第51話 もう都会では蟻を踏めない
通勤路。
アスファルトの隙間から、ひょっこりと顔を出した蟻の列。
中西美智子は、立ち止まった。
急いでいた。会社には間に合わないかもしれない。けれど——
「……あ」
靴の先で跨ごうとしたその瞬間、背後から声が飛んだ。
「危ないですよ、お姉さん!」
振り返ると、初老の男がスマートフォンを構えてこちらを睨んでいた。
「今の、撮らせてもらいました。共生法第六条、知ってますよね?」
「あ……す、すみません……!急いでて…跨ごうしただけなんです!」
美智子は慌てて足を引いた。男は鼻で笑い、その場を離れていった。
——朝から、これだ。
この街はもう、「人間の街」じゃない。
ビルの合間のポスターには、【蟻の命も、あなたと同じ】と大きく書かれている。
小学校では「共生倫理」の授業が必修となり、「不注意な踏圧による蟻殺害」は懲役刑の対象になる場合もある。
駅前には、蟻の「緊急保護ルート」が設けられておいるが、決して蟻はそこを通るわけもなく、蟻達は自由気ままに街を動きまわる…。
地面には用を足さない蟻達の誘導ガイドのため赤い線が引かれていた。
しかし、美智子はその線をまたぐたびに、心臓が小さく高鳴る。
美智子の職場はビルの十七階。
高層から下を眺める…そこから見ると人間も蟻のようだ。
オフィスの窓際には、なぜか蟻の「人工巣」が置かれていた。
「生態観察の一環」という名目で、義務的に設置されたらしい。
社員たちは笑顔で言う。
「昨日もかわいかったよ、あの子。餌を運んでてさ」 「動きが人間みたいなんだよね〜」
……美智子は苦笑するしかなかった。
彼女は虫が苦手だった。特に、蟻のあの、群れで蠢く動きが。
だが、そんなことを口にしたら、すぐに“共生差別者”のレッテルを貼られる。
つい先月も、隣の席の男がポツリと「ちょっと苦手で」と漏らしただけで、社内SNSが炎上した。
「思想の問題だ」「共生意識が低すぎる」
結果、その男は異動になり、しばらくして退職した。
美智子は今日も、蟻に気を使いながら歩く。
避けて、よけて、ルートを変えて。
電車のホームでは、「一匹の命も、無視しない」というアナウンスが流れていた。
ふと、彼女は立ち止まる。
足元に、一匹の蟻が這っていた。
誰も踏まない。誰も動かない。
人々は黙って、足元を見つめて立ち尽くしていた。
電車は、目の前を空っぽのまま通り過ぎていった。
——息苦しい。
人間は、かつて人間のために街を作ったはずだった。
けれど今、この世界では「人間は、蟻のために生きている」。
誰もそれを口に出さない。
それが“やさしさ”の時代だから。
だが、美智子は知っていた。
自分の足元で、「人間の言葉ではないもの」が、確かにざわついていることを。
そして、それに逆らえば、即座に社会から“切り捨てられる”ということも。
——人間が、自らを“社会性の蟻”に変えていった。
それが「共生」の本当の意味だったのだ。




