第60話 護蟻(ごぎ)の人
通学路の途中、小さな出来事だった。
篠原悠人は、いつものように学校へ向かって歩いていた。
日陰になった歩道の端。黒いアスファルトの上で、何かがもぞもぞと動いていた。
カマキリだった。
鎌で小さな蟻を捕まえている。
その様子を見て、篠原は立ち止まった。
べつに蟻が好きなわけでもない。昆虫全般はどちらかといえば苦手だった。
ただ、なんとなく、見ていられなかった。
ポケットに入っていた定期券の角で、カマキリの脚を払った。
カマキリは驚いたように後退し、蟻は地面に転がって逃げた。
それだけのことだった。
その一部始終を、通りかかった「蟻推進センター」職員が偶然目撃していた。
翌週、篠原は校長室に呼び出された。
「市から来た職員が会いたがっている」と言われた。
待っていたのは「蟻類共生推進センター」の男だった。
センターのIDカードを胸に下げ、礼儀正しく、そして異様に熱っぽかった。
「あなたの行為は、非常に価値あるものでした」
男は言った。
「蟻類共生維持法第十一条に基づき、緊急時の救助行為として認定されました。
ささやかですが、市より表彰されます」
表彰状を渡され、写真を撮られた。
その日の夜にはニュースサイトに掲載されていた。
【高校生、カマキリから蟻を救う】
一躍時の人になった。
SNSでは「#篠原くんありがとう」「#命は重い」など称賛の声が相次ぐ。
蟻の帽子を被った子供たちが、「僕も助ける!」とマネをしはじめる。
学校でも講演依頼が来て、「どうして助けようと思ったんですか?」と質問攻めに。
しかし篠原はどこか浮かない顔。
「……いや、別になんとなくです。ただ、見てられなかったってだけで」
家にも変化があった。
ある日。篠原の家の床下に「蟻の一団」が巣を作り始める。
最初は数匹だった。けれど日が経つごとに増えていった。
“助けてくれたお礼”というような感じで、蟻たちは彼の部屋を「聖域」として整備し始める。
「あなたの行為が、きっと届いたのよ」と担任の先生は言う。
「家にまでお礼に来てくれるなんて、すごいことだよ」と友達は言う。
やがて、彼の部屋には小さな蟻道ができた。
机の足には小さな蟻たちが列をなして登ってきた。
スマホに謎のメッセージが届く。
「記録された。あなたの行為は評価され、群れに伝達された。
いずれ、“迎え”が来る。」
通知音が鳴るたびに、背中に汗がにじんだ。
ある夜、ふと目が覚めた。
部屋の四隅に、蟻たちが静かに立ち止まっていた。
動かない。ただ、じっと篠原のベッドを見ているようだった。
「……俺、なんで助けたんだっけ」
誰に向けるでもなく、ぽつりとつぶやいた。
静寂の中で、ひとつの蟻が前へ出た。
他の蟻が一斉に、それに続いた。
——まるで、篠原の言葉に“呼応”するように。
終わりが始まったような気がした。




