第81話 アルドが作らなかったもの
『七つ目の遺産は、次の修理屋が作れ。』
修はその一文を、何度も読み返した。
アルドの工具箱の中には、古びた工具と薄いノート、そして時計台中央機構の図面が入っている。図面の中央だけが不自然なほど白く、そこには【最終部品】という文字だけが記されていた。
形も、材質も、大きささえ書かれていない。
「ご主人様」
隣で図面を覗き込んでいたリペが、難しそうな顔をしている。
「これは困りました」
「ああ」
「部品がありません」
「ないな」
「設計図にも描いてありません」
「そうだな」
「では、アルドさんは描き忘れたのでは?」
修は思わず笑った。
「二百年以上先の人間に『作れ』って書き残してる人が、一番大事なところだけ描き忘れると思うか?」
「うっかりです!」
「アルドを何だと思ってるんだ」
「伝説のうっかり時計職人です!」
「勝手に伝説を増やすな」
修は図面を作業台へ広げ直した。
中央機構の周囲は、驚くほど細かく描かれている。歯車の直径、軸の太さ、必要な強度、回転比率。修がこれまで見てきたアルドの設計図と同じく、必要な情報は徹底して記録されていた。
それなのに、最終部品だけが完全な空白になっている。
つまり、描けなかったのではない。
意図的に描かなかった。
「鑑定してみます」
修が図面へ触れる。
【対象:時計台中央機構・最終設計図】
【製作者:アルド】
【完成度:91%】
【欠損:なし】
【設計未記入部分:1箇所】
【未記入理由:意図的】
「やっぱり」
さらに深く鑑定する。
【最終部品】
【設計者:未定】
【材質:未定】
【形状:未定】
【機能:未定】
【製作条件:第六の音取得】
【製作条件:帰還】
【製作条件:時計台第二段階修復完了】
最後に、もう一行が現れた。
【製作条件:町の現在を知ること】
修の目が止まった。
「町の現在?」
リペも表示を見る。
「町の健康診断ですか?」
「近いかもしれないな」
七つ目の遺産を作る条件は、珍しい材料を集めることでも、伝説の技術を身につけることでもないらしい。
町の現在を知ること。
あまりにも曖昧だった。
翌朝。
修は町長のところへ向かった。
旅から帰ってきた翌日なので、まずは休めと言われたが、アルドの工具箱と図面を見せると話が変わった。
「第七の遺産が、ない?」
「正確には、俺が作るみたいです」
町長はしばらく黙ってから、深く息を吐いた。
「アルドらしいな」
「知ってるんですか?」
「知るわけないだろ。二百年以上前の人間だぞ」
「ですよね」
「だが、お前が旅から戻ったと思ったら、今度は自分で遺産を作れと言ってくるあたり、ずいぶん人使いの荒い伝説だ」
「俺もそう思います」
二人で図面を見る。
修は【町の現在を知ること】という表示について説明した。
町長は腕を組んだ。
「現在、ねえ」
「何か心当たりありませんか?」
「広すぎる。人口も現在だし、商売も現在だ。町の建物、暮らしている人間、困り事……全部と言えば全部だ」
確かにそうだ。
だからこそ、何を調べればいいのか分からない。
「時計台について聞いて回ってみるか?」
「時計台?」
「町の現在と時計台は、別のものじゃないだろ」
修は顔を上げた。
町長は窓の外を指差す。
そこから、時計台の上部が見えていた。
「お前が最初に時計台を直し始めた頃、町の人間の多くはあれを忘れていた。でも今は違う」
町の人々と時計台の関係。
それもまた、町の現在だった。
修はその日、時計台を直さなかった。
代わりに町を歩いた。
最初に会ったのは、パン屋の主人だった。
「時計台?」
「はい。今、どう思ってます?」
「急にどうした?」
「ちょっと調査です」
主人はパンを並べながら時計台を見る。
「前は邪魔な古い建物だと思ってたな。壊すにも金がかかるし、放っとけばいいって」
「今は?」
「直るなら直ってほしい」
「どうしてです?」
主人は少し考えた。
「最近、旅人が見に来るんだよ。『あれが昔の時計台か』って。うちでパン買ってくれる」
「商売ですか」
「大事だろ」
「大事ですね」
分かりやすい理由だった。
次に、農具を持ってきた老人へ同じことを聞いた。
「時計台か。昔は毎朝鳴ってた」
「覚えてるんですか?」
「子供の頃にな。鐘が鳴ったら畑へ行って、夕方の鐘で帰ったもんだ」
老人は笑う。
「また聞きたいな」
懐かしいから。
それも理由だった。
子供たちにも聞いた。
ロイは即答した。
「秘密基地にしたい!」
「しない」
「なんで!」
「時計台だから」
「上まで登れる?」
「安全になったらな」
「じゃあ早く直して!」
子供にとっては、過去ではない。
これから遊ぶ場所だった。
修は一日かけて、三十人以上から話を聞いた。
答えはバラバラだった。
鐘を聞きたい。
町の目印にしたい。
観光客が増えてほしい。
昔の姿を残したい。
子供に見せたい。
上から景色を見たい。
待ち合わせ場所にしたい。
中に展示室を作りたい。
時計が正確なら便利。
特に興味はない。
最後の答えも、もちろんあった。
全員が時計台を必要としているわけではない。
夕方、修は工房へ戻った。
リペが紙の束を整理している。
「どうでした?」
「分からなくなった」
「調べたのに?」
「調べたから」
修は椅子へ座った。
昔の時計台を取り戻したい人もいる。
新しい使い方をしたい人もいる。
時計さえ動けばいい人もいる。
別にどうでもいい人もいる。
町の現在とは、一つの答えではなかった。
リペが紙を一枚ずつ眺める。
「いっぱいありますね」
「ああ」
「全部入れればいいのでは?」
「何に?」
「第七の遺産に!」
「どうやって?」
「ぎゅっと」
「入らないだろ」
「大きく作ります!」
修は笑った。
しかし、その言葉が少し引っかかった。
全部入れる。
もちろん、物理的にという意味ではない。
その夜。
修はアルドのノートを最初から読み直した。
第一の遺産。
第二。
第三。
第四。
第五。
第六。
旅で出会った人々や、直してきたものを思い出す。
傷みの音。
壊れたものが助けを求める声を聞くこと。
風待ちの音。
急いで動くのではなく、立ち止まることで初めて聞こえるもの。
帰港の鐘。
旅に出た者が、帰る場所を持つこと。
終刻の鐘。
終わるべきものを、無理に続けさせないこと。
継承の音。
過去をそのまま保存するのではなく、次の誰かへ渡すこと。
選択の沈黙。
正解を与えられるのではなく、自分で選び、その結果を引き受けること。
六つとも、時計の作り方ではなかった。
歯車の削り方でもない。
金属の鍛え方でもない。
「そういうことか」
修は呟いた。
アルドは、最後の部品の設計方法を教えなかった。
教えられなかったからだ。
二百年以上前のアルドには、今この町で暮らしている人々が何を望むか分からない。
だから、自分の時代の答えを残さなかった。
昔の時計台を完全に再現すること。
それが最後の修理ではない。
修は新しい紙を一枚取り出した。
中央に円を描く。
時計台の中央機構。
その周囲に、六つの小さな機構を描いていく。
翌朝。
修は町長、ガイン、大工、鍛冶屋、そして何人かの町の住民を工房へ呼んだ。
ロイまでいる。
「なんでお前もいるんだ?」
「町の住民!」
「まあ、そうだけど」
「勇者代表!」
「それは違う」
リペが手を挙げる。
「私はゴーレム代表です!」
「代表制じゃないから」
修は新しい図面を広げた。
「第七の遺産を作ります」
全員が図面を見る。
町長が尋ねる。
「何を作るか決まったのか?」
「まだ完全には」
「大丈夫なのか?」
「だから、みんなに来てもらいました」
修は時計台中央機構の空白部分を指差した。
「ここに入れる部品を、俺一人では決めません」
鍛冶屋が眉を上げる。
「お前が作るんじゃないのか?」
「作るのは俺です。でも、何を作るかは町で決めたい」
アルドは最後の部品を作らなかった。
未来の修理屋に任せた。
なら、その修理屋まで一人で答えを決める必要はない。
「時計台を昔と同じものに戻す必要はないと思っています」
修は昨日聞いた意見を書いた紙を並べる。
「昔の鐘を聞きたい人もいる。町の目印にしたい人もいる。新しい使い方をしたい人もいる。別に時計台なんて必要ないという人もいる」
ロイが手を挙げる。
「秘密基地!」
「それは採用しない」
「まだ話し合ってない!」
「そこだけは決定事項だ」
笑いが起きた。
修は続ける。
「俺が作りたいのは、完成した時計台じゃありません」
町長が聞く。
「どういう意味だ?」
「また変えられる時計台にしたいんです」
全員が静かになる。
修は図面へ一本の線を引いた。
「中央機構を固定しません。交換できるようにします」
昔の時計台は、アルドが完成させた一つの機械だった。
しかし町は変わる。
人も変わる。
必要なものも変わる。
なら、時計台も変われるようにすればいい。
「第七の部品を、時計台の心臓そのものにはしません。新しい機構をつなぐための接続部にします」
鍛冶屋が図面を覗き込む。
「交換式か」
「はい。鐘を変えたければ変えられる。表示を増やしたければ追加できる。将来、俺たちが知らない技術ができても取り付けられるようにする」
大工も理解し始めた。
「つまり、完成させないための部品か?」
修は少し考えてから頷いた。
「そうです」
完成させない。
それは壊れたままにするという意味ではない。
次の人が手を入れられる余地を残すということだ。
町長が笑った。
「アルドが最後の部品を作らなかった理由と同じだな」
「たぶん」
アルドが未来を決めなかったように。
修も、その先の未来まで決めない。
その瞬間。
作業台の上に置いていたアルドの工具箱が光った。
全員が振り向く。
修が触れる。
【第七の遺産】
【状態:未完成】
表示が揺れる。
【設計条件を確認】
【町の現在:確認】
【過去の完全再現:不要】
【未来の固定:不要】
【必要機能:継承可能性】
そして最後に、新しい表示が現れた。
【第七の遺産・製作許可】
リペが飛び跳ねる。
「許可されました!」
「まだ作ってないぞ」
「でも作れます!」
「ああ」
修は図面を見る。
形はまだ決まっていない。
材質も決める必要がある。
接続方法も考えなければならない。
時計台本体との強度計算も必要だ。
仕事は山ほど残っている。
それでも、方向は決まった。
「名前は?」
ロイが聞いた。
「まだない」
「俺が付ける!」
「嫌な予感しかしない」
「超勇者時計部品!」
「却下」
リペも手を挙げる。
「未来スーパー接続ガッチャン一号!」
「却下」
「早いです!」
「名前を聞く前から却下してもよかった」
町長たちが笑う。
その中で、古い鍛冶屋が図面を見ながら呟いた。
「継ぐための歯車、か」
修が顔を上げる。
「継ぐため……」
歯車そのものではない。
しかし、役割には合っている。
過去から今へ。
今から未来へ。
一人の職人から、次の職人へ。
修は図面の上に名前を書いた。
『継ぎ輪』
リペが覗き込む。
「地味です!」
「いいんだよ」
「もっと爆発しそうな名前がいいです!」
「爆発したら困る部品なんだよ」
笑い声の中で、修はもう一度その名前を見る。
第七の遺産。
継ぎ輪。
アルドが作らなかったもの。
そして、修だけで完成させてはいけないもの。
「じゃあ」
修は工具箱を開いた。
「作りましょう」
アルドの最後の仕事を終わらせるためではない。
その仕事を、さらに次へ渡すために。
止まった時計台が再び時を刻むまで、あと少しだった。




