第61話 下を見て、歩け!
今となっては、誰もスマホを見ながら歩かない。
電車のホーム、歩道、駅の構内——
人々はみな、首を垂れて歩く。
理由はひとつ。
地面を、蟻を、見落とさないためだ。
一歩の誤りが、人生を崩壊させる。
最初に崩れたのは、ある配送業の若者だった。
ヘッドホンをつけ、小走りで坂を下りながら荷物を届けていた。
足元には、整然と列をなした蟻の行列。
彼は気づかなかった。
その夜、配達先で彼の端末がロックされる。
“踏圧違反通知”。即日勤務停止。
一週間後には、会社から「社会調和に反する個体との契約解除」が発表された。
さらに、全キャッシュレス口座が凍結された。
「別に人を殺したわけじゃないか!?」
彼は叫んだが、誰も目を合わせなかった。
そして蟻殺傷の罪で逮捕され、懲役5年を求刑された。
別の事件。
ある女子高生は、学校の下駄箱で足を軽く擦った拍子に、
蟻を一匹巻き込んだ。
その日のうちに校内放送で名指しされ、全校集会で全校生徒の前で謝罪を命じられる。
「私は蟻を殺しました。私の不注意が、群れに迷惑をかけました——すみませんでした。」
その映像は教育用教材として全国に配信され、
彼女も後に「不注意殺蟻罪」で逮捕された。
今や、“下を見ないこと”は無謀行為とされる。
視線を落とさず歩いている者は、蔑視される。
人々は皆、靴底と地面の隙間を一歩ごとに確認する。
なかには虫眼鏡で確認しながら歩いている者もいる。
恋人と手をつないで歩く光景など、もはや過去の記憶だ。
手を繋ぎ、しっかり下を見て、黙って、静かに歩く。
それがこの社会の礼儀であり、生き残るための最低限の街の作法である。
やがて噂が広がった。
——“蟻を踏むと人生が終わる”
——“地面の下には、何千、何万もの目がある”
もう普通には歩けない。
そして、そんなある日——
交差点の角で、若者がポケットからスマホを取り出した。
そして、前を見た。
「……あっ」
足元で、蟻の群れがざわつく。
一匹が潰れた。
周囲が静まり返り、人々の視線が一斉に彼を刺す。
違反音が鳴り響き、警察官が駆けつける。
そのまま逮捕。
その日以降、彼の姿を街で見た者はいない。
踏切前。小学一年生の列が、先生と一緒に頭を下げている。
「踏まないこと。それが共生の第一歩です」
子どもたちはうなずき、足元の蟻に「どうぞ」と道を譲る。
生きるとは、見下すことではない。
見下ろし、慎むことでしか、未来を踏み外さずに生きていくことは出来ない。
誰も、空なんて見ない。
そう…空なんか見なくていい…
人生を潰したくないのなら——
黙って下を見て、歩け。




