16-1
「とにかく,これは国王陛下じきじきのご命令だ.」
言い争う声を聞きながら,アデルはそっとドアから離れた.
「ライゼリート,君は渡された書状の内容を知らずに持ってきたのかい?」
行きとちがい,帰りはまっすぐに客室へ足を向ける.
取り繕う余裕など,今の少年にはない.
「兄貴は,俺には何も言わなかった…….」
くやしげなライゼリートの声を最後に耳にして,アデルは廊下の角を曲がる.
少年自身は冷静なつもりだったが,実際にはあせりだけが少年の心を支配している.
少ない手勢で敵国の奥深くまで侵入して,自分では自覚できない不安や恐れがあったのだろう.
ライゼリートらの会話は,それらを的確に突いたのだ.
書斎では,金の髪の少年と老人が言い争いを続けている.
しかしアデルがいなくなったとたん,陽炎のようにふっと二人の姿は消える.
コウスイによる幻術魔法,これが国王から依頼されたワナであった.
「かかったな.」
寄宿舎の部屋の中で,学院長コウスイは「してやったり.」とほくそえむ.
彼と孫のいつわりの会話を,アデル王子かエイダ王女かは分からないが,双子のうちのどちらかが聞いたのだ.
「ダグラス教官,トゥール教官,」
同じ部屋のソファーに腰かけている二人の中年男性に呼びかける.
「アデル王子とエイダ王女の捕縛をお願いします.」
老人の命令に,心得顔で部下たちは立ち上がった.
「ライムが彼らの逃亡を手引きするという策はなくなったので,手抜かりのあるように.」
「了解! 手抜かりは私の得意技です!」
ダグラスの茶目っ気のありすぎる返答に,トゥールはあきれた顔をしてみせる.
「頼みましたよ.」
いたずら小僧の顔で,老人はほほえんだ.
アデルたちをつかまえるふりをして,取り逃がす.
これこそがイスカの立てた作戦だった.
もちろん,戦争などするつもりはないし,国境の山を越えるつもりもない.
学院の生徒たちがいないのは,アデルたちから身を守るためであって出兵のためではない.
すべてが,うそだ.
信じられないようなうそだが,実際に捕りもの劇を演じることで信じさせる.
猛獣用のおりを引いた馬車も,これ見よがしに用意してあった.
部屋に戻ると,アデルはすぐに姉のエイダに事情を説明した.
しかし,
「そんな話,信じられないわ.」
エイダは,少年の話を真っ向から否定した.
「魔法で国境を越えるなんて,できるわけないでしょ.いくら魔術大国だからって…….」
女装を解きながら,アデルは姉に向かって反論する.
「国境越えの魔法が成功するかどうかは大した問題じゃないんだ,エイダ.」
アデルの命令を待たずに,部下たちが撤収の準備を始める.
「問題は,シグニア王国が戦争を始めようとしていることと,そして僕たちが人質であることだ.」
「すぐに逃げよう.」
黒髪の少年は,腰に二本の剣をさした.
よろいこそ着ていないが,できうるかぎりの臨戦態勢を整える.
気づかずに,用意された舞台の上で予想どおりのダンスを踊っている.
「ア,アデル殿下……,」
そのとき,一人の従者が遠慮がちに二人の間に入ってきた.
「あの,恐れ入ります,……マイナーデ学院の教師と名乗るお方々が面会を,」
「僕一人で応対する.」
最後まで言わせずに,少年は断を下す.
立ち聞きしていたのがばれたのだ,と思った.
「お前たちは,エイダを連れて逃げるんだ.」
「待ってよ,アデル!」
ドアへと向かおうとするところを,姉に引きとめられる.
「先に学院から出るんだ,僕は後で追いかける.」
「でも……,」
まだ何か言いたげな姉に,少年は柔らかくほほえんで見せた.
「僕一人ならどうとでもなる.それにエイダの居場所なら,どれだけ離れていても分かるから.」
それは,近すぎる血のなせる業.
家族ならば,父も母もほかの兄弟もいる.
しかし,本当の家族はたった二人だけだ.
「もしも可能ならば,魔法書の一冊でも盗んで出てゆく.」
少年の黒の瞳に,暗い光が宿る.
手ぶらで祖国へ帰ることを,父王はきっと歓迎しないであろうから…….
「だから心配せずに,」
「逃がしませんよ,西ハンザ王国王子殿下.」
唐突に背にかけられた声に,少年は振り返る.
開いたドアのそばに,見知らぬ男が二人.
双子の姉が,息をのむ音.
少年は叫んだ!
「窓から逃げろ!」
「超越,絶対,君臨,そは魔導の三角,」
アデルの命令と,侵入者の男による呪文はほぼ同時.
「炎の輪よ,小さき者たちを捕らえよ!」
外に面している窓が燃え上がる.
そこから飛び出そうとしていたエイダは,悲鳴を上げて飛びずさった.
「聖なるおりに包まれる罪の,」
逃げる王女をつかまえるべく,魔術師の男は呪文を続ける.
しかし言葉途中に体を折り曲げて,倒れこむ.
目にもとまらぬ速さで,黒髪の少年が彼の腹へ,こぶしをたたきこんだのだ.
「体術かぁ,やるねぇ!」
同じく侵入者の男が,緊張感なく口笛を吹く.
「姉は追わせません.」
黒髪の少年は,双剣をすらりと抜く.
シグニア王国ではほとんどお目にかかれない,少年の構えは二刀流である.
「お手合わせ願いますよ,アデル殿下.」
男の方でも剣を抜く.
魔術師が帯剣しているとは思わなかった少年は,意外な展開に軽く目を見張る.
「あぁ,俺は特別なんです.」
男,ダグラスは,にっと口の端を上げる.
エイダ王女が従者たちとともにこげた窓から逃げるのを,横目で見ながら,
「わが名はダグラス・アーク.アークの末えい,三つの誓いを守る者.」
男の口上とともに,剣が意思のある風をまとう.
「魔術学院マイナーデの教員にして,……多分,学生からの人気が一番高い.」
黒髪の少年は,今度こそ本気で驚いた顔になる.
西ハンザ王国では話に聞いたことしかない,男は魔法剣の使い手だ.
「ちなみに担当教科は特殊魔方陣!」
ダグラスからの第一撃に,少年はそのまま後方へ吹き飛ばされた!




