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第68話 蟻出社手当

朝8時半、都内オフィス街。

スーツ姿の人々が列をなすエレベーター前、その誰もが肩や腕に一匹ずつ蟻を乗せている。


「蟻出社手当」──月に最大1万円。


共生促進法の一環として導入されたこの制度では、蟻を連れて出社した人間に共生手当が支給される。


企業のイメージ戦略もあって、今や「蟻を連れていない社員」は、“倫理的に劣る”と見なされるようになっていた。


谷口光一たにぐち・こういち、37歳、総務部主任。

彼の胸ポケットには、登録個体の蟻〈ミツキ〉がいる。出社スキャンでフェロモン認証も済ませた。


「今日もよろしくな、ミツキ」


そう呟くのは、もはや習慣だった。



だが、その日の午後。ふと胸に手をやると、ミツキがいない。


慌てて机の下、書類の隙間、椅子の裏を探すが見つからない。


共生管理室に報告に行くと、無表情な担当者が告げた。


「“無断離蟻”ですね。規定により、今月の手当は無効。さらに注意義務違反で、減給2万円が発生します」


「……ちょっと待ってください。今朝ちゃんとスキャン通ってますよね?」


「でも今、いないんですよね?。“共生の継続性”が証明できません」


谷口は言葉を失った。


──月に1万円増えるはずだった手当が、いまは2万円減の通知に変わっていた。




夕方、谷口はふと気づく。

隣の席の三田のデスクに、ミツキによく似た蟻が歩いていた。


「それ、俺のミツキじゃないのか?」


谷口が声をかけると、三田は眉をひそめた。


「は? 何言ってんすか。俺が連れてきたやつに決まってんだろ」


「でも、触角の右側が少し短い……それはミツキの特徴なんだ」


「証拠でもあるの?」


ふたりが言い争いをしている間も、蟻は淡々とキーボードの上を歩いていた。

誰が連れてきたか、誰の“蟻”なのか。証明できる者はいなかった。


結局、共生庁からの正式認定もなく、その蟻は“三田のもの”として扱われた。



帰り道、谷口は駅前のベンチで一人、ため息をついた。

「結局……ミツキ見つからなかったな…」


蟻に名前をつけ、話しかけ、連れて出社し、スキャンさせる。

だがその関係は、フェロモンの有無と報告義務というシステムの中でしか成立していない。


「“一緒にいた”証明ができなければ、それは存在しないも同じってわけか……」


そして、自分が失ったのは手当だけではなかった。


──信用、職場の評価、そして、ほんの少しだけ感じていた“共生感”。



数日後、共生庁から通知が届く。

【報告】社員食堂の換気ダクト内にて、登録個体「ミツキ」と一致するフェロモン反応を確認。


通知を見た谷口は、安堵した。

「良かった…お前……本当にいて…」

帰り、社員食堂にて保護されていたミツキを迎えに行く。



共生とは何なのか?

──それを判断するのは、もはや人間ではなかった。


“スキャンされるか” “手当が出るか”

その価値の全ては、記録と管理に委ねられていた。


そしていまも、蟻は人知れず歩き、人間は黙ってそれを“連れている”ふりを続けている。


三田…ごめんな…

ミツキの右側の触覚は短くなかった…。

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