黙の中、彼は蟻の“所作”を再現しようとしていた。
審査員の声が飛ぶ。
「あなたはいま、どこにいる?」
志岐は答えない。
代わりに、小さく肩を震わせ、足をずらした。
その“答えない”という行為が、評価された。
「フェロモンは……自然ですね」
「眼差しに“自己”がない。いいぞ」
だが、そのとき。
審査員が指差した。
「それでは、今から最終審査に入ります」
壇上に、透明ケースごと本物の蟻が置かれた。
「この蟻に、“あなたを仲間と認識させる”ことができるかどうかで、合否を分けます」
志岐は、思わず息を呑んだ。
舞台上で、本物の蟻が動き出す。
志岐もまた、地を這うようにゆっくり前に出る。
人間の演技ではない、“共感”を伝えるために。
一歩ずつ、目を合わせず、距離を測る。
……そのときだった。
蟻が志岐の指先に登った。
会場がざわつく。
「おい……まさか……!」
審査員が、笑った。
「これは、同調反応です。いや〜、認められましたね」
志岐は、何も言わなかった。
ただ静かにその蟻と向き合っていた。
数ヶ月後。
舞台『蟻巣』初日。
観客の前に姿を現した志岐は、もう人間ではなく“蟻”だった。
誰よりも沈黙し、誰よりも空気を読み、誰よりも“群れ”を演じきった。
誰もそれを演技だとは思わなかった。
その存在は、“ただ、そこにいた蟻”だった。
──この社会で、本当に評価されるのは、声を張る者ではなく。
空気に溶け、違和感なく“群れに紛れる”者だった。
彼は決して役を演じたのではない。
彼自身が、“蟻”になったのだった。




