第44話 蟻式マナー講座
最近、岡本裕一は「周囲の空気」が変わってきたことを、肌で感じていた。
清掃業者として契約している市役所の仕事では、以前よりも細かい指示が増えた。
「掃除中も列を乱すな」
「休憩は“同期個体”と交代制で取れ」
といった、意味のよくわからない通達が、週に何度も飛んでくる。
ある日、休憩室で缶コーヒーを飲んでいると、同僚がタブレットを見せてきた。
「なあ、見たか? 今度の“義務化候補講座”、俺らも出ろってよ」
「なにそれ、噂の“蟻式”のやつか?」
「そう。市が後援してるやつ。“共生社会への適応支援”とか何とか……。まあ、出とけば“適応済み”って登録されるし、出ないと後々面倒らしいぜ」
岡本は苦い顔をした。最近、そういう「出ておいたほうがいい講座」がやたらと増えていた。受けた人間は、胸に六角形のステッカーを貼られて帰ってくる。
そして、翌日から何となく——あいつ、態度が良くなったな、というふうになるのだ。
家に帰ると、ポストに講座の案内が届いていた。
《あなたの所属する企業において、労働階層全体での“蟻式理解度”が求められています》
《次回開催分の出席率が、企業評価指標に加算されます》
いつの間にか、勤め先の「評価」まで関係してくるらしい。
「まぁ……仕方ねぇか」
岡本は申し込みのQRコードを読み込んだ。会場は市の多目的ホール。対象は「一般市民および準従属労働者」。受講時間90分。参加費無料。持ち物は筆記用具と、敬意の心——そう書かれていた。
「くだらねぇ……けど、サボって変なマークでもつけられたらたまんねぇしな」
講習日、岡本は作業着の上からジャンパーを羽織って、講座の時間に合わせて街へ出た。
「本日は、“蟻式行動規範”への理解を深めていただき、共生社会の一員としてふさわしい態度を身につけましょう。」
スクリーンの前に立つ女性インストラクターは、滑らかな口調でそう言った。黒いスーツに身を包み、胸元には六角形の金属バッジ——中央に蟻のエンブレムが光っていた。
受講者は十数名。市役所勤務の職員や、町内会の代表、地域のボランティア団体の人々だった。
会場は自治体の多目的ホール。だが壇上のスクリーンに映るのは、明らかに「人間向けの内容」ではなかった。
セミナーでは3つの章に分けられて講習が行われた。
「第1章 列に並ぶ——“隊列意識”の徹底」
画面には、白線のない道を歩く蟻たちが映される。まっすぐ、均一に、ぶつかることなく。
「さぁ、彼らに倣いましょう。——人間も、“無駄に横に広がらない”。“立ち止まらない”。“常に目的を持って動く”ことが求められます」
次のスライドでは、コンビニの前にたむろする若者たちが「非社会的存在」として赤いバツ印で消されていた。
「第2章 不要な感情表現を控える」
映像は切り替わり、蟻たちの静かなやりとり。フェロモンで会話する彼らは、怒鳴らず、泣かず、笑わない。
「蟻の社会では、“個の感情”より“集団の効率”が優先されます。過度な自己主張は、共生において害となります」
受講者の中で、誰かが小さく咳払いをした。
岡本もまた、眉間にしわを寄せながら静かに聞いていた。
「第3章 “上位存在”への敬意——女王様の肖像に向かって一礼」
スライドに映されたのは、地上で撮影された一匹の有翅女王蟻。 その写真の前に立つ男女が、手を胸に当てて深く頭を下げていた。
「我々は、共生関係の中で、“敬意”という形を持ち寄る必要があります」
「……ええと、これは義務なんですか?」岡本が思わず小さくつぶやいた。
インストラクターが反応した。
「質問ありがとうございます。現段階では“努力義務”ですが、来年度以降、“義務化”が検討されています。安心して実践をお願いします」
講座の最後、全員に配られた冊子のタイトルは、
『初めての蟻式生活ガイド〜アリと暮らすための12の心得〜』
その裏表紙には、こう記されていた。
《あなたは、個体番号:H-7Cとして登録されました》 《今後の“行動ログ”は、定期的に“群中枢”アクセスできます》
岡本は冊子を閉じて立ち上がる。外に出ると、街の喧騒は静かで整然としていた。
横断歩道を、蟻のマークに合わせて渡る人々。 交差点の角には、黒い服に身を包んだ“指導員”たちが、黙って立っていた。
「これって……もうマナーじゃねぇ。これは、支配じゃないのか…」
そう思ったが、彼はその声を出すことはなかった。 それもまた、“蟻式”では禁じられているのだから…




