第56話 蟻の保険金
古田家は、今月三度目の保険申請をしていた。
「台所の角で、蟻が潰れていたんです。子どもが踏んじゃったみたいで……」
電話口で、妻の奈美は心配そうに言う。保険会社の担当者は慣れた声で「わかりました」と答え、数日後、補償金1万800円が指定口座に振り込まれた。
「たった一匹で一万って、やっぱりおかしいよな……」
夫の和也はつぶやいた。だが奈美は言った。
「でも制度があるんだから、使わない方が損じゃない?」
それは“共生保険制度”。人間と蟻の共生が義務づけられた後、政府主導で設立された。家庭内での不注意による蟻の死亡事故に対し、精神的損害と再順化のための費用が支給される。
だが本来、それは「実際に共に生活する蟻」に対して適用されるもので、野良の蟻や“保護登録されていない個体”は対象外だった。
古田家では、庭で拾ってきた蟻を一匹ずつ小瓶に入れ、あたかも家族の一員だったかのように記録を作成していた。
——そう…それが悪いことだとは、思っていなかった。
「なんか、少しずつ楽になってきたよね、生活……」
和也がそう言ったときだった。
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴いた。
「蟻監査庁の者です。少々お時間、よろしいでしょうか」
男は無表情に職員証を掲げた。同行するのは、小型のケースを抱えた女と、無言のまま壁の隅に立つ黒服たち。
「え、えっと、どういう……?」
「先月からの申請について、いくつか確認がありまして」
男たちは躊躇なく上がり込み、家中を歩き回った。女がケースを開けると、中から無数の“蟻”が這い出し、部屋の隅や床下へと散っていった。
「自律監査個体です。痕跡や死骸、成分情報から嘘の申請がなかったかを確認しますので」
和也と奈美は、ただ固まっていた。
数分後、結果が出た。
「……三件分に虚偽の可能性があります。確認が取れれば、補助金詐取、すなわち“種族詐欺罪”です」
「いや、ちょっと待ってください、本当に……その……子どもが!」
「では、お子さんに直接確認とってもよろしいですか?」
と静かに、男が言った。
その場の空気が凍った。
三日後、家の前には赤いテープが張られ、“植生保護区画”の標識が立てられた。
古田家は“共生意識の欠如による社会不適合”として居住権を剥奪され、現在、再順化施設に収容中とされている。
一方、同じ町の掲示板にはこんな張り紙が増えていた。
「蟻の命と、あなたの誠実。どちらが軽いですか?」
―――共生庁
庭の隅には、小さな白い標識が立っていた。そこにはこう書かれていた。
【事故地】ここに、3匹の命が踏み潰されました。
——黙祷。
誰も立ち止まらない。ただ、蟻だけが、そこを通り過ぎていった。




