第46話 蟻に帰依した老人
青木忠志、七十三歳。
妻に先立たれ、子とは疎遠。年金とわずかな貯金で静かに暮らしていたが、半年前から郊外の老人ホームに入っていた。
食事も掃除も世話されるこの生活は、最初は「ありがたい」と思っていた。だが日が経つにつれ、何もすることのない日々が、ただただ空虚になっていった。
「俺には居場所が、ねえんだよ」
青木は食堂で隣の席に座った施設の職員にぽつりとこぼした。
職員は愛想笑いを浮かべて、すぐに立ち去った。
それを少し離れた席で聞いていた老婆が、口の中で何かをもごもごと呟いた。
白髪で背の曲がったその人は、よくひとりごとを繰り返していた。
名前は木原うめ。九十歳。重度の認知症だが、誰よりも蟻を怖れていないようだった。
それから数日後、青木は中庭の隅で、蟻を見つけた。花壇の縁から列をなして、土の中へ出入りをしている。
その様子を、ベンチに腰掛けて何時間も眺めていた。
「すげぇな……」
そう呟いたとき、久しぶりに自分の口から敬意のある言葉が出た気がした。
蟻たちは、誰に命令されるでもなく、一匹残らず、目的を持って動いているようだった。無駄な存在などひとつもないように感じた。
翌日から、青木は中庭に通い始めた。
ノートを持ち歩き、蟻の行動を書き留めていた。
一度、職員に「何しているんですか?」と声をかけられたが、彼はこう答えた。
「……蟻には、ちゃんと役目があるんだよ。誰かがゴミを運び、誰かが食い物を取りに行く。死んだやつも、ちゃんと“巣のため”に使われる。誰も見捨てられねぇんだ。ああいうのを、“社会”って言うんだろ」
その顔は、久しぶりに生き生きとしていた。
職員は興味なさそうに憮然と聞く。
その言葉を、ベンチの少し離れたところで、木原うめが聞いていた。
彼女はぽそりと呟いた。
「……あたしもね、昔は働き蟻だったよ。あんた、いい目してるねぇ……」
その日から、青木と木原は、ときおり短い言葉を交わすようになった。
ある夜、老人ホームの夜勤スタッフが、青木の部屋が空になっているのを見つけた。
ベッドは整えられており、机の上にはノートが一冊、置かれていた。
中には、びっしりと細かい文字と図が記されていた。
「地中に広がる空間。通気のための縦穴。女王の部屋。貯蔵庫。……巣の構造は、すべて理にかなっている。何のムダもない。誰ひとり、余計者はいない」
「この社会は、美しい」
「わたしも、そこに行く」
(青木の失踪、ノートの記述)
警察や職員たちの捜索は空振りに終わった。青木の姿は、どこにも見つからなかった。
ただ、老人ホームの裏手にある林の地面に、小さな穴が掘られた痕跡だけが残されていた。
その穴は、やがて土に崩れ、跡形もなく消えていった。
数週間後、施設では“昆虫観察会”として、中庭の蟻の巣をモニタリングするイベントが開かれた。
小さなカメラが巣穴に差し込まれ、モニターに巣の内部が映し出される。
その中に、一瞬だが異様なものが映ったという——
人間の義歯のようなものが、巣の奥深くで、土にまみれて沈んでいた。
「まさか、気のせいでしょ」と笑う職員もいれば、青ざめた顔で目を逸らした者もいた。
だが、そのとき、モニターの中で蟻たちが何かを囲むように列を作り始めた。
まるで“儀式”のように、輪になり、螺旋を描いて、静かに回っていた。
蟻の神は、すべての存在に役割を与える。
そしてその役割は、拒めない。
以来、老人ホームでは誰も青木さんの話も蟻の話にも触れる者はいなくなった。
「今度、生まれ変われるなら……あたしも蟻になりたいわね」
そう呟いたうめの声が、誰もいない廊下にぽつんと響いた。
片手にはスコップを持っていた…。




