表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/279

第70話 蟻役オーディション

劇団《八本脚はっぽんあし》の新作公演「蟻巣ぎそう」は、いま最も注目される舞台作品だ。


最大の特徴は、実際の蟻が出演するという点。


舞台の端に設けられたミクロスペースにて、日々の行動を映像投影しながら、ストーリーに“現実の蟻”を組み込む。

その“蟻”と共演するためには、人間側の役者にも、並々ならぬ演技力が求められる。


特に、劇中で“蟻そのもの”を演じる「蟻役」には、演劇界での新たなステータスと化していた。


志岐 澄人しき・すみと35歳。

下積み10年以上、端役ばかりの無名俳優だ。


ある日、彼の元に届いたのは「蟻役」オーディションの案内だった。




都内某所、共生文化芸術センター。


控室には十数人の応募者たち。どこか、皆“人間らしさ”を殺している。

会話もない。うつむき、手足を折りたたみ、静かに“何か”を待つ姿勢。


「それでは次の方、どうぞ」


舞台へと続く扉が開いた。志岐の番だった。


審査員席の中央には演出家、審査委員、そして──透明ケースに入った一匹の蟻がいた。


「では、あなたの“蟻性”を見せてください」


声が響く。志岐は、一礼したあと、しゃがみ込む。


手を地につけ、首を前に出し、指先で床を軽く叩く。

目線は定まらず、神経を研ぎ澄ませる。自分の存在を消し、周囲の空気と溶け合う。


かつてない沈黙の中、彼は蟻の“所作”を再現しようとしていた。


審査員の声が飛ぶ。

「あなたはいま、どこにいる?」


志岐は答えない。

代わりに、小さく肩を震わせ、足をずらした。

その“答えない”という行為が、評価された。


「フェロモンは……自然ですね」


「眼差しに“自己”がない。いいぞ」


だが、そのとき。

審査員が指差した。


「それでは、今から最終審査に入ります」


壇上に、透明ケースごと本物の蟻が置かれた。


「この蟻に、“あなたを仲間と認識させる”ことができるかどうかで、合否を分けます」


志岐は、思わず息を呑んだ。


舞台上で、本物の蟻が動き出す。

志岐もまた、地を這うようにゆっくり前に出る。


人間の演技ではない、“共感”を伝えるために。


一歩ずつ、目を合わせず、距離を測る。


……そのときだった。


蟻が志岐の指先に登った。


会場がざわつく。


「おい……まさか……!」


審査員が、笑った。


「これは、同調反応です。いや〜、認められましたね」


志岐は、何も言わなかった。


ただ静かにその蟻と向き合っていた。


数ヶ月後。


舞台『蟻巣』初日。


観客の前に姿を現した志岐は、もう人間ではなく“蟻”だった。


誰よりも沈黙し、誰よりも空気を読み、誰よりも“群れ”を演じきった。


誰もそれを演技だとは思わなかった。

その存在は、“ただ、そこにいた蟻”だった。


──この社会で、本当に評価されるのは、声を張る者ではなく。


空気に溶け、違和感なく“群れに紛れる”者だった。


彼は決して役を演じたのではない。


彼自身が、“蟻”になったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ