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第55話 ただ、かゆかっただけなのに…

電車の中…


あ〜、かゆい。


田口遥たぐち・はるかは、車内の隅でマスクを二重に重ねながら、袖で首筋をかいていた。ああ、また赤くなってる。ブツブツが浮いてきた。これでも、今朝は抗ヒスタミンを倍量飲んできたのに。


吊り革の上、車内広告には「蟻と共に、100年先の地球へ」という標語。背景には蟻の拡大写真。黒光りする頭部がこちらを覗いている。


——もう生理的に、無理。


それが本音だった。でも、今この国で「無理」と言ってはいけないことなのは、誰もが知っている。


「蟻共生法」が可決されてから数年。街には蟻の保護区ができ、子どもたちは学校で「社会性昆虫から学ぶ生き方」を習い、テレビでは“蟻目線”のニュースばかりが流れ、コンビニには“蟻用のお菓子コーナー”が併設されていた。


 

遥は重度のアレルギー持ちだった。医学的にも証明されている。アレルゲンに触れると皮膚が腫れ、呼吸が苦しくなり、最悪の場合はアナフィラキシーに陥る。


けれど今、それを「理解してもらう」のがいちばん難しい。


面接でそれを伝えれば——

「生理的に受けつけないって、そういうことですよね」

「わが社の共生方針と、少し価値観が合わないかもしれませんね」

「思想の問題なら矯正プログラムがありますよ」


そんな言葉ばかりが返ってきた。


 


今日のバイト先も、初日で終わった。レジの横に設置されていた「蟻の観察ケース」から漂うフェロモンで、彼女は激しく咳き込み、倒れた。責任者は言った。


「今の時代、蟻に反応してアレルギーだなんて……この社会では生きていけないですよ。」


翌日、遥は契約を打ち切られた。


 


夜、狭いワンルームに戻ると、ポストに一通の通知が届いていた。


「蟻共生意識適合度検査:E判定。再評価までに『共生プログラム初級編』の受講を推奨します。」


つまり、国家からの“警告”だった。


 


プログラムでは、「蟻との信頼構築」「フェロモン耐性トレーニング」「多足文化理解」の講義が並んでいた。講師は真顔で言った。


「アレルギーとは、あなたの“内なる偏見”が生み出した症状です。共生の覚悟があれば、体は自然と順応します」


おかしくて笑い出しそうになった。でも、笑ったら終わりだった。誰かが録音して密告されるかもしれない。


 

帰り道、またかゆくなった。首筋、腕、足。ふと下を見ると、蟻が一匹、スニーカーの先を歩いていた。


「ごめん」


思わずつぶやいたその瞬間、背後から声が飛んだ。


「今、何て言いました? 侮辱発言、確認しました。通報しますよ」


振り返ると、スマホを構えた女が立っていた。赤い腕章に「蟻市民連絡会」。


遥は、何も言い返せなかった。


 


この世界では、もう“人間の都合”は理由にならない。

アレルギーも、反応も、かゆみさえも——“失礼”なのだ。


 

私は、ただ、かゆかっただけなのに。


それすら、この社会では、罪なのだ。

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